しかし、秀雄は悩んでいた。
果たし状を持ってきたという男は、身延山久遠寺で仕合った、あの杉の木の化物だろう。
『少しだけ見せてやるよ、お嬢ちゃん。アンタが進もうとしてる道の先で何が待ち構えているのか……な!』
その化物から、こうして果たし状が来るという事は、自分はついにここまで来たという事だろう。
しかし自分はこうして実家に寄せている未亡人。まだ喪すら明けてないのだ。
加えて横に抱えるのはまだ乳離れが出来てない幼子。
今までを薙刀を握って来たが、これからはそうも行かないだろう。
自分は撃剣でしか生き方を知らない。
だが撃剣をしながら、子を育てることは――出来ない。
もう生き方を変えるしかないのだ。
果たし状を握り締めながら、縁側に座り途方に暮れていた。
すると背後から母親が声を掛けたきた。
「たり……」
母が言いかけた名は『たりた』。秀雄が生まれた時名付けられた名前。
それは祖母が「女はもういらない、もう足りた」と名づけた名前。
「ごめんね、つい言っちゃうのよね……」
ズキリと痛むのは胃か、それとも――。
「たりたは、この名前を嫌がってたものね。
よかったね。立派な名前を貰って……秀雄」
秀雄。
その名を母の口から聞いた瞬間、何かがはじけた。
そうだ。もう日下たりたではないのだ。
名を変えるというのは、秀雄を名乗るという事は――そう言う事なのだ。
他の生き方など何を馬鹿な事を。
剣の道以外の道を知らぬなら、そう生きるしかないではないか。
秀雄は押入れにしまっていた布に巻かれた祖母の薙刀を取り出した。
「何をするの? たり……秀雄?」
「母様、我侭を一つお許し下さい」
「どうしたの?」
「もし、わたくしが朝までに帰らなかった場合は、おぎんをお願いします。
おぎんには母も父も武術などしない普通の人で、お前を産んですぐに死んだと伝えて下さい。
そして武の道へは決して進まぬよう、普通の女として育てて下さい」
「何を……」
出来ぬという事は負ける事。
負けるという事は、死も同じ。
出来ぬ出来ぬと言いながら生きるなど……死んでも出来ぬ。
『武道トハ 死スルコトノ修練ト 心得ベシ』
ここで死なずして、何処で死ぬか。
死の床で、夫は言った。
――オレは舞台から降りて、客席に行くだけだ。……オレが見ててやるから、お前は自由に舞っててくれ!
「たりたは秀雄として生きるため……舞って参ります!」
母親は、出ていく娘を止められなかった。
へなへなと腰を抜かし、帰ってきた父に声を掛けられるまで、動けなかった。
おぎんは無邪気に笑っているだけだった。
* * *
月はなく、四隅にある松明の明かりだけが照らす、土俵。
急ごしらえの舞台としては上出来だ。
秀雄はいつも舞台で着ていた白袴の道着を身につけ、静かに目を閉じて立っていた。
ザワザワと木々を揺らしていた風が止まり――しばらくたった。
しびれを切らしたのは、秀雄の方だ。元々気の長い性分ではない。
「……いつまでそんな所にいるんですか? あなたが陸奥でしょう」
「そうだが……」
暗がりから聞こえた声は、意外にも若い男だった。
気配は……あの寺で相見えた、あの化物と変わらないというのに……。
「姿をお見せ下さい」
「オレが用があるのは、日下秀雄だからなぁ。ご婦人、知り合いなら呼んで来てもらえないか?」
「秀雄なら、もうここにおります」
「どこに?」
「ここにと言ってますでしょう。日下秀雄は……わたくしです」
「え……?」
明らかに気配が変わった。
「ほ、本当かよ?」
秀雄がこくりと頷くと、暗がりの中にいる男はガリガリと音が聞こえる程に頭を掻きむしった。
「チクショウ、親父……騙したなァ!」
「あ、あのぅ……」
今度は秀雄が困惑した。
「ご婦人、ご迷惑をかけたな。馬鹿な親父のせいで、こんな夜に呼び出して……」
「いえいえ、わたくしも今日まで仕合を待っていただいて……」
暗がりの男がどんな顔をしているのか知らないが、ものすごく申し訳なく思ってるらしい事は伝わったので、思わず秀雄も頭を下げた。
しかし――。
「では、失礼」
「えっ」
男がくるりと踵を返す気配がする。
「え? あの……ちょ……待って下さい!」
男は立ち止まる素振りもしない。しかし――
「女と仕合うのは出来ぬと逃げるおつもりですか、陸奥天兵!!」
ピタリと、止まった。
「……逃げる?」
「逃げでしょう? 日下秀雄に二度も挑戦状を送りつけておいて仕合わぬおつもりですか。
直心影流薙刀術の使い手を前にして陸奥圓明流が逃げますか! 戦わずして負けますか!!」
「負ける?」
「負けでしょう? 出来ぬというのなら負けるのと同じ事です」
「なんとでも言えよ。女に勝ってもしょうがない」
「何故?」
「女が男より強いわけがない」
「あら、でもあなたは日下秀雄が女だとは思ってなかったのでしょう?
