がしゅら 1

shibaigoya

肉と肉がぶつかりあう音が、人々の歓声にかき消される。
ぐぐっと、腕に力が入ると、相手の巨躯が浮き上がった。そして、ズゥンと地響きが立つ。

――あー、やっぱり西の奴が勝ったか。……どうでもいい。

左近がわざわざ江戸まで来たのは、強い奴がいるかもしれないという期待もあった。
が……試合といえば、こういった力士の興行ぐらいで、左近が……陸奥が求める「強さ」とは程遠い。

――まぁ、相撲として仕合ったら、そこそこ楽しめそうな奴はいるけどな。
なんつったっけ、昨日の力士……た……谷か、ぜ?

しかし、力士というのはとにかく江戸中、日本中の庶民の人気者。それだけにやけに気位が高い奴も多い。
神聖な土俵にどこの馬の骨とも知れん男を上げられるかと取り合ってもくれない。

――親父やご先祖様方だったら、そこで押し通るんだろうがな……

左近には「めんどうくせぇ」事でしかなかった。

――どこかに……

「どこかに真のツワモノが落ちてねぇかな……」

口を動かしてないのに、自分の考えていた言葉が聞こえた。
それはすぐ隣に居た、もやしみたいに色白で細い一五、六ぐらいの少年から発せられたようだ。
着物から延びる腕は、鍛えられているどころか、骨折すらした事もなさそうな細い腕。
左近の拳どころか、デコピンで吹っ飛びそうな体だった。
弱そうに装ってるわけではない。正真正銘、弱い。なのになんでツワモノを求めてんだコイツ――。
少し興味を持った。だから、声を掛けた。

「ツワモノだったら、今勝った相撲取りがいんじゃねぇか……あー」
左近は必死にさっき勝った力士の名前を思いだそうとしたが、少年はすぐに「違う」と否定した。

「あれは……“鬼”じゃねぇもん」
「何……?」
ドクン……と、久々に血が動くのを感じた。
もちろん心音など、密着しているわけでもないのに聞こえるはずは無いのだが、少年はそれを聞いたかのように左近を振り返った。目がギョロギョロと大きく、まるで左近に穴でも開けようとしているみたいだった。

「……ちょいと、兄さん」
少年の細い腕がすっと伸びて来た。肌は白いのだが、なんだか煤けている。

「いいカラダしてんな」
にいっと笑いペタペタと、左近の腕を触った。その指がスッと腕の筋をなぞると、ゾワっと悪寒が走り、鳥肌が立った。
しかし少年はそれも気にせずギラギラと光る視線を今度は胸の方へ這わす。
そして、仕合でも滅多に取られた事のない、左近の襟を掴んだ。

「……もっと良く、見せてくれ」
そして、一気に上着をおろされ、左近の分厚い胸板が、日の元に晒された。

左近は一瞬目の前が真っ白になり、少年の右腕を掴んで引っ張り上げた。
我に帰り、少年が痛がっているのを見て少し力を緩めてやろうと思った。

「ちょ、ちょっとまって! そのまま! そのまま腕を上げてて!」
そして、ぺたりと左近の胸板に左手を置く。このまま力を入れてへし折る事にした。

「ま、まて、まって! 腕は折らないで! 頼む! ごめん! 腕を折られたら、絵が描けなくなる!」
「あ?」
その時、少年の懐から、バタバタと物が落ちた。木炭のカケラと、絵の描かれた懐紙が十数枚。
力士の絵。朝市の町人の様子。山河の風景。農民の田植え。江戸の町、動物、植物、老人、子供……。
どれもこれも、木炭だけで書かれているのに、まるで色や音、空気の匂いまで伝わってくるようだった。

「……これ、全部お前が描いたのか?」
「うん」
左近は生まれた時から強くなる事しか教えられてないし、左近自身もそれしか頭になかった。
だから「すげぇな」としか言いようが無かったのだが、この気持ちは「すげぇ」だけではシックリとしなかった。
しかしそれ以上どう伝えればいいのかが解らない。
一枚手にとって、じっと見た。見た事がない風景なのに、目の前に広がっていて、見ているような感覚。
頭を絞って言葉をひり出しても、やっぱりこう言うしかなかった。

