マホウトコロ情報解禁にたぎってしまい、ガーッと書いてみた。
私は生粋のマグルなので日本マグルの歴史から垣間見られる、日本魔法界を考察してみたよ!
こんなんじゃないかなー、という気持ちで書いたので、ウンソウカモネー(棒)という気持ちで見て頂けると幸い。
6世紀半ば、日本に仏教と同時に「散楽」が伝来した。
散楽は、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称でシルクロードを経てヨーロッパから中国に伝わったもの。
この頃の神社仏閣に、西洋文化の様式が見られる事は、マグルの学校でも習うことである。
つまり散楽に紛れて、西洋式の魔法も多少アレンジが加えられつつ日本にやってきたのである。
日本には、元々強力な魔法があったが、西洋式魔術を取り入れる事で、
さらに強力な力を得た。
とりわけ、自然や天文から見る占術と変身魔法、目くらまし魔法に優れていた。
また、マグルと積極的に交流を持とうとするのも、この国の魔法使いの特徴である。
10世紀の終わり頃、狐のアニメーガスであるクズノハという魔女はヤスナというマグルの男と結婚し、アベノハルアキという、優れた陰陽師を生んだ、という話が有名だ。
陰陽師というのは、陰陽道というマグル向けにアレンジされた占術を使う者の事。
マグル特有の気の遠くなるような地道な観測と実験からの考察や統計の技術なので、厳密には魔法族とはいえないが、陰陽師の中には魔法と見紛うほどの知恵と洞察力を持つ者もいる。
それがアベノハルアキだった。
母が魔女なので、当然といえば当然ではあるが、元々の資質に加え、マグルの技術を合わせてしまったのだから、今日まで名を残してしまうのも無理はない。
日本には魔法族がマグルと結婚する話はいくつかあるが、たいていはアニメーガスである。
前述の狐のアメーガス、クズノハ。
鶴のアメーガス、オツウ。
他にも蛇・馬・猿・犬のアメーガスもいる。
魚やハマグリという例もあるのは、日本が海に囲まれているからだろうか。
また、アニメーガスでない場合は、天女や鬼とも呼ばれる例も少なくない。
しかし、例は少なくないとは言っても、マグルとの結婚は決して歓迎されるものではなかった。
結婚は正体を隠して行い、それが結婚相手にバレると別れなくてはいけなかった。でないと当時の日本魔法界の法律では、マグル側が罰せられてしまうのだ。
あまりにも件数が多く、また魔法界でもこの法律の公平性を疑問視する声が後を絶たなくなったため、何度か改正され、現在ではマグルと結婚するのには何の制約もかからない形となっている。
このように、独自の発展を遂げている日本の魔法界だが、その最大の危機が16世紀半ばにあった。
日本に、キリスト教が伝来したのである。
キリスト教は当時の魔法界にとって、もっとも警戒すべき信仰であった。
今でこそ、互いに不干渉の関係ではあるが、その関係となる条約を結ぶのに、17世紀末まで待たなくてはならなかった。
当時、ヨーロッパ魔法界とキリスト教は、互いに敵と認識しあっていたのだが、日本のマグルにとってはキリスト教の行う「奇跡」も、魔法使いの「魔法」も、区別のつかないものだったらしい。
この日本マグルの曖昧さは、公平さの表れで誇るべき事ととるべきか、未知に対する排他主義の表れで恥ずべき事ととるか、いまでも度々議論に上る。
日本のマグルは事もあろうか、魔法使いの魔法を「キリスト教徒の妖術」とし、キリスト教徒と一緒くたににして、魔法族も弾圧しはじめたのである。
事態を重く見た国際魔法使い連盟は、日本の魔法族を保護し、魔法学校を設立する事を決めた。
場所は「南硫黄島」。
当時はまだ何処の国のものでもなく、発見者のイギリスマグルによって「聖アグスティン火山」呼ばれていたこの島に日本様式の城を建てて、マグルから目くらましする魔法をかけた。
また立地面においても、日本だけでなく、他の東アジアの国々や東南アジアの諸国の魔法使いも受け入れた。
マホウトコロに日本だけでなく中国や琉球の文化も見られるのはその為である。
国際魔法使い連盟に保護された日本魔法界だが、独自の発展を遂げていたため、しばしば調査委員会を悩ませていた。
まず前述の、日本魔法界のアニメーガス率の高さ、そして変身魔法の精度である。