百回近い仕合の中で一度も負けた事がない無双の薙刀使い……その噂はどう取りますか?」
「……女だから手加減してもらったんだろ」
「武の道を歩む男が、女に負けたいと思うかしら?」
そう、負けるはずはないのだ。負けるわけにはいかないのだ。
男が、女如きに――。
「男より強い女がいるかよ」
「おります。――ここに」
暗がりから気配が近づいてくるのが解る。
ビリビリと空気を震わせ、一歩、また一歩と。
闇の先にいるのは――どんな化物か。
「あら可愛い。もっと熊みたいな男だと思ったのに」
「それはオレの台詞だ」
松明の火に照らされた舞台に上がったのは、秀雄よりも三つ四つは若い青年だった。
東北生まれの白い肌と謳われた秀雄よりも、ずっと白い肌をしていた。鼻も高いし、堀も深い。
異人の血でも混ざってるのだろうか。日本人離れした美しい容姿をしていた。
「顔は傷つけないでいてあげる」
「余計なお世話だ」
ムッと顔を顰めてる所を見ると、やはり散々そう言われて来たのだろう。
秀雄のちょっとした仕返しだった。
「直心影流薙刀術、日下秀雄……お相手つかまつる!」
「観客もいないのに舞台を拵えて名乗りを上げるなんて……酔狂なもんだな」
「……いるわよ。観客は」
「確かにな」
天兵は、じとっとした目で杉の巨木を睨んだ。
* * *
「おーおー、ようやくやる気になったかよ、馬鹿息子」
舞台を見下ろす杉の木の上で、白髪混じりの男が見下ろしていた。
四隅の松明にぼうっと浮き上がる舞台。
その上には女盛りの美女と、鋼の如き肉体の美青年。
――絵になるっていうのはこういう事かねぇ……。
その美青年が自分の息子というのが釈然としないが。
そして誰かを探すように舞台の回りを眺める。
その視界に、松明の光と夜闇の境目に――男の足が見えた。
「ん……!?」
思わず身を乗り出しすぎて危うく落ちかけた。確かに誰かがいた。
――まさか……!
男は音を立てずに杉の木から降りて、ゆっくりとその影へと近づいた。
* * *
顔には出さなかったが、天兵は非常に困っていた。
女を殴るなんて――傷つけるなんて、今まで考えもしない事だった。
雑念を捨て、目の前の人物は女だとか男だとか考えずに、ただの武人だと思い込もうとしても目に映るのはどうしようもなく”女”だった。
ふっくらとした白い頬。丸く黒い目に、キッと結んだ艶やかな唇。
膨らんだ襟元に、帯で縛られた細い腰……。
――やっぱり、女だから手を抜かれてただけじゃねぇのかよ……。
だから膝を崩して顔面に打ち込むフリでもしてやれば、懲りるだろう。そう単純に思っていた。
だが、下段に払った足は――空を切った。
「え……」
寸止めするために伸ばした左拳にスッと刃が伸び――小指から肘まで薄く切れた。
「当てる気で技を出さなと――斬るわよ」
牽制ではなく、いきなり本気で突いてきた。しかし本気である気配すらしなかった。
いや、あるいは天兵が気づかなかったからかもしれない。だから避けきれなかった。
「言ったでしょう。わたくしは男より強い女なの」
ニイと紅い口のはしが上がる。天兵は思わず二三歩退き、紅い筋がついた左腕を庇うように、半身に構えた。
――なんだよ、この女……。
仕合うのが怖い……、だが血が騒ぐ。そんな男とまみえた事は何度かあった。
だが『危険』だと思ったのは初めてだ。
「どうしたの? どこからでもいいのよ?」
――どうすりゃ、いいんだよ。
「出来ないの? じゃぁわたくしから……行くわ」
真上から刃が降ってくる。
それを左に避ければ……くるりと回って左から刃が襲ってくる。
後方に避ければ突きが……返す刀で逆袈裟から袈裟。
怒涛の薙刀捌きに、近づくことすらままならない。
筋肉質とはいえ女の腕だ。何故自分の体の倍はある薙刀を、ここまで自由に操れるのか……。
「ハァアアアア!」