「……すげぇな」
「ありがとう!」
少年は満面の笑みで答えた。

「……でもまだまだだ……オレ、妖怪絵描いてんだけどさ」
少年は懐から、もう一つ紙の束を取り出した。美しい女の幽霊、醜く爛れた物の怪。異形。
「鬼が、上手く描けねぇんだ。市場に並んでる鬼の絵はさ、腹がぽこんっと出てヒョロヒョロしてる餓鬼ばっか!
もっと鬼っつーのはさ、荒々しくって強くって……見てるだけで、足がすくむような……そういうのを言うだろ?
でも、何度描いても、上手くいかねぇんだ!」

紙の束のうち新しい方は、鬼の絵ばかりだった。
どれも上手く描かれているように見えるのだが、途中まで描いてはぐしゃぐしゃと消されていた。

「……でもさ、さっきお兄さんに腕引っ張られた時……ちょっと掴めそうだと思ったんだ。
だからさ、お兄さんを描かせてよ!」

「オレを、鬼にかよ」

さっきベタベタ触ってきたのも、絵に描く為かと思えば、少しは納得出来た。
でも、女ならともかく、男にあんなにネットリねぶるように触られるのはいい気分じゃない。

「飯ぐらいはおごるよ!」
「乗った!」
考えるより先に同意してしまった。腹が減ってたんだから仕方が無い。

 

***

 

少年の名前は時太郎と言った。年は十六。丁度左近の十歳下だった。

「母ちゃん! 父ちゃん! ……は、畑かな? ま、いいや。上って!」

時太郎に腕を引かれて、家に上げられた。特に大きな家では無い。どこにでもある、小さな農民の家だ。
しかし、奥の襖を開けると、そこは奇妙な空間が広がっていた。
まず鼻をつく、炭と墨汁の匂い。もしかしたら墨汁そのものが空気になっているのではないかと思う程だ。
床にも、壁にも黒い染みがベタベタとついていて、しかも、墨汁の中に小さなゴミが入って一緒に固まっているものもある。
ちょっとやそっとじゃ落ちるものでは無いと思った。
と、いうよりここを片付けるという行為そのものが「めんどうくせぇ」と思う。

だが、あちこちに散らばっている紙には、その一枚一枚に目を引くような絵があった。
一歩足を踏み出せば、絵を踏んでしまうと思い、部屋に入る事も躊躇われた。しかし時太郎は散らばった紙や板を適当に重ね、グラグラ揺れているのも構わずはじに寄せ、「そこに座って」と指示をした。

「じゃ、脱いで!」
男二人しかいないのに、脱ぐというのも躊躇うが、時太郎は既に紙と木炭を握りしめている。
飯のためと割り切って、上半身を肌蹴た。

「下もだよ」
「は!?」
「筋肉がどういう流れでくっついてるか見ないと、ちゃんとしたの描けないよ」
「自分ので確かめりゃいいじゃねぇか」
「だって、陸奥さんの体が綺麗なんだもん。その体が見たい」
「……できりゃ、女に言われたかった」

時太郎はサラサラと木炭を走らせ、自分の顔をその紙で隠した。
「陸奥さんの体、アタイに見せて」

女の顔を描いた紙の後ろで声を裏返してそんな事を言うので思わず吹いた。
「顔は別嬪さんだが、体が男じゃねぇか」
「まぁ、ひどい! この乳見てもそんな事言える!?」
サッと胸の前に出した絵は、ふくよかな女の乳房が一対描かれていた。

――ほほう。

「オレぁ、もっと小振りでも、張りの良いのが好きだなぁ……」
「なにっ!?」
左近は挑発した口調で続ける。
「もっとこう、ツンと上向きで、握っても押し返してくるような……んで中心はぷっくりと……まぁ、ガキには解らんかもなぁ」
「く……こうか!?」

――やるじゃねぇか。

「さぁ、今度は陸奥さんの番よ!」
再び、顔と胸を絵で隠し、声を裏返す時太郎。しかし

「おいおい、これで終わりかよ」
「え……」
「オレは上半身晒して、そっちも胸を出した。これでやっとおあい子だろ……下も見たけりゃ、お前も見せろ」
「な……なんですって!?」
裏声のまま答える時太郎に、左近は意地悪そうににいっと笑った。
「そうか、お前は見た事無いもんは描けねぇんだったなぁ……」
「ば、馬鹿に……するなぁ! 見た事ぐれぇ、あるわぁあ!」

