こいのぼり

shibaigoya

「龍は、何になると思いますか?」
「ん? 龍?」

琥珀が突然呟いたのは、山道を歩いた先。山小屋を見つけ、川原でとった魚を焼いている時だ。
この女がオレについて来て数刻。もうすぐ日が傾いて夜になる。
琥珀は基本的に無口だが、たまにしゃべる言葉はこの通り、意味不明なものだ。

「滝を登った龍は、何になると思いますか?」
「ああ」
つまり、鯉が滝を登ると、龍になるというが、龍が滝を登ると何になるのかと、聞いているらしい。
「さぁな。第一、龍はわざわざ滝を登らずとも、川上に行けるだろう?」

「試してみましょう」
「は?」
琥珀が、ずいっと近づく。その言い知れぬ気迫に押され、二、三歩後ずさった。
鬼の末裔ともあろう男が何を情けないと思うだろうが、意味不明のモノが目の前にあるというのは、強者と戦う恐怖とはまた別次元の恐怖なのだ。
そんなオレの葛藤を、分かってか、分からずか、琥珀は更にずいっと近づいた。
真っ直ぐにオレを見つめる目には、悪い気はしない。近づいて来るのなら、抱きとめてしまえばいいとも思う。
しかしこの言い知れぬ恐怖が、その気持ちに覆い被さる。琥珀が近づくに連れて二、三歩下がるのを繰り返していると、とうとう足場が無くなった。
遠ざかる琥珀の真剣な顔と、近づく滝壷の音。

「ああ、そうか」
つまり、オレの名が辰巳だから、龍として、滝を登って見せろと言うことかよ。そんな理由で仮にも夫を滝壷に落とすのかよ。
「うつけ……いや――」 まさか、このオレが誰かに向かってこの言葉を言う事になろうとは……。
「ーー鬼!」
次の瞬間、オレは龍に飲み込まれた。

* * *

その後、どうやって登ったのか、あまり覚えてないが、気がついたら、ずぶ濡れで琥珀の肩を掴んでいた。
本気で、口にする事も憚るような仕打ちをして、この山の中に置き去りにしてやろうかと思った。
でも、琥珀は真剣な顔を崩さず「なるほど、鬼になるのね」と呟いたので、一気に怒る気力も失せた。

「お前は、一体何を考えてるんだ」
琥珀は笑って答えた。
「色んなことです」
たった一言だったが、これから先、こういう風に振り回されるのではないかという予感が駆け巡った。
「虎と、狼なら、どちらが鬼になるかしら?」
「鬼?」
いつの間にか、琥珀は滝を見下ろしていた。
「名前です」
名前……確かに琥珀の文字には、虎と狛があるが……まさか、自分も滝壷に落ちるつもりかよ?
オレが落ちた時には辛うじて日があったが、今は奈落に通じてるかと思うほどに真っ暗だ。
思わず後ろから抱きすくめて引き寄せると、琥珀が首を捻って振り向いた。顔が近い。真っ直ぐに貫く視線にからめ取られた。

「あなたの子に、どっちをつけようかと思って」
「オレの、子?」

まだ夫婦の契りすらしてないのに? いや、その前にオレはハッキリ嫁にするとも言ってないはずだが?
それにしても顔が近いのは何故だ? オレが抱きしめているからだ。
なら離れれば良いだけなのに、何故だか腕がいう事を聞かない。視線が離れない。
頭で危険だと警鐘が鳴り響いているのだが、血の奥の方がボコボコと湧き上がって、なるようになってしまえとせっついている……。
が、そんなオレ葛藤をよそに、琥珀はひょいと、オレの腕から抜けてしまった。

「産まれてから考えればいいわね」
本当に、こいつは何を考えて、何をしたいのかよく分からんが……。

「とりあえず、もう二度と滝壷に落とすなよ」
「はい」
でも、今にはっきり分かったのは、こいつがオレの子を産みたがっているということか。

……。

……いやいや、流されてなるものか!
今日の昼間に出会ったばかりだぞ?! 普通の女が今日出会ったばかりの男の子を産みたいとか言うかよ!
「辰巳さん。お魚が焼けましたよ」
「ああ」
今にボロを出す。わざと悪路を歩いてるんだから、きっと根をあげる。愛想をつかせて尾張に帰るに決まってる!
「んーと、じゃあ、こっちをどうぞ」
「ん、美味いな」
「でしょう。私、美味しいお魚の見分け方、知ってるもの」
「へえ。どんな風に?」
「かぷかぷ笑うのよ」
「かぷ、かぷ?」
でないと、この意味不明の言動する女が、ある瞬間、最高の女に見えるだろう。そうなったら、オレの負けだ。
「エラがね、かぷかぷ笑うの」
「……そ、そうか」

* * *

その日、オレ夢を見た。
端午の節句のこいのぼりを眺めていた。傍には琥珀がいて、何故か息子が二人もいた。(たしか、虎とか狛とか言っていた)
琥珀がその息子たちに「龍は滝を登ると、鬼になるのよ」とか言って、息子たちはこいのぼりを見て「かぷかぷ笑ってるから美味しそう」と言っているのだ。

正夢にならぬように努めねば。
大丈夫、まだオレには隣で寝息を立てている女には、恐怖すらかんじ……

「何故、オレの腕を枕にしているんだ?」

思わず自分が袴も褌もしっかりつけたままなのを確認した。
琥珀は目を覚まさず、寝息は相変わらず規則正しい。そっと腕を引き抜こうとしたが、まるで吸い付いているかのように、頭が離れない。
「……負けて、たまるかよ」
御先祖様、こいつは陸奥最大の強敵かもしれない。

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