薙ぎ払いが、しゃがんだ頭のすぐ上を通る。一房の髪がはらりと風に流れ松明に飲まれた。
* * *
――あーあ、あの馬鹿息子め。女相手だからって何を意識しやがってるんだ……
「告げ口するぞ~」
白髪の男は、息子が小さい頃に散々言われた言葉を仕返しとばかりに小さく呟いた。そして――。
「なぁ、あんたはどう見る?」
松明の光と夜の闇の境に立つ男に声を掛けた。
男はびくっと肩を揺らしてして振り返ったが、逆光のため白髪の男からはぼんやりと輪郭が見えるだけだ。
そのぼんやりとした輪郭の肌は、若い男。
それだけで白髪の男は自分が探していた相手ではないと知り、少し眉を下げた。闇の中の男には見えないだろうが。
闇の中の男はスッと秀雄を指さした。
「だよなぁ。完璧に飲まれてるもんなぁ」
――女の上、強い。強いのに女だ。鬼を出せなきゃ自分がやられちまう。
「女には優しくしろって、刷り込み過ぎたかねぇ……」
白髪の男は会話を続けようとしたが、再び舞台に動きが見えたので、声をかけるのをやめた。
* * *
「……どうしたの? 陸奥を名乗る者が、この程度だと言うつもり?」
天兵は、苦しそうな顔で秀雄を見ていた。
刃を避けたが、その直後の柄の尻で鳩尾を突かれたからだ。
「嘘でしょう? まだ本気じゃないでしょう!?
だって久遠寺の物の怪は、もっと恐ろしかったもの! わたくしはあの時、死を覚悟したもの!
五三郎さんとの真剣稽古だって、もっと愉しかった……。
でもあなたは全然怖くない。全然愉しくない。何も感じない!」
――そんな事言われたって……。
「つまらない男」
そう言い放った秀雄の目は――失望していた。
「女相手に本気になれないなんて言うつもり?
さすが女泣かせな顔してるだけあるわねぇ。女にお優しいこと。
いくらでも言い訳するといいわ。だから……負けなさい!!」
振り下ろした刃は、宙で捕らえられた。
「……好きでこの顔に生まれたわけじゃねぇ」
睨む天兵の目を、秀雄はにいと笑って返した。
「わたくしも、好きで女に生まれたわけじゃありません。でも今は――好きで女でいるの」
「得物を取られても、まだ強がるかよ」
捕らえられた薙刀は、ピクリとも動かない。
純粋な腕力の差。どうしようもない、男と女の差。
「強がってるわけじゃありません。わたくしは、強いの」
「女が男に……敵うかよ!」
ぐっと、薙刀を引いた。しかし秀雄はその行動を予測していたのか、ぱっと薙刀を離し、腹へと向かう天兵の後ろ回し蹴りを後方に避けた。
そして避けながら懐刀を抜き……間髪入れずに向かってくる軸足での回し蹴りを縦に払う。
「く……」
一瞬顔をしかめたが、血の流れる足首を庇いもせず構え直した。
秀雄も懐刀を手に真っ直ぐに構える。
「薙刀だけじゃなかったのかよ」
「小太刀の技を含めての直心影流薙刀術……お父上に教えてもらわなかったの? ボクちゃん」
「……オレの名は陸奥天兵だ」
眉間に皺をよせたまま、天兵は薙刀を秀雄へと蹴り飛ばした。
秀雄はそれを受け取り、ニイと笑う。
「やっと名乗った」
そして名乗らさせた。
天兵にとって……いや、おそらく陸奥圓明流にとって未知の相手だろう。
先祖代々の大馬鹿者とはいえ、女と仕合おうとしてる馬鹿はきっと――自分で最初で最後だ。
――女相手に本気になったと、笑うなら笑え。
目の前に居るのは――ただの大馬鹿者。
薙刀の銀の刃の輝きに魅せられた鬼女なのだ。
日下秀雄の強さ。それは技の巧さもあるが、それ以上にその素早さ。
いくら鍛えようとも女は女。男の本気の一撃にその体が耐えられるわけがない。
現に、秀雄がたった一度倒れたあの隠し武器にも、当たり所が悪かったとはいえ、一撃でその場で倒れてしまったのだから。
小手を一撃でも食らえば、腕が痺れて薙刀が握れないだろう。
あるいは脛を食らえば、立ち上がれなくなるだろう。