時太郎は、顔と胸と、両足をへの字に曲げて開いた中央に、絵を置いた。

「どうだぁああ!」
「馬鹿か! そこまでやったら、頬の一つでも赤らめさせろ!
こう、怒りと恥じらいが入り混じって、『別に、見られたって減るもんじゃないから、平気だもん』みたいな」
「把握したっ!! 若干目をそらして涙を溜めるんだな!?」
「お、解ってきたじゃねぇか!」
「それで『あ、ダメ……見られてるだけなのに……あたし感じてる……?!』みたいな!?」
「自己嫌悪と快感の狭間みたいな!!」
「ならばこっちのほうも、こんな感じに!!」
「こっちももっと、くぱぁと!!」
「くぱぁと!!」

異様な熱気の中描き上げた絵を、再び顔と胸と足の間に装着する。

「陸奥さん、こ……これで……見せてくれますよ……ね」
「あぁ、見せてやろう……鬼というものが、どんなものかな!!」

左近が勢いよく、袴と褌を脱いだ時だった。

「あんれぇ、時太郎。帰ってたんなら畑に出てこんか……」

時太郎の両親が帰って来た。

「……ほ、豊作じゃーーー!!」
「時太郎の絵から、豊作の神様がでてきおったぁああああ!!」
「隣のサヨちゃん、子供いないの悩んでたから、ちょっと連れてくる!」
「ありがたやー! ありがたやー!」

自分の下半身に向かって拝み始めた父親を見ながら、サヨちゃんとやらが来るまでこのままでいるべきか否か、真剣に考える左近をしり目に、怒涛の如く絵を描き始める時太郎。
もしも左近がこの時、もう少し冷静だったら、こう思っていたに違いない。

――この状況、めんどうくせぇ……

 

***

 

豊饒の神様と間違えられたお陰か、左近でも食いきれない程の米や野菜が近隣の家から捧げられた。
一応神様ではないと、時太郎からも誤解を解いたのだが……。

時太郎の家に泊めてもらう事になり、食事も貰って、寝床も用意してもらった。
しかし、時太郎はずっと自分の部屋に籠っていた。

左近は翌朝の部屋を覗いたが、それにも気づかず絵を描き続けている。
もしかしたら、一晩中寝ずに描き続けてたんだろうか。

「やっぱダメだぁ……」

時太郎がごろんと天井を仰いだ。

「おいおい、オレをあんな目に合わせておいて、そりゃないだろう」
……でもまぁ、ジジババは兎も角、若い娘に拝まれるのはそう悪いもんじゃなかったが……。

「……鬼の形は完璧だ。でも、これを“鬼”とするには、まだ……足らんものがある」
「何だよ」
「それが解れば描いてるよ」
「まぁ、そりゃそうだな」

左近も腰を下ろすと、近くにあった絵をなんとなく手に取った。昨日とは違う女の絵が何枚もあった。

「……妙に描きなれてると思ったが、こんな絵ばっかじゃねぇか」
「春画の方が、小遣い稼ぎになるんだよ」
「ふーん」
「それにな、普通の絵だと、お上が煩いんだよ。やれこの色を使うな、この技法を使え、構図はこうだってさ」
「こういうのの方が禁止されてんじゃねぇか?」
「あぁ、禁止されてる……だから、その絵は存在しないんだ」
「は?」
「存在しないものを、お上が規制できるわけねぇだろ?
春画はいいぜぇ……どんな色や技法使っても、どんな構図でも、誰も咎めねぇ。
それに……普段絵を見ない奴にだって、オレの腕前を解ってもらえるしな」
「……ま、確かにな」

「でもやっぱ、人気商売だからよ、受けが良いの描かなくちゃいけねぇ。なんつうかさ……オレもこういうの描くの嫌いじゃないんだけどさ、同じような絵ばっか描いてると、本当にコレで満足できるのかどうか、わかんなくなって来るんだ」
「そうか? この女なんて、絵だって解ってんのに、しゃぶりつきたくなるけどな」
「うーん……もっとこう、斬新なモノが……。
陸奥さんは、なんか『こんなのにムラっと来たのオレだけじゃねぇ?』ってのない?」
「は?」

