鬼産び ③

shibaigoya

急 怠け者の夫と、世話好きの女房。そして鬼産む娘

睦月の朝は早い。
幼い頃から、朝日より早く起きて、身を清め、清掃をするのが日課となっていたからだ。

庭を掃く睦月を、初めの頃こそ「そんな事しなくていい」と止めようとしたが、体に染みついた習慣を止めてしまうのも、また体調に響くらしい。
なので今では、睦月のやりたいように世話を焼かせていた。

「あまり咳をしなくなったな」

縁側で睦月の膝を枕にして、大人しく耳掃除をさせていた左近がふと呟いた。

「ええ……ここは人も少ないですし、食べ物も体に合うようです」

「そうか」

体の仕組みには詳しいといっても、それはどこを押せば壊れるとか、壊れた時はどうやって繋ぐかとか、そういったもので、病についてはサッパリ知識はない。
ただ単に、腹具合が悪い時や熱を出した時に食べる草や実を適当に摘んできて、睦月に渡しているだけだ。
それでも、ここに来てから、睦月は随分よくなっているように見えた。

こうして、陽だまりになった縁側で、そよ風に吹かれながらボーっとしている時など、あの神社では見なかったような穏やかな顔をしていた。
だからきっと、連れ出したことは正解だったのだ。
本人に確認した事もないし、睦月がそう言ったわけではないが、確信していた。

「左近どの……」

「なんだ?」

「私、最近、山のふもとの村まで行って、帰ってこられるようになりました」

「おお。そりゃぁ、よかったな」

「だから、きっと子も産めますよ」

「子供なんていたら、めんどうくせぇ」

「左近どのは大きな子供みたいなものです。あと一人、小さな子供の世話するくらいどうってことありません」

今日の睦月はやけに強気だった。

「私があなたの妻となって、何年経ったと思ってるんですか?」

「……子を産むとなったら、お前の寿命が縮むかもしれん」

「元々、大人になれぬと言われた体です。今この時、調子が良くても、いつまでこの体が耐えきれるのかわかりません。
だから私は……あなたに残したい」

「やめろよ。死ぬ時の事なんて考えるな」

「いいえ。私は幼い頃から常に死と共にありました。死ぬとどうなるのか、何故生きるのか。それを常に考えていました」

左近は頭を睦月の膝に預けたまま、じっと庭を見た。
幼い頃、ここで散々父親に泣かされた。たまに、このまま死ぬんじゃないかと思った事もあった。

負ける事は死ぬ事。
死が怖い。だから強くなった。

だが――死と共にいると言った睦月は、死を恐れているように見えなかった。

「前に、神とは何かと左近どのに言った事があるのを覚えてますか?
神とは宿るものと。有難いと思うものだと」

「……ああ」

「人の役目は、それを伝える事にあります。子に、子孫に」

「……オレの家は神様に喧嘩売ったんだ。神様を有難がったりしねぇよ」

「いいえ。この家の歩んだ道は、最も神の道に近いと私は見受けました」

「この家は人殺しの業を伝える家だ。全然違う」

「あらみたま」

「ん?」
聞きなれない言葉に、左近は睦月を見上げた。
睦月は鈴の音のような声で、唄うように続ける。

「鬼神。疫神。祟神。禍神。厄神。黄泉大神。
これらは荒魂という人に災いする神です。人を殺す神です。
ですから人を殺す業を伝える鬼神の家でも問題はありません」

「……そういうもんか?」

「ええ。この家はその業を子へ孫へと今まで伝えていたのでしょう? 戦い続けてきたのでしょう?
ならばそれは、これからも伝えるべき物なのです。
面倒くさいからなんて理由で、簡単に終わらせていいものではありません。
子子孫孫、この血が絶えるまで戦い続けるのです」

「……人殺しの業を伝えて、人を殺し続けろだなんて、とんでもねぇ事言う巫女さんだなぁ」

「元巫女、です。今は鬼神の妻です」
目を閉じ、深呼吸して、続ける。
「私には見えます。あなたの祖先が築き上げた修羅の道。そして、あなたの子孫が歩む修羅の道。
それに交わった武人たち……つわもの、ますらお、もののふども。
相見え、死合えた事に、歓喜と感謝と共に昇華する魂。
それが――あなたの血として流れる業です」

