鬼産び ②

shibaigoya

破 陸奥の鬼と、鬼神の巫女

それが、かれこれ……八年前の話です。
それ以来、三吉様こと左近どのはお供えを食べた後、ちゃぁんと働くようになりました。

……といっても、それでも十回に一回ぐらいの割合ですが。
しかも最近気づいたんですが、どうやら働く時は、可愛らしい娘さんや美人なお姉さんが里宮に来て一生懸命お願いした時みたいです。

まったく! 私がいくら「お働きください」って言っても働かなかったくせに!
今だって本殿にねっころがって、ボリボリとお尻を掻いて……お、おならまで……。

「あー、睦月かぁ……今日の飯はなんだ?」

「三日も姿を見せずに、どこに行っておられたのですか?」

「散歩だよ。海の魚が食いたくなってさ。で? また里の奴らの話か?」

「いいえ。私のお話を聞いてもらいに来たのです」

左近どのはめんどうくさそうに、上半身を起こして私に向き直りました。

「どんな話だ?」

「見合いをしました」

「……そうか」

その時の左近どののお顔が、少し寂しそうに見えました。
だから、私は咳払いを一つして、なけなしの勇気を振り絞ったのです。

「でも、無しになりました」

「なんで?」

「私は、三吉様に生涯お仕えすると決めてるからです!」

「……別に神社の神職は尼さんじゃないんだ。結婚しちゃいけないわけじゃねぇんだろ?」

「そうですけど……」

回りくどすぎたのかもしれません。
し、仕方ありません!

「わ、私には……その……心に決めた方がいるのです」

「……どんな男だよ」

「ええと、とても強くて、優しい方です。
でも……いつまでたっても私の気持ちに気づいてくれなくて、鈍感で、その上怠け者でろくに働かないのです。
かと思えば、いつの間にかフラっとどっかに行ってしまって、心配するのも疲れた頃にひょっこり帰ってきて!」

あれ? なんで悪口の方が多くなってるのかしら……。いけないわ!

「でも、男前なんですよ! すっと切れ長の目元なんか特に色っぽくて……」

「……おい、その男って……」

そう……その男性は……。

「すっげぇダメ男じゃねぇかよ。いくら顔が良いからって、そんな男に引っかかってんじゃねぇぞ、馬鹿」

……解って言ってるのかしら。

「でも強いのかぁ~、仕合ってみてぇな。どこにいるんだ? 近所の奴か? 名前は?」

……解ってない……ちっとも解ってない!

「さ、左近どのは……?」

「ん?」

「左近どのは、その……女性に興味はないのですか?」

人の姿を模していても、やはり神は神。
人の女を娶る気はないのでしょうか……。

「いや。興味はオオアリだぞ。これでも」

「ど……どんな女性がお好みなのですか!?」

「ん~、そうだなぁ……」

よし! 頑張って聞き出して、そうなれるように努力するのです!
そしていつか……『睦月、イイ女になったな。オレの嫁になれ』 なーんて!

「健康的で……」

最近はあまり咳き込んだり、息切れする事もなくなってきました。
日々の生活の注意を怠らずにいれば……!

「乳がでかくて……」

う……そ、それは……これから……きっとこれからです!
母様もそんなに大きな人ではありませんが……きっとこれからです!

「年上の……」

頑張って年を取りま……あれ?

「海女さん、とか? ……疲れ切った未亡人ってのも捨てがたいな」

努力ではどうしようもできない領域でした。

「ん? どうした急にへたり込んで……具合が悪いのか?」

「体調というか、心が折れそうです……」

――三吉様の、いじわる。

左近どのの後ろにある、三吉様のご神体を思わず睨んでしまいました。

* * *

社の外から睦月を探す女の声が聞こえた。
多分、睦月の母親だろう。美人だけど、キツい性格しててオレは苦手だ。
よくあんな気弱そうな神主が娶ったもんだ……。いや気弱だからか? それはともかく……。

いつも通り、床下から慌てて出て行く睦月を見送って、オレも外へと抜け出して、相変わらず賑やかな境内を抜け、ブラブラ歩いて、いつも握り飯が供えてある小さな社の所にやってきた。三吉霊神の分社らしいから、オレへの供物ってとこだろ。

遠慮なく頂きながら、ふとさっきの睦月のやり取りを思い出した。
睦月も年頃になって綺麗になったもんだと思えば……。

――私には、心に決めた方がいるのです!