「オレさぁ……田植えしてる女の後ろ姿とか見てるとさ、こいつ誘ってるんじゃね? とか思う。
ケツ突き出して、後ろ歩きで迫ってくるんだぜ」
「あぁ、わかるなソレ」
「陸奥さんは?」

「うーん……あれは、何年前だったかなぁ……。
魚食いたくて、でも取るのめんどくせぇし、トビウオが口ん中に飛び込んでこねぇかなぁと、海辺歩いてたんだ」
「めんどくさがりすぎだよ、陸奥さん」

「でな、えれぇ別嬪な海女が居たんだよ」
「海女……」
「んで、タコつぼからタコを取ろうとしててさ……でも中々取れないわけよ。なんとか引っ張り出したら、タコつぼん中に三匹ぐらいタコがいたらしくてな、ボトボトッて海女さんの胸や腹に落ちたんだ。慌てて取ろうとするんだが……タコの奴が張り付いて中々離れねぇ。
その内、吸盤でつねられたみたいでな……痛い痛いと泣き出したんだが、こう、タコの足に絡められた乳とか、腰とかな……暫く見てた。そしたらその海女さんと目が合ってな、痛みで潤んでた目が、恥ずかしそうにソワソワして……でもタコにつねられて、ビクンと体がはねて……真っ赤な顔で懇願した目で、『助けてください』と……」
「……そ、れ、だ」
「ん?」
「よし、陸奥さん! 気分転換だ! 外行こうぜ!」
「おお」
「懐にしまったソレは返してよ」
「……ばれたか」

 

***

 

左近は時太郎に連れられるまま、隅田川の方へ行った。そして時太郎の馴染みだと言う団子屋に入る。

「オレ、いっつもこうやって、人の顔見てんだ。疲れた顔、嬉しそうな顔。全部目に焼き付けてる」

時太郎と同じように、人を見てみる。自分は道を歩く男の剣術の腕前、力の強さ。そういったものに目が行きがちだ。
自分が戦う事しか考えていないように、時太郎もまた絵を描く事しか考えて無い。
炭で黒い手も、墨汁で汚れた着物も、絵の修練の結果だ。そして――

「お、別嬪さん」
「うん、別嬪さんだ」

結局は、こうなる。

「目に焼き付けてるのは人だけじゃねぇ。景色だってそうさ」

と、時太郎は親指だけを広げた手の平を、上下に伸ばして大きな四角を作る。
「オレの夢はさ、この世の全てを絵に描くんだ。この世だけじゃねぇ! あの世だって描いてやらぁ! この浮世の全てを描いて描いて描きつくす!! 天上天下、無双の浮世絵師だ!」

「へぇ、大したもんじゃねぇか……」

「……馬鹿にした?」

「いや。まさか武道と全然関係ない所から、オレと同じような夢が聞けるとは思わなくってな。
オレの家はよ、代々無手で、剣にも銃にも負けない技を練って、この世で一番強くなる事だけを考えてんだよ」

「へぇ~、だからそんな体してんだなぁ……」

「……でもよ、もうその夢、叶ってんのかもな」

「え?」

「この太平の世じゃよ、誰も本気で勝負しねぇ……いや。勝負する事が出来ない……ってのが正しいか。
剣術ってのはお武家さんの習い事。相撲だってありゃただの興行。だ~れも戦って命取られる心配もしねぇ。
……この世にオレより強い奴は、もういねえのかねぇ」

時太郎がぎょろりとした視線を向けた。

「おこがましいよ」

「あ?」

いきなり何を生意気な事を……とは、思わなかった。
時太郎の目は、少年にありがちな世界の中心に自分がいる……そういう目じゃない。自分の力量を弁え、世界の中心から自分がどれだけの距離があるのか測っているような……達観した、それでも挑戦する目。