体当たりを食らえば場外まで吹き飛ぶだろうし、持ちあげられれば赤子のように高々と放られるだろう。
今までの試合で、それを狙ってきた対戦相手は何人もいた。だが……。
『日下秀雄に、一本でも打ち込めれば米一俵!』
撃剣会門下八十人の命の糧を七年間も守り抜いてきたその速さ。
天兵も先ほどまで手を抜いていたとはいえ当てる気が無いわけではなかった。
「女の中じゃ、あんたが史上最強だろうよ」
「当然。巴御前に板額、甲斐姫に鶴姫。女傑と言われた女は多かれど、所詮お姫様しょう?
稽古つけるのが家臣なら、稽古で怪我するほど打ち込まれた事なんてあったのかしらね。
……わたくし、薙刀を持てば武蔵坊弁慶にだって勝ってみせるわ」
「オレの先祖も弁慶に勝ったらしいぜ。もちろん無手でな」
風が松明の炎を薙ぐと、二つの影が大きく揺れた。
松明の橙に照らされたまま微動だにしない色白の体は、まるで二体の浄瑠璃人形のようだ。
生憎、ここには浄瑠璃を吟じる義太夫はいないが、笛の音代わりに風鳴りの音が真っ黒な天蓋に響いた。
動いたのはどちらが先か……。
天兵の足がぐっと土を掴んだ瞬間、秀雄の薙刀の切っ先が舞った。
花が蝶を誘うため花弁を開くように、くるりと上体が開く。
しかし次の瞬間、稲妻のごとき疾さで銀の閃きが落ちてきた。
紙一重で避けると今度は横から脛に向かって薙いでくる。
それを飛んで避けざま回し蹴りを繰り出せば、柄で足を払い上げられた。
天兵は空中で体勢を崩されて手を地につけたが、今度はその手に向かって刃が来たので、瞬間的に跳ね上がり間合いを取った。
「ぐ……」
前腕部分がざっくりと切れた。
秀雄が狙っていたのは、おそらく肘だろう。
先ほどの下段の払いは脛ではなく膝を狙っていたし、初太刀は面ではなく肩関節を狙っていた。
――本気で”斬り”に来やがった!
薙刀の重さと秀雄の疾さからの遠心力。
骨と骨の繋ぎ目を狙えば、植木職人が枝を剪定するように斬り落とす事ができるだろう。
動いている相手の関節に刃を正確に叩きこむのは至難の業だ。
だが日下秀雄には、それが”出来る”のだ。
天兵でなければ――いや、先程までの戸惑ったままの天兵だったら片腕になっていた。
「……なによ。自分一人だけ愉しそうに笑っちゃって」
「笑ってるのか、オレは……」
「わたくしも愉しませて頂戴な」
相手を探るような攻撃では切り刻まれるだけだ。
日下秀雄に勝つには――鬼にならなければならない。
「それとも、女殺しは顔だけなのかしら、ボクちゃん。女一人、満足させる事もできないの?」
それが出来なければ負ける。負けることは死ぬことと同じ。
『武道トハ 死スルコトノ修練ト 心得ベシ』
「そんなに逝きたきゃ逝かせてやるよ――男喰い!」
風が、松明の明かりを一本消した。
月のように闇に浮かぶ天兵の半身は研ぎ澄まされた刃のようだ。
ただ斬ることを追求し鍛え磨かれた刃が美しいと感じるように、己が身体が武器と呼べるまで極限に鍛え磨かれた肉体は美しかった。
秀雄の倍はあろうかという腕の筋肉。腰ほどはあろうかという脚。
まともに食らえば女の身では絶対に受けきれないだろう。
眼の前にいるのは紛れも無くあの杉の木の化物。
まっすぐに自分を睨む――手負いの獣。
構える白い腕や足に赤い血が流れていた。
ぶるり……と芯が震える。凍てつく炎のような気配に、こちらの鼓動も早くなる。
ズシリと薙刀の重みが増した気がした。その重みに、秀雄はにいっと笑った。
腕が強ばって上手く動かない。
この緊張感こそが自分が求めていたモノ。
あの夜に、道の先で待っていると言っていた化物が、今、目の前に立ちはだかっている。
「エェエエエエエエエイ」
刃が絹を裂くように、闇をつんざく秀雄の声。
その声のように薙刀は真っ直ぐに――陸奥天兵の喉に目掛けて突いてきた。
その次の瞬間、真横から襲ってきたのは薙刀の柄。