「おっかねぇなぁ」

「それは、あなたがまだ真のツワモノと相見えてないからでしょう。この怠け者」

「お前が心配だから離れたくないんだよ」

「そうやって私の体を言い訳にして! 旅に出るのが面倒くさいだけのくせに。
子を作りたがらないのだって、私を抱くのが面倒くさいだけなんでしょ!?」

「んなわけあるか」

「なら、なんでいつも私だけ先に……!」

「バカっ! 声でかい……」

いくら左近が明け透けな方だとはいえ、さすがに誰かに聞かせたいような話ではない。
思わず上半身を起こし、目を合わせると、両頬をパチンと挟まれた。

「目をそらさないで――さこん」

鈴の音のような声が耳から沁みてくる。

「私……あなたと、いっしょに、いきたい」

ゾクリ……と背中に這うものがあった。
ざわっと風が吹き、睦月の髪を払ってその匂いを左近の鼻に届けた。

「……ま、まだ昼間だ。馬鹿っ」

そう言って睦月の手を払い、逃げるように部屋を後にする左近の背中を見て、睦月はにぃっと笑った。

* * *

左近が睦月の口から「やや子ができました」と聞いて、飲んでいた味噌汁を噴き出すまで、あと三ヶ月。

* * *

* * *

子が生まれてから、睦月はよく床に伏せるようになった。
だが左近はそれを子を産んだせいだとは決して言おうとはしなかった。
それは子が生まれる前、睦月に言われていた事だからだ。

「この先、何が起きても……絶対に生まれてくる子のせいなどではありません。
もちろん、あなたのせいでもありません。私が弱かったからです」

「これは私の勝負です」

「大丈夫。この子は鬼神の子……。荒ぶる神の子です。
神の子ならば、たとえ産屋が炎に包まれても無事に産まれてくるのです」

宣言通り無事に生まれた子は――女だった。
女は陸奥にはなれない。それが左近の頭の片隅に過らなかったわけではない。
だが――。

「勝ちました」
そう言って睦月は笑った。

「女は美しさの象徴。私の心が美しく正しかった証拠です」

「……男だったら?」

「もちろん私の勝ちです。男は力強さの象徴ですから、私の心が強く正しかった証拠です」

「どっちにしろ勝ちなのかよ」

左近が産婆から受け取った小さな娘は、左近を見て笑い――小さな足で胸を蹴った。

「……いい蹴りだ」

睦月が望んだのは、陸奥の業を子に伝える事だ。
ならば――それを叶えてやるのが、夫であり、鬼神でもある自分の役目だ。

そう決意し睦月を見ると、睦月も左近を見て、頷いた。

* * *

葉月と名付けられた娘は、病弱な母から産まれたとは思えないほど丈夫に育った。
里の者が、もしかしたら別の女に産ませた子なのではないか等と、失礼な噂をするほどに。
その噂は小さな葉月の耳にも届き、まだ何もわからないまま、無邪気にそう父母に尋ねた事もある。
その時、左近は腹を抱えて笑いながら「他の女との間に子供なんか作るかよ、面倒くせえ」と睦月の肩を抱いた。
睦月は睦月で、ツンと澄ましながら「浮気は器用でマメな男がするものです。怠け者には向いてません」などと言う。
それを聞いて左近が困った顔で「オレが浮気はしねぇのは面倒くせえからじゃなくて、お前に惚れてるからだぞ」と呟けば、睦月は目を細め「はいはい」と嬉しそうに答えた。
その様子は、葉月の心に“夫婦とはこういうものなのだ”と印象付ける事となった。

葉月の顔は母に似て美しくも儚げな少女のものだが、体は元気が有り余ってもまだ足りないというように、いつも走り回っていた。
男児のように怪我をこさえて泣いて帰ってくる事もあれば、里のガキ大将を泣かして来た事もあった。