「……陸奥さんは、本当に日本中探したのかい? どうせめんどくせぇとか言って、碌に動いてないんだろ。
今までは奥羽だか出羽だかにいたんだろ? 江戸より西に行ったことあんのかい? 南は? 北は?
清にも、琉球にも蝦夷地にも、どーせ行った事ねぇんだろ? その向こうにもデッカイ国、小さい国、わんさかあるんだ。
その中に、自分が知らないだけで、自分より上手い奴なんてどれだけ居ると思ってんだ。
この浮世ってのは、オレ達が思ってるよりずっとデッケーよ。
今すぐでも歩いて見にいかないと……すぐにオッサンになって、爺さんになって、動けなくなるんだ」

それは左近を通して、自分自身にも言っているようにも思えた。
――御先祖様方も、そうやって旅してたんだろうねぇ。

左近は時太郎から視線を外すと、すっと立ち上がった

「……行くの?」
「ああ、厠に」

あきれ顔でため息をつく時太郎を笑いながら左近は店の裏へと行く。
時太郎は暫くその顔で人の流れを見ていたが、やがて懐から紙を出すと、ガリガリと絵を描き始めた。先ほど通った別嬪さんだ。まるで、目の前に本人が居るかのように、スラスラと正確に、記憶の中から写し取る。一度見た物は細部まで忘れないのが、時太郎の特技だった。
そして、絵を描く時の集中力は、絵師仲間の誰よりも凄まじい。そのお陰で、周りの人も音も、何も気に留めなかった。だから――

「おい、聞いてんのか小僧!」

自分が素行の良く無さそうな男に因縁つけられてる事にも気づいていなかった。
大声出しても顔を上げない事に、カチンと来た男は、時太郎が描いている最中の絵を下から蹴りあげ、そのまま顔に当てた。

「へ? なに?」

自分に起きた事を把握出来ずに鼻血を出したまま、暫く仰向けに寝ていた。
しかし、状況を認識するよりも速く、襟を掴まれ、立たされる。

「お前、誰の許可で俺の絵なんか描いてんだ?」
「え? あんたなんか描いてないよ?」

どうやら、時太郎が一心不乱に筆を走らせ、時折思い出す為に首を上げるその位置にこの男が居たらしい。
もちろん、時太郎の目には何も映ってないし、この男を描いていたわけじゃない。しかし、この言い方がさらに男を逆撫でたらしい。耳元でまくし立てられ、何を言われてるのかさえ解らなかった。

「まーまー、落ち着いて、ほら……さっき描いてた奴……」
先ほど、途中まで描いていた女の顔の下に、サラサラと裸体を描き加える。

「ほら、コレあげるから許し――」

紙が、刀で両断された。

「……俺の色ぁ女じゃねぇ」

――そっちですかい!!

時太郎は美少年を艶っぽく描く技術はない。これは腕というよりも嗜好の問題だ。
と、いうよりこの状況をいくらなんでも絵を渡して納めるのには無理がありすぎたかもしれない。

――どうしよう、どうしよう……

「ふざけた事言いやがって……さっき買ったこの刀の試し切りしてやる……おい、お前らこの小僧押さえてろ」

時太郎はあっと言う間に二人の男に抑えられ、右腕を延ばされ、袖を捲くられた。
「え? まじで?」

男はにぃっと笑いながら、わざと焦らすようにゆっくりと刀を構える。

「う、腕は勘弁してもらないかなぁ……なんて……」

もったいぶるように、上段へ。

「あ、足とか……せめて左腕で……なんなら俺のケツ差し出してもいいよ……でも右腕だけは! 頼む! やめてぇええ!」

振り下ろされた刀は、岩に当ったような音を立てて止まった。

「あ……陸奥さん……」
左近が、右腕の筋肉だけで刀を止めていた。血は多少出ているが、切れているのは皮だけだ。

「とんだナマクラ刀つかまされたんだな……いや、ナマクラなのは、あんたの腕か」

「なんだと!? お前ら、やっちまえ!」

「ったく、今時こんなに若ぇのに、身の程を知ってる奴もいるってぇのに……」

後ろから襲いかかった男二人を、たった一蹴りで倒すと、その勢いのまま正面に向き直り、振り下ろされようとする刀を握る手を弾く。ガラ空きになった鳩尾に拳を叩きこむと、男は後方へ吹っ飛んで隅田川へと落ちて行った。

