六条河原の鬼

shibaigoya

月夜の晩、橋の上に物の怪が出る。
そんな噂が京に流れたのはいつの事だろうか。

六条河原に掛かる橋の上に一人の鎧武者が歩いていた。
川からは夜霧が立ち込め、視界がもやで覆われて、朧月のがさらに霞んで見える。

「ここは、どこだ? あの世か? 地獄か? 極楽か?」
武者が呟いた言葉は、夜霧に消えていく――

――はずだった。

「地獄……のようだな。鬼がいる」
夜霧の中から現れたのは、一人の若者だった。腰に鍔のない刀を差しているが髷をせずに変わった道着を着ていた。
鬼はニイと笑って構える、鎧武者も太刀に手をかけた。

* * *

翌日、静が目を覚ますと、兄の鬼一が上機嫌に川の魚を焼いていた。

「……どうしたの?」
いつもなら、静が起きるのを待ってから焼き始めるのに。
しかし訝しがっている静には気に留めず、普段見ないような顔で笑いながら話した。

「昨晩、六条の橋の上で、ツワモノに出会ったんだ」

ああ、なるほどね。と静は納得した。
兄がこれほど上機嫌なのだ。「強かったの?」などという質問はもう意味を成さない。

「……どんな奴だったの?」

「夜霧に紛れて、顔はハッキリしなかったが、多分オレと同じぐらいの年の男だ。速かった。オレが一撃も食らわせられなかった」

「嘘っ」

「嘘をついてどうする。お互い攻めては避け、避けては攻め……決定的な技を決められずにいたら……日が登り始めたんでな。今夜もまた会う約束をした」

「月夜の逢瀬の相手が男とか……」
京に来てはや三月。元々、兄の上洛目的が「ツワモノと仕合う」という事は分かっていたが、艶っぽい京の女に心惹かれたりしないのだろうか?
修験者のようなその姿勢に、敬服を通り越して不満すら感じていたが、当の本人は「早く夜にならんものかな」などと呟きながら魚を頬張っていた。

* * *

――その夜。

夜霧立ち込める橋の上で、鬼一は武者を待った。
風はなく、川の流れる音だけが響いていた。が、一瞬その川の音が遠のいたように感じた瞬間に、夜霧の向こうから鎧武者の男が現れた。

「待たせたか?」

「それほどでも」

霧の奥からガチャリと鎧で構える音がする。鬼一もすっと音も立てずに構えた。
言葉はいらない。

鬼一が拳を突けば影が避け、鈍色の切っ先が霧を裂いては後ろへ退く。
お互い譲らず、濃い霧で時間が止まったかのような感覚の中――ついに鬼一の脚が胴を捉えた。

しかし、鬼一が凪いだのは甲冑ではない。霧だった。
濃霧で遠近の感覚が狂ったのだろうか。霧の奥から突かれた太刀を後方に飛んで避ける――。

――なんだと……
着地したすぐ背後に気配がする。
振り向きざまに旋を放ったが、やはり霧をかいただけだった。

ガチャリ。
甲冑の音が、すぐ後ろで鳴った。

「もう……夜明けだ」

「……鎧を着てその身のこなし。不思議な奴だな。名を聞こうか」

「よしひら……」

朝日の風と共に霧が凪いでいく――橋の上には鬼一しかいなかった。

* * *

「兄様、おはよ……兄様?」

静が目を覚ました時、鬼一はぼーっと川を眺めていた。
目の下に隈ができている。二日づづけて一晩中戦っていたのだろうか。
いくら呼びかけても返事をしないので、頬をスパァンと叩いた。するとキョトンとした目で静を見返した。