ある日、葉月が父との修練から帰って来た時だった。

「葉月」

いつもより厳しい母の声に、新しい技を習って上機嫌だった葉月の顔が凍った。

「今朝、雑巾がけを忘れましたね?」

「あ……あの、親父に呼ばれたから……時間がなくて……」

「親父、じゃないでしょう?」

しょんぼりと俯いて「親父殿」と言いなおす小さな娘に、母は冷たく見下ろした。

「忘れたのは、うっかりではなく、わざとなのですね? 雑巾がけをしてから行くと言っても、父様は怒らないでしょう?」

「……でも今日は、新しい技を教えてくれるって言ったから、早く行きたかったの……」

「それはお前の都合です。朝の仕事を放り投げていい事にはなりません」

「……はい」

「これから雑巾がけをしなさい。いいですね?」

「でも、あたし疲れた……すこし休みたい」

「ダメです!」

しょんぼりと項垂れたまま、雑巾と桶を取りに水場へ向かう。
その様子を見て、左近は睦月に声をかけた。

「……お前は、葉月に厳しすぎやしねぇか?」

「あなたが甘いだけです! 私は普通の女としての躾をしているだけです」

どこかで見た光景だと思ったが、思い出すのは面倒だったので続けた。

「でも、あいつ覚えが早かったんだぞ? よくやったんだから話を聞いて褒めてやっても……」

「あの子は女です。人を捨てる修練の中であっても、女である事まで捨てさせてはいけません」

「でもよ、女のままじゃ……」

「女です」

睦月が左近の目を捕えた。

「女であるというのは男より強くなれない理由かもしれません。しかし……男より弱い理由にはなりません」

「でも……」

「では、あなたは人を捨てる修練の中で、男である事を捨てましたか?」

「そう言えば捨ててねぇなぁ」

ポリポリと頭を掻く左近をひと睨みして、睦月は咳払いをした。

「あなたもですよ。雑巾がけしたのか? の一言ぐらい言ってくれればいいのに。だから、あなたにも罰です」

「オレもかよ」

「夕方までに、海の魚を取ってきて下さい」

「ん?」

この家は山奥だが、今から出ても左近の足なら十分間に合う。
罰と言うには軽すぎると思ったが――。

山奥だからこそ、滅多に口にしない海魚が――葉月の好物だ。

「わかりましたね、さこん」

鈴の音のような声には、あまり似合わないツンとした表情をする睦月に、左近はついプッと噴き出した。

* * *

左近も、葉月も、こんな日々がいつまでも続くと思っていた。
頭では睦月の体が弱い事は解っていた。床に伏せる日も年々増えてきている。
だが……心の片隅で願っていた。母を、妻を失いたくないと。
だから無意識に、睦月が死ぬ事など……死んだ後の事など考えなかった。

だが睦月は違った。
幼い頃から死は隣にあった。恐ろしいものではなかった。

娘が産まれてからも死を怖いとは思わなかった。
ただ――この子の成長を夫と共に見届けられないと思うのが、たまらなく悔しかった。

自分が死んだら、誰がこの子に女の嗜みを教えるのだ。誰が怠け者の夫の世話をするのだ。

だから、自分の持つ全てを――葉月に託した。
左近が自分の全ての業を、葉月に託すように。

女の道と、修羅の道……同時に歩むには困難な道だろう。
陸奥の家に女が産まれたという話は聞いたことがあるが、女が陸奥を継いだというのは聞いた事がないのだから。
まして残された少ない時間で、幼い娘にそれをさせようと言うのだから、睦月は鬼母のように写るだろう。

朝は掃除や洗濯、昼は料理、夜は裁縫を教え込んだ。
鬼のような修練の合間に、休む暇もなくだ。

どうすれば家や服が綺麗になるか教えた。
左近の好みの味がどの配分か、こと細かに教えた。
葉月の着る着物には常に赤や桃など、女らしい色を使うよう教えた。

化粧は……まだ早いだろうし、あの性格では年頃になっても必要ないと思うかもしれないが……。
自分の化粧道具で遊んでる時、それとなく白粉の塗り方や紅の引き方を教えた。