……あー、なんか知らねえがイライラして来た。クソ。

「みなれないツラだなぁ」

声をかけて来たのは近所の婆さんだ。

「若ぇもんが、こんただ所さ座りこんで、何してる?」

「人を探してんだ……ここら辺の男でよ、強い奴って誰だ?」

睦月はそいつが何処の誰だか教えてくれなかったが、あの体だし……遠くのモンじゃねぇだろう。
実際にロクデナシ野郎だったらボコボコにしてやろうかと思った。
……でも、睦月が泣くだろうなぁ……。
じゃぁ、向こう脛を軽く蹴っぱぐるか、もしくはド頭小突くぐらいで我慢してやろう。

「強いってどの程度だが?」

「んー、どんくらいだろうなぁ……」

「それじゃぁ、解らね」

「まぁ、確かにな」
ええと、他になんか言ってたな。

「んーと、じゃぁ……強くて、優しくて、怠け者で、フラッとどっか行ったと思えばひょっこり現れる、顔だけはいい男……」

「……そりゃぁ三吉さんへばながろか?」

「……は?」

「こごら一帯を守ってくだすってる神さんだ。勝負の神さんだべら、そりゃぁ強いんだ。
何年か前さ、江戸から来た相撲取りが勝負挑んで大怪我おいたんだ。
それに飯を供えれば御利益をくれんだがの、怠け者だべら、たまにしか手伝ってくれん。
んでも本当に困ってる時さ、ひょっこり出て助けてくれる……優しい神さんだ。
お面被ってるからツラがいいのがは解らんがの、お兄さんぐらい男前だったら……きっとこごらの娘はみんな巫女さなりたがるへばのう? ふぇっふぇっふぇ」

「そうか。……そういうことかよ」

婆さんに礼もそこそこに、三吉神社へ走って帰った。
参拝客を掻き分けて本殿の裏から床下に潜り込み、抜け穴を通って本殿にはい出して、祭壇の前に立った。

祭壇の天辺に祀られている鬼の面がオレを見下ろしているように見えたから、睨み返してやった。

本物の三吉霊神が聞いてるかどうかわかんねぇが、一言文句言ってやんねえと気がすまねえ。

「結局、アンタじゃねーかよ!」

……まったく、アンタが怠けて里の奴らにお供えの礼をしねぇから、オレが代わりにするハメになって早八年。
オレぐらいマメな働き者もいないだろうよ。そろそろオレにご利益くれても良い頃じゃねぇか?

オレがどんなに働いても里の奴らが感謝するのは結局アンタだし……睦月だって……。

――三吉様に生涯お仕えするのです!

「クソ!」

祭壇を蹴ったら、角が向こう脛に当たった。
……さすが弁慶も泣く所……クソ痛ぇ……。

* * *

「何をされましたか? 左近どの」

床で足を抱えたまま悶絶していた左近が振り返ると、睦月の不安げな顔が逆様に見えた。

「……また来たのかよ」

「お話の途中でしたから……それよりも、足が痛いのですか?」

「ちょっとぶつけちまったんだよ……かっこ悪ぃからあんま見てくれるな」

「いいえ、……みせてください」

睦月が鈴の音のような声をかけながら左近の足を抑えていた手をどけて、袴を上げる。
当たり所が悪かっただけで、本来は頑丈な体だ。青痣にもなっていない。
だが睦月は手を触れてゆっくりと撫でた。

