明治十九年。
東京で、講道館の西郷四郎という小柄な青年が「山嵐」という技をもって、当時の柔術の名門、戸塚楊心流を破った頃――。
たりたの故郷では直心陰流剣術の佐竹鑑柳斎がやって来ていた。
目的は撃剣興行。
武術は時代錯誤の古い技。今の時代は武道である。
そんな風潮の中、剣術家が生きる術は己の技を見せ物にするしかなかったのだ。
東北の田舎にやってきた撃剣興行の一座は、娯楽の少ない地元の人々の嵐のような評判を呼び、その噂は十七歳のたりたの耳にも届いた。
幼い頃、男相手にチャンバラをしたが、大の大人がやるチャンバラとはどんなものなのだろう。
たりたの好奇心を刺激するには十分だった。
山を越え温泉町にやってくると、真っ直ぐに会場へと進む。
するとそこに居たのは、太ってはいるがいまだ筋肉の衰えを知らず、頭を丸め威風堂々と立つ初老の剣士佐竹鑑柳斎と――
その妻、錦絵にも描かれるほどの美貌の薙刀士、佐竹茂雄。
「……きれい」
たりたが思わず口にしたのは、佐竹茂雄の容姿の事だけではない。
女が男の名を名乗り、男に混じって薙刀を振り回している。
しかしその姿は男の真似をしているわけではない。
しなやかに、そしてしたたかに。薙刀を風車のように軽々と扱いながらも荒々しさは無く、むしろ優雅でさえあった。
ただただ見とれていた。
――こんな業が……こんな世界が……こんな道があったのか!
女に生まれたことを疎み、女である事を捨てようとした。それが強さだと思っていた。
しかし目の前にいる女武芸者はどうだ?
女のたおやかさを持ちながら、ほとばしる強さを感じる。
公演が終わり客たちが帰っても、たりたはしばらく動けないでいた。腰が抜けて、足に力が入らなかったのだ。
そして、そんなたりたに気がついた一座の青年は舞台の上から笑い掛けた。
「お嬢さん、どうしました?」
青年の呼びかけでハッと我に返ったたりたは、上擦った声でヒィと叫んで走り去った。
青年はその時、女の子が自分らの剣撃に怯えてしまったのかと気の毒に思ったそうだが、もちろんそんな事はたりたに限ってありえない。
まっすぐに町を飛び出し山を越え、家に帰って父親を見つけるなり、叫んだ。
「お父! アタシ、佐竹先生の撃剣一座に入りたい!!」
「はぁ……?」
父親の理解不能だというような顔は、おおよそ娘に向けるような顔ではなかったという。
しかし父の胸の内を考えれば不自然な事ではない。たりたの家、日下家は元は武士だったのだ。
伊達藩に代々御馬番として仕えていたのだが、江戸から明治の転向期に没落し、御目付けの馬を農用馬として農業を営むようになってしまったのだ。
「お前は女だろうが」
「女の人も薙刀をブン回してたよ?」
「どうせ男だか女だか解んねえような熊みてぇな奴だろ」
「違うよ! すっごい綺麗な人だった! アタシ、あの人みたいになりたい! 剣術で身を立てたいんだ!」
「この馬鹿がぁ!!」
父のいきなりの怒号に、たりたは竦み上がった。
何をするにも面倒くさそうにブツクサ言う父ではあったが、このように怒鳴る事など初めてだった。
「剣術で身を立てるだと……? お前はそれでも女かァ!!