それから――。

「あ、あたしもそんな風になるのか!? 母者もなったのか!?」

「女なら誰でもなるんですよ」

「……女にならなきゃよかった」

――あの夫では、葉月に教える事もできないであろう女の業も。

他にも、あれも教えたい……これも教えたい。
まだまだ教えたい事がいっぱいあった。そして教えてもらいたい事も。

これから先、お前は何をして喜ぶの? 何を見て綺麗だと思うの?
誰を想って泣くのだろう。誰の為に笑うのだろう。
お前自身もまだ知らぬその相手を――父に内緒で教えてくれないだろうか。

「母者、お話してくれ!」

ある風の強い夜。
いつものように寝る前に、葉月が睦月の布団に潜り込んで物語をねだった。
夫はこちらに背を向けていて、鼾も掻いていないので寝ているかどうかはわからない。

「そうね、どこまで話したかしら」

「んと……イザナギとイザナミが、この国を産んだ所まで」

「じゃぁ、その後ね。
二人は次に神様を産んだの。石の神、土の神、風の神、川の神、木の神、他にも色々。
でも最後に……火の神を産んだ時、イザナミは身を焼かれて死んでしまった」

「え……」

「イザナミは黄泉国へと行ってしまったの」

「……火の神は、どうなったの?」

「イザナミを弔った後、イザナギに……殺されました」

ぎゅっと、葉月が母の寝巻を掴んだ。
そして母の寝巻がぶかぶかな事に……痩せている事に気付いた。
不安から思わず抱きついた娘を、睦月は優しく撫でた。
細くなって節くれた細い手は……まだ暖かった。

「でもね、イザナギが火の神を殺した事で流れた血から……高天原最強の神様が生まれる事になるの」

「……最強?」

「ええ。雷の神様でね、神名を”タケミカヅチ”って言うの。日の神アマテラス様が一番頼りになさっている武神様なのよ」

「ふーん……親父殿とどっちが強いかな?」

「さぁ? タケミカヅチ様は雷だし……父様でも苦戦するかもね」

「雷なら、親父殿だってできるぞ!」

「うん、技名じゃないのよ」

負ける、と言わなかったのは妻の優しさだろうか。
流石に雷が直撃してなお動ける自信は左近になかったので、鼾をかいて寝た振りをした。

「他にはどんな技を持ってるの?」

「まぁまぁ、待ちなさい。タケミカヅチ様の活躍はもう少し後なのよ」

「えー」

「じゃぁ、続きね。死んだイザナミを取り戻すために、イザナギは黄泉国に行ったの」

「え!」

葉月の目が輝いた。どうやって取り戻すのだろうと。

「でも、イザナミは夫にこう言ったの『何故来たのですか?』と」

「……イザナミは嬉しくなかったの?」

「黄泉国の食べ物を食べた人はね、黄泉の住人になってしまって、もう帰る事ができないの。
でもイザナミは夫があんまり嘆くから、黄泉の神様と相談する事にしたの。
その間、私の姿を絶対に見ないでと約束して……でも、いつまで経っても出てこないので、夫はとうとう中を覗いてしまった。

……イザナミは黄泉の住人になってたから、この世のものと思えない程醜くなっていたの。
驚いた夫は逃げ出した。イザナミは怒ってそれを追った」

「怒って当然だ! 約束を守らない上に、妻の姿を見て逃げ出すなんて……イザナギは酷い男だ!
だいたい、イザナミとの国産みの時に色々注文つけてた時から面倒な男だと思ってたわ!」