「いたいの、いたいの~」

小さくとも暖かく柔らかい感触が脛の中心で上下する。

「とんでいけ~」

ふぅっと吹き飛ばすように、脛に息を吹きつけられた。

「……どうですか?」

「治った」

治らないわけがない。

「よかった! 神様にも効くんですね、このおまじない」

「……その事なんだがな、睦月……」

出会ってから八年。
睦月もすっかり大人の女だ。いつまでも戯言につきあってやる事もないだろう。

――いや、オレがつきあってもらってたのかもな。

「……オレは神様じゃないんだよ。人間の男だ」

「はい。三吉様が人の模している姿が、左近どのですよね?」

「いや、そうじゃなくて……オレは神の化身なんかじゃない。人間の男と女から生まれた人間だよ。
まぁ、親父もお袋も人間としちゃぁ変ってるけどよ……」

「……なら、何故三吉様のお住まいに住んでいるのですか?」

「雨風しのげる上に、タダで飯が食える」

「何故、三吉様に掛けられた願を、叶えているのですか?」

「そりゃ……まぁ……そうしないと、困るだろ?」

「確かに、村人たちは困ってしまいますね」

「いや、お前が」

「私が?」

「オレがタダ飯くって何もしねぇと、村の奴ら、お前の体が弱いせいだなんて言いやがるだろ?」

「……ならば」

「そう。オレは三吉さんのフリをしてただけで……」

「――やはり、あなたは三吉様の化身です」

思わず振り返った左近の眼が、睦月の大きな、鏡のような瞳に捕えられた。

「――さこん」

鈴の音のような声で名を呼ばれると、目を反らせなくなった。

「あなたは、三吉様に掛けた私の願を、叶えて下さいました」

「いいや、オレは何もしていない。お前が努力したからそうなったんだ。神様なんかじゃ――」

「神とは……なんだと思いますか?」

「は?」

「神とは宿るものです。
熱い夏に木々を走る涼風に。
秋に一面実った水穂の一粒一粒に。
冬の道を帰った囲炉裏の中にある炭の中に。
春に芽吹いた小さな蕾に。

人はそれに感謝します。
厳しい日差しを祓いたもうた緑の清風タケミナカタに。
飢えを凌いでくださる金色の稲オオゲツヒメに。
寒さの中、温もりを下さる赤き炎カグヅチに。
そして――春を告げる梅桜の香コノハナサクヤヒメに。

だから……神とは、感謝の対象のことです。
有難いと感じるものです。
有るのがあたりまえなのではなく、本来なら有るのは難いもの……。
それが有る事に感謝するのが、神の道なのです」

「オレは別に、感謝されるような事は……」

「有り難う御座います、左近どの」

睦月が手をついて深く頭を垂れると、黒い髪が背中から零れる音がサラサラと聞こえた気がした。

「私はあなたのお陰で、三吉様の巫女であると氏子たちに認めてもらえたのです」

「だから、それはオレじゃなくて、お前が――」

「さこんどの」

再び顔を上げた睦月と、また目が合えば言葉が出てこなかった。

「私は三吉様に生涯お仕えするのが宿命と思っております」

左近はその視線から逃げるように、無理やり目をそらした。

「だから、オレは三吉様なんかじゃないぞ……んで、ただの人間でもない」

「え……?」

「陸奥の鬼だよ」

「陸奥の……鬼?」

「ああ。己がこの浮世で一番強いと神様に喧嘩を売った修羅の一族だ。巫女さんに仕えてもらうような奴じゃない。
ここにいりゃ、タダ飯食えるし、腕自慢が挑んでくる。神様の住まいに勝手に住み着いた、陸奥の鬼だ」

「ならば、わたしも陸奥の鬼です」

「……は?」

「私の名は睦月。左近どのが陸奥鬼。字は違えど音は同じく“むつき”です。
左近どのは鬼で、三吉様は鬼神。私は鬼神の巫女です」

左近は何かを言いたげに口を開いたが、声を出す前に睦月が続けた。

「それに、あなたが何者であろうとも、
こうしてお社に住み、人々の信仰と尊敬と感謝の対象となっているのですから、もう立派な神様です。
私は、あなたのお側で、あなたのお世話をしたいのです」

「……」

「ご迷惑ですか?」

「いや、有難い」

「で、では……!」

「でもな、オレは三吉様じゃないんだから、生涯仕えるこたぁねえぞ。嫁に行くなら早く行け」

ゴンと音を立てて睦月の額が床にぶつかった。
あまりに勢いよくぶつかったせいか祭壇も揺れて、祭壇に祀られていた大きな鈴が転がり、左近の頭頂部に直撃した。

* * *

それからさらに数年。
相変わらず怠け者の三吉様こと左近に睦月は甲斐甲斐しく世話を焼いていた。

三吉様の為に作った飯を本殿に運ぶ。
そこで村で起こったことを話し、どこそこから腕自慢が参拝に来たと伝えれば行って勝負をする。
崖崩れで氏子が困っているという話を伝えれば、八回に一回ぐらいは夜中こっそりと大岩をどかしてやる。