そのレベルの高さは、熟練の魔法調査員をもってしても、魔法使いなのか、魔法動物なのか、ふつうの動物なのかわからない程だった。
しかも日本の魔法使い自身も、「自分が魔法使いなのか魔法生物なのかは、たいした問題ではない。むしろ分類する意味はあるのか」という風に振舞っていた。
それというのも、日本魔法界における魔法使い・魔法生物・魔法の呪文や効果はすべてひっくるめて「妖怪」と呼ばれていたからだ。
しかし国際的な連盟に名を連ね、保護するには分類は不可欠なのだ。
日本では魔法使いも妖怪だし、魔法生物も妖怪。
魔法によって動く道具も妖怪だし、魔法によって得られる効果も妖怪なのだ。
さらには、魔法界に迷い込んでそのまま住み着いてしまったマグルや、その風貌や性格によって妖怪と言われているマグルまでいる。
また、逆にマグル界に溶け込んでしまい、自分が魔法族であるという事を忘れてしまった者もいるという。
さらに混乱させたのは名前だった。
彼らが普段自分で名乗る名と、マグルから呼ばれる名、それから魔法族の戸籍に登録されている名がてんでバラバラなのだ。
強力な魔法使いであればあるほど、名前も沢山あった。
日本魔法族にとって、名前とは日本特有の魔法の一つ。
名前そのものが服従の呪文なのである。たとえ魔法学校一年生であっても、相手の真の名を呼べば、どんな大魔法使いも絶対に逆らえないのだ。
なので名乗ったり登録していたりしている名前は仮の名で、本当の名前を知るのは自分と産みの親だけなのである。
そして調査していくうちに、各国の行方不明者や逃亡中の犯罪者が、ちゃっかりと日本で妖怪になっているケースも多々見受けられた。
この状況に調査委員会は頭を抱え、「いっそあの時見殺しにして滅ぼしときゃよかった」と呟いたとかいないとか。
それから当時、ヨーロッパの一般魔法族からも問題視されていたのは、前述した魔法族とマグルとの結婚だ。当時はまだ純血種であることが最上とされていた時代。日本では純血の魔法族はほんの一握りしか残っていなかった。
英国の魔法評議会はこれを一刻も争う深刻な事態ととらえ、当時一夫多妻制だった日本で、マグルの女性とばかり結婚している純血の男性魔法使いを英国魔法省の裁判所に呼び、審問にかけた。
審問官はマルフォイ家・ブラック家・ウィーズリー家などの純血の魔法使い一族の当代当主たちだ。
その時の様子は残念ながらあまり記録が残っていない。審問官の誰かが抹消したとも言われている。
唯一残っている記録には「なぜマグルと結婚したのか」という問いに、「拙者、マグルに「Monono-aware」と「Wokashi」を感じる所謂マグラーですのでドュフフ」と答えたと言う、意味不明の記述がある。
審問官たちは「さっさと審問を終わらせたい。日本の魔法族にはもう関わりたくないので、好きにすればいいと思う」と判決を下したが、ウィーズリー氏だけは「もっと突き詰めた話を聞きたいので、審問を続けるべきだ」と主張したという。
それからというもの純血にこだわる魔法使いは日本の魔法族を避ける傾向にあるらしい。
90年代イギリスを中心に全魔法界を震撼させた、名前を言ってはいけないあの人と生き残った男の子の事件でも、日本があまり影響を受けなかったのはその為だろうか。
と、このように日本魔法族保護は非常に困難を極めた。
16世紀半ばに発足した日本魔法族保護調査委員会だが、18世紀に入ってもまだ「妖怪」が日本のどれだけの種類がいるのかすらわかっていなかったのである。
元々、マグルと共に暮らしてきた日本魔法族を、魔法族というカテゴリーの中で調査しようとするのも限界があるのだろう。
そこでマグルの協力を得ることとなった。
当時マホウトコロの校長であった小笠原貞任(オガサワラ・サダトー)は、どの国のものでもなかったマホウトコロを、まずは日本の島とするべく、報告書をもって当時の日本の政府へ申請した。
報告書には、対マグル目くらまし魔法で無人島に見える事に考慮して「無人島」と表記したが、うっかりと島内の様子は魔法で四季折々溢れるありのままに書いてしまった結果、マグルの役人からは「こんな南の島に、こんな事は起きようがない」と言われてしまい、マグル達から詐欺師と断じられマグル界から追放されてしまったのだ。
しかしこの騒動はマグル界ではしっかりと記憶に残った。マホウトコロの近くにある島々が小笠原校長の名をとって揶揄を込めて「小笠原諸島」と呼ばれ、事件は笑い話として広まった。