「あらあら、一応この国の父にあたる神様なんですからね」

「……親父殿なら絶対約束を守りぬいて取り戻すのに……たとえ見たとしても絶対に逃げたりしない」

ポソリと呟いた娘の呟きに、睦月はしれっと答えた。

「そもそも面倒くさがって黄泉国なんか行きませんよ」

「……だな」

鼾が大きくなったのは、気のせいではないだろう。

「続きね。黄泉国から帰ったイザナギは、全身を洗ったの。その時に体から産まれたのが……アマテラスとツクヨミ、それからスサノオの三貴神」

「やっと、アマテラスが出てきたな! タケミカヅチはいつ出てくるの?」

「もっと後よ」

「えー」

「でもスサノオ様も、とても強い神様なのよ」

「でも、最強ではないんでしょ? タケミカヅチが最強なんでしょ?」

「もう、葉月ったら」

クスクス笑いながら葉月に布団をかけ直した。

「さぁ、今日はここでお終いよ。続きはまたあしたね」

「はーい」

* * *

次の日、いつものように睦月が朝食を用意をする間、葉月が掃除をする。
その後、左近と葉月が修練に向かい、昼食を食べに帰って来た時――。

いつも玄関に立って出迎えている睦月の姿が無かった。

葉月が慌てた様子で家に入ると、睦月は床に伏していた。

「母者、大丈夫!?」

「ええ、ちょっと熱があって……」

「待ってて、熱の草、持ってくる!」

こうして睦月が倒れるのは、初めてではない。
山に生えている、解熱に効く薬草はちょっとした風邪ならすぐに効いた。
だが――。

左近は睦月の左手を掴んだ。

「あなた……痛い」

睦月が思わず取り落とした布には、赤茶色の斑模様が作られていた。

「熱だけじゃ、ねえんだろ?」

「……」

「なんで黙っていた。……医者に、行くぞ」

「いいえ。ここが定めです」

「看てもらわねぇと、そんなの解んねぇだろ!」

「いいえ……あなたも解っている筈です。葉月にも」

山の下の村や町には疫病が流行っていた。
体の弱い睦月がそれに罹らないよう、注意していたつもりだった。

「あなた、私が……」

「聞きたくねぇ!!」

「きいてください!!」

左近は顔を上げなかった。

「私が向こうに行っても……取り戻しに来ちゃダメですよ。
来たとしてもあなたでも逃げ出すほど恐ろしいモノに化けて、追い返しちゃいますからね」

「……」

「……死とは終わりではありません。
イザナミの死によって数々の神が産まれたように……私の死からも産まれるものがあります。
それは形のあるものかもしれないし、ないものかもしれない……それに気付いたら、それを大切にしてください」

睦月がぺチリと力なく……しかししっかりと左近の両頬を挟んだ。

「私は、あなたと、いっしょに、いきました……。有難う御座います」

葉月が帰って来た。
ドタドタと足音を立てて、乱暴に障子を開く。

「こら……葉月、はしたない……でしょ」

「母者! 熱が下がる草だ! これでよくなるぞ! そしたらまたお話してよ……!
まだタケミカヅチが……最強の神がどんな奴なのか、教えてもらってないんだ!」

気丈な声のままボロボロと涙を流す葉月を見て……左近は、耐えきれず飛び出した。

「こら、親父殿どこへ行く!」

しかし左近は振り返らず、山道を駆け下りた。
里まで出れば医者がいる。首根っこ捕まえてでも連れて来ようとしていたのだ。

だが……里も病で溢れてる。医者自身も倒れていた。
それでも他の医者を探したが、患者の世話をしていて人が足りない。
他人の看病しててもかまうものか、と思ったが――その医者が看ているのが葉月と同じ年頃の少女だと気づいて、襟首に伸ばした手を止めた。

風が吹き荒れる出歩く者のいない里の畔道は、薄紫色の分厚い雲に覆われうす暗い。
これが疫神――これが荒魂か。
これが人に災う神か。自分に流れる血はコレと同じモノと称されていたのか……。
自分の血に流れる業がどんなに恐ろしいものなのか、今さらながら思い知った。

鬼神では――救えない……。

道の端にあった小さな神社を見上げると、鳥居に欠けた社号がついていた……『○村三吉神社』

左近は境内に走り込み、社の扉を破って泥で汚れた足のまま中に上がり込んだ。

「おい! 聞こえてるか三吉霊神!? オレだ! アンタの名を騙った陸奥の鬼だ!」

社の中にある、祭壇のご神体は静かにそこに有るだけだ。

「確かにあいつは、アンタの巫女だったよ。でも今はオレの女だ! 今さらアンタなんかに渡さねぇ! 渡さねぇ……。
……連れて行くなよ……。頼むよ……。オレは……あいつと、いきたいんだ!!」