たまに居ない事もあるが、腹が減れば帰ってくる事を知ったので、睦月も心配するのをやめた。
だが……未だに睦月の思いは届いていなかった。

もはや自分に対して気がないのかと思えば。

「お前は、本当に綺麗だなぁ……」
などと事もなげに呟く。その度に茶碗を片付ける手が止まり……

「なんで嫁に行かないんだ」
と言われて、盛大にぶちまける。

「だ、だから……私はあなたに仕えてるので……!」

「そんな事ばっか言ってると、貰い手いないまま婆さんになっちまうぞ?」

「……それでもいいです」

「いいわけあるか」

「お婆さんになれるのなら、それでも――」

「あ……」

左近はバツが悪そうに頭を掻いた。

「……気になさらないで。私、医者に大人にはなれないと言われて育ちました。
それでもこうして、二十歳になるまで生きました」

「いい加減だな、医者って」

「ですね」
クスクスと笑う声に、すこし咳も混じった。

「でも、もったいねぇよ」

「何がですか?」

「お前は美人だし、気立てもいい。いい女房になれそうなのになぁ」

「……ばーか」

睦月が冷たい目で睨むのを、左近は不思議そうに見返した。

「……いや、オレが馬鹿なのは知ってるけど」

「いいえ、あなたはあなたが思っている以上に馬鹿です! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」

「な、なんだよ急に……」

「私にだって心に決めた人がいるんです!」

「ほーう? どんな奴だ?」

「強くて、優しくて、でも怠け者で、鈍感で、フラフラとどっか行ったと思えばひょっこり帰ってくる、顔だけはいい方です」

「……それ悪口になってねぇか? ん、でもなんか聞いたことあんな……」

べチンッと乾いた音を立てて、左近の両頬が睦月の両手で挟まれた。
少しヒリヒリする。

「なによ! 最強か何か知りませんけど、所詮この神社に来る目立ちたがり屋の腕自慢相手じゃないですか!
最強目指してるなら、自分の足でもっと強い人探しに行きなさいよ、この怠け者! 鈍感! 馬鹿!」

睦月が肩を上下にしているのは、体調のせいだけではないだろう。
今にも泣きそうな目をぐっと堪えて左近を睨んでいた。

そして左近は睦月の話の途中から、何かに衝撃を受けて、細い目を見開いていた。

「……睦月。そうか……オレ、馬鹿だからやっと気付いたぜ」

「さ……左近どの、やっと気付いて下さったんですね!」

「ああ、ここに来る腕自慢って、皆江戸一番って触れ込みだったもんな。
きっと江戸には強い奴が溢れかえってんだろうなぁ……」

「……はぁ?」

「遠くて面倒だけど、ちょっと行ってくるか……。睦月、しばらく空けるから、村の奴らには適当に……」

「左近どのの……」

「ん?」

「大馬鹿者!!」

左近は自分が何故平手を打たれたのか、よくわからなかった。

* * *

左近が江戸へ行ってみると言って数カ月。
睦月は一人、藁を敷き詰めた部屋に籠っていた。

一人でいると色々な思いが溢れてくる。

――左近どのは……私を貰っては下さらないのかしら。

この時期は感傷的になってどうもままならない。
もともと丈夫な体ではない。大人にはなれたが、この先は……

『子は産まない方が……いいかもしれません』

医者にそう宣言されたのは、数年前だ。
これで、本人の意思に関わらず進んでいたはず縁談は反故となり、他の縁もこなくなった。
父は何も言わず神学の勉強に一層力を入れ、母は夜中ひっそりと涙を流した。