しかしマグル界では単なる奇妙な笑い話でも、魔法界にとっては大きな進展だった。
小笠原校長の一連の事件によって、マグル界に溶け込んでいた魔法族が、魔法界の存在に気付き始めたのである。
マグル界で画家として活躍していた鳥山石燕(トリヤマ・エンジャク)は、自分の出自が魔法界である事に気付いた一人である。
彼は魔法界に連絡をとり、魔法族分類作業の手伝いを買って出たのである。
彼はイラストを添えて、各「妖怪」の特徴を書いたレポートを魔法界に提出した。
彼によって分類作業は大幅に進展すると思われたが、肝心な事にこのレポートもまた「魔法族」と「魔法生物」と「魔法」がごちゃまぜなものであった。
とはいっても「妖怪」にどんな種類があるか分かった事は非常に大きく、魔法界は彼に非常に感謝し、功績を讃えた。
調査委員会の調査はまだまだ続く。
19世紀に入ると、マグル界の日本で大きな動きがあった。
13世紀からそれまで、日本マグル界は王政をしいている建前ではあったが、実際に政治を動かしているのは将軍であった。
しかし1868年1月3日。
将軍は天皇に政権を返還したのである。
マグル界では「王政復古の大号令」と呼ばれ、新たな時代の幕開けとなる重要な出来事であるが、魔法界もおなじだった。
実は日本マグルの王である天皇は遠い遠い昔の原始魔法族の血を引いているので、魔法界にある程度理解を示している。
なので魔法界からの交渉も以前よりはるかにやりやすくなったのだ。
調査委員会と日本魔法省は、さっそく日本の王である天皇と政府に協力を要請した。
すると天皇からの勅令でマホウトコロの島は日本領となり、さらに「南硫黄島」という名も与えられた。
前述したマホウトコロ周辺の島々が「小笠原諸島」とマグルの間で呼ばれていた事が、功をなしたのだ。
これで日本との繋がりができ、
調査もしやすくなったのである。
次に、魔法省は役人を一人マグル界に派遣した。彼は近代日本魔法界に最も貢献した一人である。
名前は井上円了。(イノウエ・エンリョウ)
元々マグル贔屓の多い日本魔法界でも、特にマグルに強い関心を持つ彼は、幼い頃からマグル博士と呼ばれていた。
とりわけ彼が研究していたのはマグルの技術である化学である。彼は化学がどれだけ魔法と同じ事ができるのか、こっそりと実験をした。すると、なんと半数ぐらいの事ができてしまった。
マグルの技術に感動した彼は、なんと魔法学校在学中から並行してマグルの学校に通い始めた。
魔法学校卒業後は、マグル界の大学に通い、教員免許まで取得。
そしてマグルの大学卒業後は、マグルに哲学を教える塾を開いたのである。
そしてこう教えていた。
「妖怪なんて迷信だよ。存在なんかしていない」
彼は自分の使命は「マグル界と魔法界を切り離すこと」と、調査委員会が頭をかかえた「妖怪の分類作業」であると考えていた。
彼はまず、現象を「妖怪」と「化学」に分け、マグルの技術である化学で説明できるものと、出来ないものに分けた。
そして化学で説明できるもの魔法を「妖怪ではない」と断じる事によって、魔法界とマグル界を切り離す事に成功した。
そして彼が行った妖怪分類により、「魔法」と「魔法族」と「魔法生物」を分けた。
これにより、何世紀もかけて10%も進まなかった分類作業が一気に数年で片付いてしまったのである。
しかしその反面、急激に魔法界とマグル界が切り離されたため、双方依存していた部分がいきなり不便・不都合を被り、井上円了氏はマグル贔屓の魔法族や魔法族贔屓のマグルたちに過激な避難を受けた。
しかし井上円了氏はマグルにはこう語った。
「マグルの技術はこのように魔法に引けを取らないところまで発展している。いつまでも魔法使いの魔法に頼ってはいけない。
現に世界先進の国々のマグルは、とっくに魔法界から独立した。独立したからこそ、このような大国になったのだ。
これからはマグル自身の手でマグルの歴史を紡ぐ時代がきたのだ」
そして魔法族にはこう語った。
「いつまでもマグル界と繋がってはいけない。マグル界はこれから未曾有の発展を遂げる。大災害が訪れる事もあるだろう。時には戦争も起こるだろう。きっと何度も何度も危機が訪れる。
その時に魔法界とマグル界が一緒になって危機に瀕していたら、一体誰がマグルたちを助けるというんだい?