この父ですら、あれ程磨いた刀を鉈の代わりに薪を割っているのだぞ。
時代が変わったのだ。ましてや女のお前ができるものか!!」
「何故出来ぬと言い切るんだ! やってみなけりゃ分からんだろ!?」
「やってみて出来なければ、路頭に迷って野垂れ死ぬだけだ!」
それは父の、不器用ながらも子を案じる言葉だったのだが……。
「やってみたら上手く行くかもしれないだろ! この頑固ハゲ!」
年頃の娘に、父の心とは伝わりずらい物である。
「父親に向かってハゲとはなんだハゲとはぁ!」
思わず怒る箇所がズレてしまったら、もう収集はつかない。
兄や姉が止めるまで、口論は続く。
毎日毎日この繰り返しで、とうとうたりたは家を出る事を決意した。
明け方、誰にも告げず黙って家を出て、朝霧の立ち込める山道を超え、佐竹鑑柳斎の泊まる宿までやってきた。
手にしているのは――血判状一枚。
真っ直ぐな瞳には並々ならぬ覚悟があるのを鑑柳斎は感じていたがその血判状に記された名は――。
「日下たりた……。これはお前の名か」
「はい」
「親の名はどこにある」
「え……」
「親の許しの無い者は、たとえ血判しても入門まかりならん」
「でも……!」
「ならんもんはならん」
そう言って鑑柳斎は戸をピシャリと閉めた。
しかし、たりたとて覚悟して出てきた身。おめおめと引き下がるわけにはいかない。
食わず飲まず何刻も戸の前に居座ったまま動かなかった。
そしてそのうち、姉の一人が迎えに来た。
鑑柳斎も親の依頼状さえ持ってくれば、いつでも受け入れると言って見送った。
* * *
「で、お父上の許可を貰ったんですね」
「そりゃ簡単には貰えませんでしたよ。でもね、姉の一人に、およきと言う者がおりましてね……。彼女が父を説得してくれたんですよ。
その時のおよき姉さんの言葉、一言一句忘れません。
『時代が変わった、時代が変わったと父様はおっしゃいますが、ならば女でも剣で身を立てる時代になったっていいじゃないですか。
撃剣の先生は、親の依頼でさえあれば受け入れるとおっしゃって下さったのでしょう。
それは裏を返せばたりたにその素質があるという事ではありませんか?
武芸をもって名を上げる事ができるなら、それも女の生き方の一つです。たりたの望みを叶えて下さい』ってね」
「へぇ、あの時代にそんな事を父親に言える娘がいたんですか……」
「でもまぁ決定打となったのは、その続きの『男よりも気が強いたりたは、どうせ普通の嫁にはなれないんだから』なんですけどね。
その時の父の顔と言ったらもう……思い返しても笑えるわ。後から聞いた話ではアタクシも同じ顔していたみたいですけど」
「……でしょうね」
今、鏡を見せて貰えるなら、その顔がどんな顔か知れるだろうと思った。
「でもその姉のおかげで、武術家として世に立つことができました。だから恩返しがしたくて……姉の孫娘を、私の弟子にしたんですよ。
その子が今年の夏の大会で優勝しまして……。それを姉さんの墓前に報告して、その子と薙刀の手合わせをしました」
「墓場でですか!?」
「ええそうですよ? 姉さんにどうしても見せたかったから……」
加賀美はまたペンの尻で額を掻いた。
「……貴女の言動全て、小説より小説っぽいですよ」
「なら、そのまま書けばいいじゃないですか」
「それでは小説じゃない。ただの伝記だ」
「あら。でも……川島女史の話はそのまま書いたんでしょう?」
ピタリと加賀美の動きが止まり、園部を睨んだ。
「……何度も言ってるでしょう。私の書いたのは満里子という架空の女なんですよ」
「だから自分は川島芳子の死刑判決に責任はない、と?」
「いいえ。それ以上の物を感じてます」
「どういう意味ですの?」
「私は貴女の取材をしてるんですよ? あなたに取材されに来たわけじゃない」
「でもアタクシの半生を知りたいというなら……アナタも晒すべきじゃないですか?」
すっと。刃を心臓へとつきつけられた感覚。
眼の前にいる園部は相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべながら、煮付けた芋を頬張っている。