「どうした?」

「どうしたも何も朝の挨拶をしようとしただけ。おはよう」

「ああ、おはよ……」

鬼一は大きなアクビをひとつして、またぼーっと川を眺め始めた。

「……兄様、魚は?」

「魚?」

「……まだ取ってないの?」

「ああ……じゃぁ取ってくる」

のろのろと川へと近づく鬼一。こんな兄の姿は初めて見る。
何かがおかしい……。本当に仕合なのだろうか。一体誰と会って、どのように戦っているのか。

魚を掴んで戻ってきた鬼一に尋ねた。
「兄様、武者の名は聞いたんですか」

「ああ、よしひらと言っていた」

「よしひら……?」

なんだかその名はどこかで聞いたことがある。兄が戦っているのは六条の河原に掛かる橋……。

濃い隈に縁取られている目を爛々と輝かせる兄を見て、静は今夜、こっそり後をつける事にした。

* * *

今夜も深い霧が鬼一を包んでいく。
ひやりと冷たい空気が視界を覆う。

――今夜は満月だ。
月の光が夜霧をキラキラと輝かせ、この世のものとは思えない美しさがあった。

その霧の奥からガチャリ、ガチャリと鎧武者の歩く音が聞こえた。

「来たか、よしひら……」

影が太刀を抜き、構える音がする。
そしてどちらからでもなく間合いを詰めて仕合が始まった。

鬼一の口元から笑みが溢れる。
京に来て三月。これほどまでのツワモノと相見えようとは……。

決着をつけるのが惜しい。ずっとこうして戦い続けたい。
そういう思考が頭をよぎった時、声が聞こえた。

「楽しいなぁ……」
よしひらが、歓喜を帯びた声で呻いた。

「ああ、楽しい……」
反射的に同意の言葉が口をついた。

「ずっとこうしていたいなぁ……」

「ああ。ずっと戦っていたい」

「お前、名はなんというのだ……」

よしひらに問われるままに名を答えようとした時――。

いきなり頬を張られた。

――……ったく、不意打ちかよ!

勢いで脚を払うと、そこに当たった感触は随分軽いものだった。
鎧武者のものとはとうてい思えない。
よしひらは相変わらず目の前にいる。

「あに……さま……しっかりなさい!!」

よしひらの胸の辺りから小さな塊が飛び出して鬼一にしがみついた。
それが何なのか確認する前にもう一度頬を張られ、絹を割くように叫ぶ声が鬼一の耳を劈いた。

「兄様は、一体誰と戦ってるの!?」

「誰って……」

しがみ付く静から目を上げれば、目の前の霧が風に流され晴れていく。完全に霧がなくなると、月明かりの橋は全くの無人だった。

「……こっそりつけて見てたわ。兄様は霧の中で……一人で手足を振り回していただけ!! 一体何と戦っていたの!?」

ひとしきり叫ぶと、静は痛そうに顔を歪めて蹲った。
どうやら蹴ったのは妹らしい、という事に気がつくと、遅れてサッと顔が青くなった。

「だ、大丈夫か静ッ!」

「だいじょ、ぶ……浮身は、どうにか……使ったから」

とはいえ、まだ十にもならない童女だ。
慌てて抱き上げてどこも折れてない事を確認して、ほっと胸をなで下ろすと、そのまま抱きかかえ「すまん」と呟いた。

「……きっと霧に写ったオレの影だ」

「影?」

「ああ。京に来てまだ鬼と仕合えるツワモノと見えてないから、ただの影を人と見間違えたんだろう……」

京に来れば強いやつがいると単純に思っていたのだが、どうもその目論見は外れていたらしい。
もしかしたら平家の将が通るかもしれないと、対岸に平家の本拠地である六波羅へ向かう、この六条河原の橋で構えていたのだ。
しかし移動する時はいつも貴族のように牛車に乗っていて姿は一度も見ていなかった。
だからだろうか、自分の影に鎧武者を重ねてしまったのだ。

鬼一は、そう納得したようだが……静はまだ不安が残っていた。
よしひらという名をどこかで聞いたような気がして、河原にいる旅芸人に、踊りを教わっている時に聞いた。

――よしひら? 鎌倉悪源太の事かねぇ。15年くらい前に、六条河原で斬首されたんだ。

兄が戦っていたのは本当に兄の影なのだろうか。
離れる兄に抱かれながら、その肩越しに遠ざかる橋を見ていると……ガチャリ、と甲冑が動く音が気がした。

「兄様……ここは、もうやめた方がいいわ」

「ん?」

「ツワモノが通るのを待つなら、もっと大きな橋がいいと思うの。大きな橋なら、もっと多くの人が通るでしょ? ここを通るのは、平家かお役人ぐらいよ」

「……なるほど」

「それから、私も一緒にいく」

「静も?」

足手まといになるだけだ、と言われる前に言ってやった。

「そうすれば、また変な幻を見た時に、すぐに頬を叩いてあげられるし」

「む……」

黙ってしまった兄をクスクス笑いながら、静の目はまだ橋を見ていて――一瞬睨みつけると、また兄を振り返ってその頬をぐいとひっぱった。ひっぱり返された。

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