子を産むなと言うのなら、 何故、私は女として生まれたのだろう。
何故、月事の物忌が来るのだろう。
何故、一人の男にこのように焦がれるのだろう。

溢れる感情が滴となり、ぽたりぽたりと流れていく。

男からすれば、嫁は健康な女がいいに決まってる。
丈夫な子を産める女がいいに決まってる。

睦月の脳裏に何年も前から見ていた光景が浮かんできた。
思い出さないように無理に押しとどめようとしても、はがいじめにされ無理やり目の前に突きつけられる。

地鎮祭で村まで行く時、通りかかった川原で寝ころんでいた左近に、笑顔で握り飯を渡す少女。
祭りにの時に、鼻緒が切れた艶やかな女に肩を貸し、直してやっている左近。
社に向けて祈る美しい娘を、じっと見つめる左近の目。

私だって、川原で一緒に握り飯を食べたい。
綺麗な着物を着て祭りを回りたい。
あの目で……見つめられたい。

この体に生まれた事は恨んではいない。それは母や父を恨むことになる。
あの人に心を寄せた事を悔やんではいない。それはあの人を憎むことになる。

だが、時々そう思ってしまう時があり、そんな自分がどうしても嫌だった。

――私がもっと強ければ……。

私の名は“むつき”。あの人と同じ『名』を持つのに。

折れそうになる心を必死に繋ぎとめて声を上げずに泣いていた。
かすかに聞こえる鈴虫の声が、自分の代わりに泣いているように聞こえた。
やがて月の明かりが窓から差し込んだ頃、涙に汚れた頬を白い袖で拭い顔を上げた。

「……よう、ただいま」

左近の顔が、覗いていた。

「さ、左近どの……いつから?」

「んー、いつからだろうなぁ……」

泣いている所を見られた。しかもこの部屋にいる時に!
そう思うとこの身を消し去りたい程の羞恥が体中を駆け巡った。

「お、女の物忌の部屋を覗くなんて……何を考えてるんですか!」

「睦月はどこかなー。お、いたいた……ってところだ」

「つまり何も考えてないんじゃないですか! はやくこの部屋から離れて下さい! 私を見ないで!」

「なんで?」

「私は……今、穢れてますから……」

「お前は綺麗だぞ? オレが出かける前より綺麗になったんじゃないか? どこが汚れてるってんだ」

「どこが……って……」

なんとなく、尻の下に敷き詰めた藁をそっと寄せて隠した。

「あぁ、たしかに顔は汚れてんな。泣いてたのか? 誰に泣かされたんだ?」

「……あなたです」

「オレ? オレは今帰ってきたばかりだぜ?」

「あなたを思って泣いていました」

「なんで?」

キョトンとして何もわかってないような表情と声。
わざとなのか、本心なのか。どっちにしろ、もう睦月には限界だった。
ぶわぶわと涙が溢れて、拭いもしないまま「馬鹿! 馬鹿!」と叫び続けた。

左近は少し困った顔をしながら、その言葉の刃を黙って受けていた。
やがて、睦月もつかれたのか、叫ぶのをやめたが、今度は咳が止まらない。
その咳も治まって来たころ、左近が声をかけた。