天兵はそれを屈んで避けざま一歩踏み込んだ。
しかし秀雄はそれを予期していたか半歩下がりながら、くるりと回った。
それはとても優雅に見えた。その動作。足の運び、手の動き。
しなやかに、したたかに――雷光の如き疾さの銀の閃き。
狙うは……首。
天兵の腕が一瞬倍に膨れたように見えた。
パシィっと乾いた音を立てて薙刀が止まる。
刃と柄の境を掴まれ――引っ張られる。
慣性に抗う強力な力。圧倒的な腕力。
思わず薙刀を離し再び懐へ手を伸ばし、抜きざま振り上げる。
刃は確かに脹脛に当たった。が、足は止まらない。
闇へと飛んでいく、懐刀の銀。
腕を振り切って空きになった腹に――蹴り。
体制が前かがみに崩れた所に顔面への――裏拳。
いとも簡単に秀雄は舞台の外へと吹き飛んだ。
天兵はしばらく裏拳の姿勢のまま動かなかった。
三本の松明の光はちぐはぐに舞台を照らしているため、動かない天兵はさながらゼンマイの切れた傀儡のように見えた。
やがて闇の中から女が咳き込む声が聞こえてくると、やっと大きく息をついた。
「……これでわかったろう。女が男に勝てるわけがねぇ」
消えた松明の方に倒れているであろう秀雄に声をかける。
「いいえ。女だからじゃありません。わたくしが未熟だっただけです。道を極めたら、きっと……」
「これだけ負けてまだ言うか」
「負けてません。だってわたくし……まだ死んでないわよ!」
「何っ」
いきなり闇の中から飛び出したのは銀の小さな閃き。
刃。鍛えられてはいるが白く細い腕……。
懐刀を握りしめた秀雄は、ただ一点。心臓を狙って突いた。
しかしそれを避けられると腕を取られ――。
――え……。
ただの背負い投げではない。腕を捻られながら投げられる。
骨が軋んで、痛みが全身を駆け抜ける。
――逆関節!
更に秀雄は見た。逆さまに映る天兵。
自分を跳ね上げた足をそのまま、前へと薙いでくる。
その軌道は、確実に頚椎に入るだろう。
逆さまの自分は抗うことすらできない。
――完璧な、業。
「……きれい」
つぶやいた瞬間、足が首へと達した。
そこから目の前が真っ白になる刹那の瞬間。松明の光と夜の闇の境目に――男の姿が見えた。
――見ててくれた? いつ……
最後まで意識は持たなかった。
* * *
天兵は荒げた呼吸も乱れた服も直そうともせず、キョロキョロと当たりを見渡した。
そして暗がりに人影を見つけると――今にも涙を零しそうな目をして、声を出した。
「どうしよう親父……やっちまったぁあああああ!」
それを見て男はポリポリと白髪混じりの頭を掻いた。
「やれやれ、こうやってすぐ父ちゃんを頼ろうとするんだからなぁ」
と、隣に声を掛けたが、そこいたはずの若い男の姿はなかった。
「あらぁ……いつの間にどこ行ったんだぁ?」
でも無理に探そうとはしなかった。
その代わり、必死に日下秀雄の意識を取り戻そうとしている息子に向かって野次を飛ばした。
「よっ! 憎いね! 女殺し!」
「今、それシャレになってねぇんだよお!」
取り敢えず脈がある事を確認すると天兵は秀雄を抱きかかえ、真っ青な顔で民家の明かりへ駆けて行った。
* * *
秀雄が目を覚ました時、目の前にいる人影が誰かを認識する前に、尋ねた。
「どのくらい寝てた?」
「五日」
眼の前にいるのは、男。
「いつ、さぶろう、さん……?」
ぼんやりとした視界がはっきりすると、全く違うと気づいた。
「いや、オレは出海さんだよ」
「誰?」
「出海」
「いや名前じゃなくて……」
訝しがる秀雄が再び問いかけようとしたとき、ガラリと障子が開いた。
「目が覚めたのね、たりた!」
と母は言ってから、あっと口を押さえ「秀雄」と言い直して、秀雄の顔を冷やしていた手ぬぐいや、腕に巻かれた包帯を巻き直した。
「……本当にこの子は、いつだって人を驚かせるんだから!