「ねぇ、加賀美さん。アナタはなんで、アタクシの話を書こうとしたのかしら?」
「いずれ話しますよ」
「本当に?」
「ええ、私が聞きたい話が出てきたら」
「あら、どんな話?」
「……続きを話して下さい。私が聞いた話が『事実』ならば……いずれあなたの話にも出てくる」
「ふーん、どの事かしらね」
* * *
「三年の暇をやろう。三年で修行を成し遂げて来い。 それまでは、どんな事があろうとも、この家の敷居を跨ぐな」
父はそう言って奥へ引っ込んで、たりたが出ていくまで顔を見せなかった。
翌日、たりたに渡されたのは、祖母の古い、しかし刃を研がれた薙刀と祖母の字で書かれた依頼状だった。
「これがアタクシからの餞別です。日下家は元は仙台藩士。アタクシも武家の娘としてかつて薙刀を嗜みました。
たりた。あなたにも武士の血が流れています。覚悟して修行なさい」
こうして、たりた再びは佐竹鑑柳斎の泊まる宿を尋ねのだ。
桜吹雪が振りかかる、古川温泉と書かれたこの暖簾が修羅の門だったとは、鬼神すら思いもしなかっただろう。
佐竹一門の門下生となったたりたが、まずやらされたのは、掃除に洗濯、食事の用意。
さらに道具の手入れや旅先での宿の手配。宣伝のチラシ配りに後片付け。
旅館での奉公で培った事とはいえ、当然一番年下で一番新参者であるたりたに回される。
一座四十数名分、すべてだ。朝から晩までかけずり回り、薙刀の稽古といえば、寝る前に一本、佐竹茂雄に技の手を教えて貰う程度だ。
数カ月はそういうものなのだろうと耐えて来た。
いや。不満など感じる暇もなく疲れきってしまい、泥のように眠っていた。
しかし、その生活に慣れてくると、体も頭も考える余裕が出来てくる。
――皆が撃剣の稽古をしているのに、なんでアタシは雑用ばっかなんだ!
つかの間の休憩時間。たりたは一人、誰もいない撃剣会場の席に座り、誰もいない舞台を眺めていた。
自分があそこに立つのは――いつの事になるだろう。
桜の木はすでに青々とした葉が生い茂り、風も温くなってきた。
「おお、こんな所にいたのかよ」
声をかけてきたのは撃剣一座の吉岡五三郎という、三つ年上の青年だった。
一門の若者の中でも特に女性客からの人気の高い眉目秀麗の美男子だ。
しかし本人はそんな事は気にせずに修練に励んでいるし、時には仲間とハメを外したりしている。
「あの時も、お前はこうやって舞台を眺めてぼーっとしていたな」
「あの時……?」
「お前が初めて、うちの撃剣を見た日だよ。
演目が全部終わってるのに、立ち上がろうともしないでそうやってボーっとしててさ。
オレが声かけたら『ヒィ』なんて言って……くくく」
「え? あれ吉岡さんだったの?」
「え? 覚えてなかったの?」
「アタシ、あの時見てたのは、茂雄先生だったから……他の人の印象はあんまり……」
吉岡は「なんだよ、オレだけかよ……」と、ガリガリと頭を掻いた。
しかしたりたは、そんな吉岡には目もくれず、やはり舞台ばかり見ていた。
「……あそこに立ちたいのか?」
「うん」
「じゃぁ、立ってみればいい」
「え……でも……」
「なんだ? 一丁前に観客がいないと気分が乗らないのかよ?」
「そうじゃなくて……」
「観客ならオレがなってやるよ。あの舞台はオレらのもんだ。お前だって一座の一員だ。
演目に出るには許しが必要だが、休憩時間ぐらい自由に立ったって、誰も咎めねぇさ」
吉岡が差し出したのは、たりたの稽古用の竹薙刀。
「自由に立って、自由に舞え。誰よりも早く起きて五百本。誰よりも遅く寝て五百本。誰にも見せずに重ねてきた成果――オレに見せてくれ」
「知ってた……の?」
「秘密の特訓してるのが自分だけとか思うなよ?」
――お前が五百本やってるから、こっちは千本に増やしたんだ。お陰で寝不足だ。
と、言うと今夜からたりたは二千本に増やすだろうから声には出さなかった。
背中を押され、恥ずかしそうに舞台に上り、ぺこりとお辞儀するたりたに吉岡は拍手を送る。
そして緊張した面持ちで、薙刀を構えると――。
そこにいたのは一人の少女ではなく――羅刹女。
「えぇぇぇぃい!」