「……なんだかお前、変だぞ。オレが出かける前から。すぐ血が昇るつーか……」

「あなたのせいです! あなたが私の心を乱すからです!」

「なんでだよ」

睦月は睨んだまま続けた。
本当はこんな所で、こんな風に責めるように言いたかったわけじゃない。
でも、もうどうにでもなってしまえばいいと思っていた。

「左近どのは……誰も娶る気はないのですか!? 妻にしたい女はいないのですか!?」

「いるぞ。でもオレと一緒になると苦労かけるの目に見えるしなぁ……。
それに他に気のある男もいるみたいだし……」

「え……」

いないと答えて欲しかった自分に気がついた。
こんな醜態をさらしてしまっては……もう望みはない。

「……誰ですか」

川原で一緒に握り飯を食べていたあの少女か。
祭りの時のあの美女か。
それとも……江戸で出会った女だろうか。

「お前」

左近の放った言葉を認識するのに、ひどく時間がかかった。

「……ダメか? やっぱりお前は巫女さんだもんなぁ……一生、三吉霊神の巫女でいたいんだろ?」

「いえ……あの……」

「それに、お前には心に決めた男がいんだろ? しょうがねぇよな……」

「あ、あの……あの!」

「ん?」

「もう一度……もう一度言ってください」

「……しょうがねぇよな?」

「それではなくて……あなたが、妻にしたい女が誰か……」

「だから、お前だよ」

「名を……名を問うて下さい!」

「え? お前、睦月だろ?」

「いいから! 私に名を聞いてください!」

変なことを言う女だと思われたかもしれない。
しかし睦月にとって、それは大事な事だと察したのか、訝しがりながらも言った。

「……お前の名は、何と云う?」

「音はむつき。字は睦まじの月」

「んー。まぁ知ってるけど」

「私の名を呼んでください! 妻にしたいのでしょう!? 名を呼び、そう言うのです!」

「……一緒になってくれるのか? 睦月」

「はい!」

「でも、一生、巫女さんでいたいって」

「私にとって、三吉様とはあなたです。左近どの」

「心に決めた男がいるって……。
えーと、強くて優しくて、怠け者で、フラフラどっか行ってひょっこり帰ってくる、顔はいい男?」

「それもあなたです。左近どの」

「はぁ? 強いのは認めるが、オレは優しくねえだろ?」

「私は優しいと思います」

「それに散歩はよく行くけど、こんなに長い間留守にしたのは今回ぐらいで……」

「一日以上帰らないのは、散歩とはいいません」

「それに、オレは働き者だろ?」

「働き者とは、毎日働く人の事です。あなたのように気が向いたときだけ働く人の事ではありません」

「それから顔は……まぁ、いい方か」

「そこは認めるんですか」

「……オレの事なら、ハッキリそう言えよ。わかんねえだろ?」

「わからな過ぎです! それに……こういう事は、男から言うものです」

「そんなめんどうくせぇ事、誰が決めたんだよ」

「まぁ、イザナギ命とイザナミ命の話を知らないんですか?」

「知ってるけどよ……本当に一緒になるのか?」

「あなたが望むのならば」

「その……オレはよ、普通の男とは違うんだ。お前に辛い思いをさせると思うぞ」

「あなたと一緒にいて、なんの辛い事などありましょう」

「……本当に、後悔しないな」

「後悔など」
――もう二度と
「しません」

「そうか。……わかった」

と、左近の顔が一瞬引っ込んだと思うと、戸がガタガタと揺れた。

「おい睦月、なんかつっかえてんぞ。開けろよ」

「え……何を……?」

「お前をここから連れ出すんだよ」

「だ……ダメです! 私は今、穢れているし……」

「だから、お前は汚れてないっつってんだろ?」

「いえ、だから……その。物忌なので外に出るわけには……」

ズン……と一度大きな音がし、戸が揺れると、つっかえ棒が飛ぶように外れ、戸が開いた。

「オレはお前の言う通り怠け者だろうよ。
だから、決めた時に動かねぇと、後で面倒くさくなっちまう。
穢れだとか、物忌だとか、神様が決めたしきたりなんざ、回りくどくて面倒くせえ。
オレは鬼だ。神様に喧嘩売った陸奥鬼だ。だからやりたいようにやる。行くか? 行かないのか?」

「え……えーと……」

「……やっぱり、巫女さんが神様に喧嘩売った一族の男と一緒に行くのは……気が引けるか?」

睦月はぐっと足に力をいれて、立ちあがった。

「……いきます」

「お前も神様に喧嘩売る気か?」

「ええ、だって……私も“むつき”ですもの。陸奥鬼どの、私は、あなたと、いっしょに、いきます」

その夜、神主は夢と現の境目で、境内から鈴の音を聞いた。
物忌中のはずの娘の姿がなくなった事に気がついたのは、翌朝だった。

娘の母は、方々を探し回ったが……神主はある事に気がついた。
物忌の小屋の前にあった、大きな足跡。
しっかりと地面を踏み締めて立っていた、男の裸足の跡。

すっかり憔悴した妻の肩を、神主は優しく抱き寄せた。

「あなた……あの子がどこにもいないの……あの体で、どこに行ったというの!?
無茶ができない体というのは、あの子自身も解ってるはずなのに!」

「だからこそ、行ってしまったんだよ……。あの子は三吉霊神に嫁いだんだ」

神主は、生涯を三吉霊神に捧げるという娘の望みが叶った事を祝った。
体の弱い娘が誰かに嫁ぎ、女としての幸せを得るという、妻の望みが叶った事を祝った。
祝福と感謝を込めた拍手の音は、葉月の空に天高く響き渡った。

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