「わ、若旦那ぁああああ!」
「野郎、よくも!」

慌てる取り巻きを押しのけて出て来たのは、中年の剣士だった。

「せ、先生! お願いします!」
「若旦那ぁあ! 今助けます!」

川へ飛び込む取り巻きたちを全く気にせず、剣士は左近だけを見ていた。

「お主、名は?」
「陸奥左近」
「……貴様が……鬼か!!」

抜きざまに斬りかかる刀を避けると、左近の後ろにあった、茶屋の腰かけが真っ二つに割れた。

「拙者の初太刀を避けるとは……はるばる、薩摩から江戸へ来た甲斐があったわ……!」

男から放たれる剣気……それは、研ぎ澄まされた刃のように、周囲を貫いた。
時太郎は、思わず左近を見上げた。

――笑ってる……。

「めんどくせぇけど……仕方ねぇな」
空気が、一瞬膨れ上がったように感じた。

――これが……鬼!

目の前で繰り広げられる光景は、どんな道場でも、どんな相撲でも見た事はなかった。
斬られるか、蹴られるかの――殺し合い。
己の技、相手の技、どちらが武術として優れているかの、力比べ。
何故そんな事をするのか……それは、武術の腕を持たない時太郎にも解る。

己の腕がこの世一番だ……それを証明したいだけ。
自分より強いと……上手いと言われる奴がいたら……確かめて、挑まなくてはいられない。

ゴォっと、風が唸るような音がなり……剣客の頭に左近の足が入った。
ゆっくりと倒れ、動かなかい。

「し、死んだ?」
「まさか……これくらいじゃ、あのオッサンは死なねえよ。
でも、思いっきりやっちまったからなぁ……半日は起きれんだろうな。時太郎、役人が来る前にさっさと……」
左近が振り返ると、時太郎はすでに、帰り道を走っていた。

――早く、早く帰って描かなきゃ!
懐紙じゃ小さすぎる! 家の紙を使わないと……。

時太郎は玄関に草履を脱ぎすてて、襖を乱暴に開けた。
閉める事も忘れ、紙の束から一番大きな紙を広げ、筆も一番大きいものを取り出し、墨汁にそのまま漬ける。

――だめだ……これじゃ、まだ小さい!

いつの間にか紙から線がはみ出していた。それでも構わずに、描き続ける。

――こんな筆じゃ、細すぎる!

自らの手を墨汁に漬けて、線を引いた。

――邪魔だ!
今まで描いた全ての絵、版画、机まで蹴飛ばしてどけた。
墨汁が床に広がったが、それすらも手で伸ばして線を引いた。

――全てを! オレの全てを絞り出せ! でないと……アレは描けない!!

あの拳の勢い、どこからでも伸びる足……しなやかな筋肉の動きを全身を使って床に、壁に、天井に……。

――これが……鬼だ!!

「おいおい、逃げ足早いっつーの。礼ぐらい言……」
時太郎を追って、部屋に踏み込んだ左近が目にしたのは、墨だらけの部屋に佇む、全身墨だらけの時太郎。
いや……。

「陸奥さん……描けた! 描けたよぉおおお!」
部屋全体を使った、鬼の絵の中に佇む――画狂。

「……すげぇ」
それは、丁度左近の位置から見れば、まるで目の前に地獄から鬼が這い出して来てるように見えた。
鬼の獲物を捕らえる形相が、手を伸ばせば触れられるような錯覚に陥る。
そして――それは、左近がどんな腕の立つ武芸者を前にした時よりも、血が騒いだ。

早く組み合え! やつと遊べ! 力を比べて殺し合え!

――御先祖様が、カン違いして暴れてら……

「へ……へへへ……」
時太郎は、糸がぷっつり切れた人形のようにぐったりと寝そべって、力なく笑っていた。

何よりも恐ろしいのはコレで、自分の腕がまだ未熟だと言っている事だ。
――こいつの道が、もし武の道だったら……どんな恐ろしい鬼になってたんだろうなぁ……。

「あんれぇ、時太郎。戻ってたなら畑に出ろって……」
両親が帰って来た。

「また部屋汚しやがって、このバカがぁ!」
わざわざ止めるのもめんどくさかったので、時太郎が殴られてるのをただ見ていた。

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