明け方に出海さんたちが大怪我したアンタを担いで来て……お医者さんも呼んで来てくれてねぇ……」
「この人、母様の知り合いだったの?」
「え? アンタの知り合いでしょ?」
「……」
「……」
母娘はゆっくりと出海を振り返る。
人懐っこそうな笑顔で深い皺がくしゃりと刻まれるほどにヘラリと笑った。
「……悪い人じゃないと思ったのよ。
出海さんと、天兵くんだったっけ? 二人で血相変えてアンタを担いで来たんだよ……。
んで父様が来たら、いきなり膝をついて頭を下げるんだもの。
『うちのバカ息子がおたくのお嬢さん傷物にしちまいました』って」
「き、傷物っ!?」
「父様、たいそうお怒りになってねぇ……」
「そりゃ怒るでしょうよ! 文字は合ってても意味が違います!」
寝たまま目を丸くする秀雄を見て、出海はポリポリとバツが悪そうに頭を掻いた。
「いやぁオレも親父さんの真っ青な顔見たら、つい動転しちまってなぁ……。
んで『てめぇ、すっこんでろバカ親父』って天兵が言ったもんだから……」
「それを父様ったら自分に言われたとカン違いしちゃってねぇ。もう殴るわ蹴るわで天兵くんの耳掴んでつまみ出しちゃったのよ」
「え!? あの人を殴って蹴って耳掴んでつまみ出したの!? 父様が!?」
「もう、父様ったらせっかちなんだから。おほほほほ」
「いやぁ、うちの息子もこれに懲りて口の聞き方改めてくれりゃぁいいんだがねぇ。わはははは」
それは兎も角、なんで母とこの出海という男は仲良くなっているんだろう。
言い知れぬ恐怖を感じていると、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「おぎん……」
「あらあら、母が起きたのがわかったのかしらねぇ」
秀雄の母はいそいそと部屋から出て行った。
ズキッと傷んだのは怪我のせいか……張った乳房か。
「わたくし……生きているんですね」
「ああ」
「天兵さんは?」
「親父さんにつまみ出されたから、今頃家に帰って嫁さんに泣きついてんじゃないかねぇ」
「あら奥さんがいたの」
「ああ。しかも腹がでかいんだ。だからだろうなぁ……。あいつ、お嬢ちゃんの顔殴った事よりも腹蹴った事を気にしてたぜ」
「……そこよりも首の骨の心配しろと言ってやって下さい」
「痛むのか? ……もしかして動かないのか?」
「動かないのは腹が減ってるからです」
キッと睨みつけたまま秀雄の腹が大きな音で鳴った。
それを聞いて出海は大きく笑った。
「たいしたお嬢ちゃんだなぁ……」
「お嬢ちゃんなんて年じゃありません」
「これで男だったらなぁ……」
「……男だったらどうだって言うんですか」
「もしかしたら引き分け以上になったかもなぁ……」
「まだそんな事を言うかッ!」
いきなり秀雄が、憤怒の顔で布団を剥いで起き上がった。
……といっても五日間ずっと寝ていたのだ。すぐに「痛た……」と蹲ったので、出海はほうっとため息をついて思わず構えた身体を戻した。
「……わたくしは勝負には負けましたが、仕合いではまだ負けてません。負ける事とは死ぬ事です。わたくしはまだ生きてます。
それに天兵さんが今回勝ったのは、男だからじゃありません。わたくしの技がまだ未熟で、天兵さんの業が完成された物だった。それだけです。
いずれ、わたくしの技が業として完成した時に……今度はわたくしから陸奥天兵へと果たし状を叩きつけてやりますとも!」
「ん~。でもアイツはそれを受け取るかねぇ……」
「何故ですか」
「逃げたとか負けたとか言われる方が女を殴るよりマシだとさ。こんな勝っても嬉しくない仕合いは二度とゴメンだと」