風が社の隙間に入り込み、唸り声のような音を立てた。
祭壇の鈴が風に煽られ、リィンと鳴った。

睦月が息を引き取ったのは、それから三日後の事だった。

葉月は何度も「何故医者に見せなかった」と左近を責めた。
左近は言い訳しなかった。だが……自分のせいで死んだとも言わなかった。

睦月は笑っていたのだから。
自分と最期まで一緒にいた事に礼を言ったのだから。
後悔しては、そう言った妻の言葉を否定する事になる。

左近は表面上なにも変わらないように見えた。
だが、ふとした瞬間……睦月が廊下を歩く足音が聞こえる。
竈の前に立っている気がする。
あの鈴の音のような声が聞こえるような気がする。

そんな時、ついぼうっとしてしまうのだ。

「親父殿、飯だ」

「ん」

その味噌汁に口をつけた時――気がついた。

さっき自分のすぐ後ろの廊下を歩いていたのは、葉月だ。
竈の前に立っていたのは、葉月だ。
鈴の音のような声で鼻歌を歌って掃除していたのは、葉月だ。
この胴着のほつれを直したのも、葉月だ。

この、睦月の味と寸分違わぬ味噌汁を作ったのは――葉月だ。

「親父殿……!?」

睦月の死から、半月。
葉月が、父の涙を見たのはこれで最初で最後だった。

* * *

* * *

それから左近は葉月を連れて旅に出た。
強い奴がいると聞けばどこにでも行った……つもりだが、葉月からすれば『遅い』そうだ。

久しぶりに行った江戸には、面白い奴がいたが……やっぱり自分には何処かに行くより、待つ方が性にあうのだろう。

だから――ツワモノが来そうな所にいる事にした。

「親父殿。ここって、ただの山小屋じゃない……よな?」

「ああ。三吉霊神の社だ」

「こ、この罰あたり!!」

葉月が必死に、祭壇の上の鬼の面に向かって謝っている。

「おいおい、三吉霊神はそっちじゃないぞ」

「え? どっち?」

「こっち」
と自分を指さしたら、葉月に殴られた。

三吉神社の神主は代替わりしたらしい。
睦月の父母はいなく、別の男が継いでいた。
それは睦月の兄なのか、父母の養子なのか、それとも別の所から派遣されたのかは解らない。
面倒くさいので調べようとはしなかった。

神主が違えば、社の管理も違ってくる。
どうやら新しい神主はマメな男なようで、本殿の巡回も怠らない。
左近の若い頃のように、海にも町にも近い便利な里宮には長居できそうもないので、太平山の山頂の社の方にいることにした。