刃のない竹薙刀のはずなのに、吉岡の目には陽光に輝く銀色の軌道が円を描いたように見えた。
――とんでもねぇ女に対抗意識燃やしちまった……。
吉岡はまた頭を掻いた。だが目を離せない。
初めて舞台の床を踏み、くるりくるりと嬉しそうに舞う女の鬼に、どうしようもなく魅せられていた。
たりたが演目に登場するのはさらに先――。青々とした木々の葉が、紅や黄色に染まる頃。
* * *
「やっと、ロマンスっぽい事が起きましたね」
「どこがですか?」
「いいんですよ。男と女が一人づついりゃ、こっちで勝手に膨らませますから」
「あんまり出鱈目ばかり書いたら訴えますよ」
「小説家なんて出鱈目を世に送り出すのが仕事です。……川島芳子はそれを望んでいた」
「あら、加賀美さんからその名を聞けるとは」
「今までのお話のお礼に、少しだけ教えて差し上げます。私が園部さんを題材に選んだ理由の一つをね」
「それはそれは、謹んで頂戴いたします」
「私はね、川島芳子とあなたが似ているかと思ったんですよ。
共に男の世界に男がするように生きた女ですから。
……でも全然違った。川島芳子は嘘つきで、あなたは正直だ」
「それは褒めてらっしゃる?」
「いいえ、全く」
「あら、やっぱり。……で、その川島女史とアタクシが似てると思ったけど、似てなかった。で、あなたは書く気を無くしたんですか?」
「いいえ。似てると思ったのは理由の一つです。むしろ、この予想は外れた事で、ますますあなたに興味を持った。そして最大の理由は……他にあります」
「あら、どんな?」
「続きをお願いします。話すうちにあなたは自分で口にします。私の口から川島芳子の名が出たように……あなたはその名を口にする」
「あら、誰のことかしらね」
その時、もしかしたら園部はその名を思いついたのかもしれない。
ニイと口の端を上げて、また語りだす。
その貌が一瞬――加賀美の目には、あの男を語る“彼女”と重なった。
* * *
たりたの初舞台は、入門から僅か半年後の事だ。
それは実戦で鍛えるという意味もあったろうが、やはり客寄せという意味合いが強かった。
乙女と言える年齢の女は、たりたしかいなかったからだ。
そしてその目論見は大当たりした。
男臭い剣撃、とうのたった女の演舞の後、舞台に現れたのは真っ黒な黒髪を白いうなじを強調するように結い上げた――少女。
それだけで客席は湧いた。男たちだけではない。
たりたと同じ年頃の少女も、自分とそう変わりない歳や体格の少女が、あの大きな薙刀をどう扱うのか、身を乗り出して見守った。
対する剣士の男は、たりたの頭を一つ二つはゆうに超えた大男。
勝てるわけがない。誰もがそう思った。
男なら手加減してやれよ! 顔は殴ってやるなよ! そんな野次が剣士に飛んでいく。
だが、たりたが構え、気合を込めた声を腹から放った瞬間――シンと会場が静まり返った。
誰もが、たりたの動きを見ていた。目を逸らせなかった。
見ている箇所はそれぞれ様々だったが。
ある男は、たりたの跳ねる黒髪を見ていた。
またある男は、翻る袴の裾を。
ある少女は、相手から決して目線をずらさない、たりたの瞳を。
ある女は、薙刀に力を込める腕を。
そして対峙していた剣士は、刃がない筈なのに閃く薙刀の切っ先を。
それはたった一瞬の出来事だった。
瞬き一つで見逃してしまう程の刹那の時間――。
「メェエエエエエエン」
薙刀が剣士の面を打ち、会場が吹き飛ぶ程の歓声が湧いた。
体よりも大きな薙刀を操り、大の男をなぎ倒す美少女――たりたの評判は瞬く間に広がった。
しかし一方でこんな事を言う者もいる。
「どうせ、相手が女だから手加減してる八百長試合だろ?」
そしてその真偽を確かめようと、鑑柳斎の撃剣一座に勝負を挑む武芸者が後を立たなかった。
しかし……誰もたりたから一本を取る事ができなかった。
「本物だ……」
とある剣士……明治維新の時、志士として剣を振るっていたという男との試合の時、たりたは言われた。
「お前が、あと四十年早く生まれてて――男だったらな」
ズキリ……。
忘れかけていた胃の痛みがまたキリキリと蘇ってきた。