「それでも陸奥を名乗る鬼かッ! ……そんな体たらくで、よろしいんですか元陸奥どの?」
「まぁ今の陸奥がそう言うなら、それでいいんだろうさ」
「ちなみにあなたが陸奥だったら……わたくしと仕合いをしましたか」
出海は一瞬だけ、ふと遠い昔を懐かしむような顔をした。
そして年を感じさせないほど爽やかに笑って言った。
「しない」
「なっ」
「その前の陸奥なんか、土下座してでも断っただろうなぁ」
「……」
「だから、お嬢ちゃんがあと四十年早く生まれてればなぁ……」
ブルブルと秀雄の握った拳が震えた。
「……さっき、陸奥天兵はわたくしの腹を蹴ったのを気にしてたとおっしゃってましたね。
なのに顔や首の心配をしていなかったという事は……裏拳や最後のあの業は手加減をしたという事なんですね……?」
出海はその様子に、小声で「あ、ヤバ」と呟いた。
「絶対に……。絶っ対っにっ! 陸奥ともう一度仕合ってやります! ここまでコケにされて黙ってられますか!!」
「あ、いやそういう意味じゃなくてだなぁ。本当、そっくりなんだもんなぁ……」
「わたくしはまだ負けてない! 生きている! わたくしの道はまだ続いてます!」
「その道は……何の道だ?」
「え?」
その時、泣き止んだと思っていた赤ん坊の声がひときわ大きく響くと、慌てた様子で秀雄の母が駆け込んできた。
「おお、よしよし……。たりた、この子に乳をやってくれよ。今までいい子にしてたんだけどね……やっぱり母親の乳が一番なんだよ」
そう言って布団のそばに降ろされたおぎんは、泣きながらヨチヨチと秀雄へと近づいてくる。
「……わたくしは陸奥と仕合うために、一度この子を捨てた……」
ヨチヨチと近づいて、掛け布団の上へとよじ登り、小さな柔らかい手で、力強く乳房を探った。
「それなのに、お前はまだ、わたくしを母と慕ってくれるのか」
秀雄は乳房を探し当て、上機嫌に笑うおぎんを片腕で力強く抱きしめた。
「武の道を歩むことしか出来ぬ馬鹿な女を……母と想ってくれるのか!」
秀雄が涙を流す瞬間から目を反らすように、出海は立ち上がった。
「お嬢ちゃん」
「……はい」
「アンタが最後にやられた技は……雷ってんだ。覚えておいてくれ」
「いかづち……」
「もしもアンタがその道を歩む中で、この技の名を思い出すような男に出会ったら伝えてくれないか?
いつも蘭が余計に作ってるメシが勿体ねぇから、いい加減に帰ってこいってさ……」
「……誰ですか?」
「出会えたら、わかるさ」
にいっと笑って、出海は廊下へ出ると外へ向かった。
玄関先には秀雄の父親が禿げた頭に汗を掻きながら必死に大きな餅を何個か焼いていたので、ひとつ貰おうと手を伸ばしたら無言でぴしゃりと叩かれた。
「……やっとお帰りですか、出海どの」
「ああ。陸奥の技を喰らって、たった五日で起き上がるなんて……頑丈な体だ。
あんなに追い詰めたのだって、男でもそうそういねえよ。いい娘さんをお持ちだ」
「あんなじゃじゃ馬娘、良い事なんかあるか」
「オレん所は男が一人だからなぁ……女もいたら良かったかもなぁ……」
「そんなにいいもんじゃねぇよ。娘なんていくら手塩にかけて育ててもどうせ余所に行っちまうんだ。育てるだけ損だよ」
「……じゃぁ、いらなかったのかよ?」
「ああ、娘はいらなかったよ。次こそ男が生まれてくれと生まれる直前まで祈った。
でもオレは……たりたが男だったらよかったなんて思った事は一度だってありゃあせんよ」
「そうかい」
出海は再び餅に手を伸ばしたが、またもや無言でぴしゃりと叩かれた。