「……それにな、葉月。今さら謝っても遅いかもしれんぞ」

「なんでだ?」

「この山は女人禁制だ」

頭を抱える葉月を左近は腹を抱えて笑った。

それから数年。二人はそこに住んでいた。
勝負の神様を祭る三吉神社には相変わらず目立ちたがり屋の腕自慢しか来ない。

陸奥と勝負が出来るほどの男は滅多に来ないが、左近は挑まれれば戦った。
葉月はそれをいつも呆れて見ていた。

「……足りんままの雷電でも、あいつよりは強いだろ?」

「まぁな」

「じゃぁ、なんで戦う?」

「そりゃ三吉さんが、オレより怠け者だからだ。
三吉さんが戦ってくれりゃ、オレは戦わないでもいいのに」

「……罰当たりな事を言うな、馬鹿親父」

「じゃぁ葉月が戦ってみるか?」

「え……?」

「オレは三吉霊神として戦うから……お前が陸奥として戦うか?」

いきなりの提案に、葉月は息をのんだ。
即答できなかった。

――陸奥を名乗る事を怖気づいたのだ。

それを見て左近はニィっと笑った。

「やっぱりお前には、陸奥を継がせられん」

それを聞いた葉月は左近の腹を蹴った。
左近は防御も回避もしなかった。いや、できなかった。
だが――沈まない。

「速くなったな……だが軽い」

「……あたしが継がなかったら……陸奥はどうなる!?」

「面倒くさいから、お前が考えればいい」

今度は背中を蹴られた。だがやっぱり軽かった。

* * *

高い山頂の社では、食糧調達は難しい。
だから山を降りてそれをする必要がある。

最近それをしているのは、もっぱら葉月だった。

左近は何かにつけて「面倒くせえ」と言って動こうとしなかったからだ。
文句を言いながら今日もイノシシを抱え、葉月は山頂を目指す。

「親父殿、飯だ――」

葉月はその匂いに覚えがあった。
魚の内臓のような匂いが、社中に立ちこめていた。

「ごほっ……ごほっ……」

咳の音。

「ご……がはっ」

びちゃり。と吐きだされたのは、赤黒い塊。

「親父殿――!?」

「来るんじゃねぇ!」

イノシシを放り出し近寄った葉月の腹を、左近が蹴った。
陸奥を名乗る男の蹴りは、体の軽い葉月など戸の向こうまで吹き飛ばす。

――本気の……蹴り!?

立ち上がる事もままならない葉月が辛うじて顔を上げる。

「親父……どの……何で……黙ってた」

父の顔は……鬼そのものだった。
目の下の濃い隈、こけた頬。吐いたもので赤黒く汚れた口元と、服。
それでも、なおギラギラと周囲を睨み、近づく事すら許さぬ。
乱れた髪の下の顔はニイと笑った。

「お前がギャーギャー言うかと思うと……面倒くせぇなと、思ってな……」

「馬鹿! 三吉様のフリなんかするから、罰があたったんだ!」

「……罰?」

「待ってろ……医者を連れてくるから……!」

医者を連れて山を往復するより、父を担いで山を降りる方が手っとり早いだろう。
だが、父を担ぎあげる事は難しい。それは葉月にその力がないからではない。

今、父の顔は鬼の顔になっている。
近づけば……間合いに入れば、蹴りが、拳が飛んでくるだろう。
それに対抗する強さが、葉月にはないことを、自分自身でよく知っている。

痛む腹を庇いながらよろよろと立ちあがり、外へ向かう。
その葉月の後ろ姿を見送って、左近は社の奥――三吉霊神を祭る祭壇を振り返った。

「罰……? 違うよな? コレは……ご利益って奴だろ?」

病魔が五臓六腑で暴れまわる、苦しみ、痛み。
アイツはコレに耐えて、笑っていたのかよ……。

オレの力が欲しいなら、いくらでも貸してやる。
オレの内臓が欲しいなら、全部くれてやる。
アンタが望むままにこの身を捧げてやる。
そうすれば――願を叶えてくれるんだろ?

縋るように……いや、左近は拳を突き出したつもりで、祭壇に倒れ込んだ。
祀られていた神具が吹き飛ぶように散らばった。

無数の鈴が床に転がる。
その音は、左近にどのように聞こえたのだろう。

「あぁ……」

手を伸ばし、ニイっと笑いながら呟いた。

「……いこう」

* * *

* * *

葉月は一人、暗い社の中にいた。
まっすぐに、三吉霊神のご神体を睨んでいた。

「……雷電に会った」

ご神体は当然、何も答えない。
ただそこに、静かに有るだけだ。

「だが、あたしでは雷電と仕合うには……足らん物があった……。
あたしは陸奥じゃないから……。だから……」

ぐっと自分のへその下を掴んだ。

「あたしが……陸奥を、産む。
母を己が身で焼き殺し、父に殺された火の神の血から、最強の神が産まれたように……。
この世に生まれ落ちる為に母を殺し、父から死すら覚悟させる程の修練を受けたあたしが……最強の人陸奥を、産むんだ!」

幼い頃、母から聞いた物語は、その最強の神が登場する前で終わった。
どんな活躍をするのか、この耳ではもう聞く事ができないのなら……この目で確かめてやる。

「あたしは陸奥だけど、陸奥じゃない。だが……陸奥鬼むつきの娘だ!
女の道と修羅の道。同時に歩んでみせてやる」

そう宣言すると、葉月はご神体に背を向け、社の戸を開けた。
吹き込んだ風は祭壇の鈴を揺らし、葉月の背中にその音をぶつけた。

その音が葉月には、何と聞こえたのか。
葉月は振り返らずに正面から夜明けの風を受け、目の前に広がる薄紫の雲海をまっすぐに見据えて言った。

「有難う」

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