日本のマグルが本当に助けを求めた時に、本当の意味で助けてやれるのは誰か。何千年も苦楽を共にした日本の魔法族ではないのか?
これは別れではない。親離れする子を見送るような事なのだ」
彼は生涯、最期の瞬間まで日本各地をこのように説いて回った。
彼は日本マグルの意識を近代化に導いたのみならず、日本魔法界にも子離れならぬマグル離れを促し、これまでの互いに依存しあう関係から、見守り、最低限の手助けをする関係へと変えていったのだ。
これは魔法界もマグル界も讃えるべき偉業であり、マホウトコロで妖怪学を必修で学ぶのはこの為である。
そしてその後、マグル界はいくつも戦争があり、大災害があった。そのたびに少しだけ手を貸すだけで急速に発展していくマグルの様子を、魔法界は見守っていた。
しかし20世紀の半ば、マグルの言葉では「太平洋戦争」で敗戦した時、それまで天皇にあったマグル界の政権が、「首相」に移った。
未曾有の大惨事からの復興に、魔法界も随分と協力したのだが、首相たちは魔法界を受け入れず、自分たちの力だと驕りはじめ、だんだんとマグルたちは魔法界から遠ざかっていった。
日本魔法族は「マグルたちは自分たちを忘れてしまったのか」と悲しんでいた。
悲しみの余り、うつ症状を発し、奇行に走り、死に至る者もいた。
これは「マグル・シック」として、長期間マグルに構われないと発症する、日本魔法族・魔法生物特有の遺伝子性風土病として、世界魔法保健機構に登録されている。
この蔓延する病を治すのは、ヒーラーではなくマグルだ! と、一人のマホウトコロ卒業生が、マグル界へ降り立った。
彼の名は「田中ゲタ吉(タナカ・ゲタキチ)」
1959年度卒業生。
その名の通り常に下駄を履き、成績は優秀だったのだが、素行に少々問題があり、ローブの色は金と黒のシマシマだったという。
物語を書くマグルというのは、魔法界と繋がりを持ちやすい、というのは周知のことだろう。
かの生き残った男の子の物語を取材し、マグル界へ発表したJ.K.ローリング女史がそうだったように。
田中氏は、そんなマグルの力。とりわけ「漫画家」と呼ばれるマグルの力を信じた。
彼が訪ねたのは水木しげるという漫画家だった。
そして自分をモデルに漫画を描いて欲しいと交渉を持ちかけたのだ。
田中氏が水木氏を選んだのは、水木氏が幼い頃から魔法界に迷い込む性質を持っていて、田中氏も何度か見かけた事もあるからとの事で、決して田中氏の部屋に相当読み込まれた水木氏の漫画がある事とは無関係とのこと。
田中氏をモデルに描いた漫画「ゲゲゲの鬼太郎」は、アニメーションにもなり、何度もマグル界に妖怪ブームを巻き起こし、かくしてマグル・シック問題は解決したのであった。
ちなみにゲゲゲの鬼太郎は田中氏の風貌と得意な魔法、交友関係をモデルにしただけで、田中氏自身は漫画のような活躍をしていたわけではなく、魅力あるストーリーやキャラクター設定はすべて水木氏の力である。
そして後年、大人になった鬼太郎として田中氏のありのままを描いた漫画が発表されたが、一部のマニア以外には不評で水木氏自身も「失敗作だ」と言っていたことを注釈として付け加える。
そして同じようにマンガやアニメにしてもらおうとするマホウトコロ卒業生も後を絶たなかった。
その為、マホウトコロは成績優秀な卒業生に対しての特典として、毎年男女で1名づつ、日本マグル界でアニメーションにして放送してもらえる権利を与えられたのだ。
ちなみにいずれも先例の田中ゲタ吉氏と同じように、風貌と得意魔法・交友関係をモデルにはしているが、ストーリーはマグルのクリエイター達の力である。