第八話 顛末
天保八年二月十九日、辰の刻。
大塩平八郎率いる、洗心洞門下生、決起。
各所に火を放ち、砲撃を繰り返すも、堺筋淡路町の交戦で、大塩党は散り散りになり、逃げた。
大塩平八郎が小舟に乗って逃げる姿が目撃される。
その夜、手配書が作られ、この事件は全国に知れ渡ることとなる。
大阪の火事が鎮火するのは、翌日の夜になってからだった。
十九日、柏岡伝七逮捕。
般若寺村に身を寄せていた、大塩平八郎の妾、養子格之助の妻子は既に逃亡。
夕方、淀川沿道で、手を繋いで対岸の火の海となった大阪を眺める三人の幼年児を近くの村人が保護。
大塩門下生を名乗るので、奉行所を通し各々の親元へ連絡。
迎えが来るまで、決して互いの手を放そうとしなかったという。
二十日、一味連判状に名を連ねた神主、宮脇志摩、入水自殺。死体は塩漬けにされる。
二十一日、瀬田済之助、逃亡先の河内の恩知村にて、縊自殺。死体は塩漬けにされる。
二十二日、逃亡中の柏岡源右衛門。もう日本には逃げ場がないと諦め、自首。
この日、大阪の乱を知った尼崎藩が自藩の奉行所へ米を民間へと解放する命令書を出す。
これを皮切りに、全国の藩が次々と同じような触れを出す。
二十七日、平八郎の妾、格之助の妻子、京都にて逮捕。
三月、大井正一郎、京都にて逮捕。
大塩平八郎、格之介、未だ行方不明。
西村利三郎、家族の証言で江戸へ逃亡した事は判明。未だ行方不明。
* * *
三月二十七日。
どこに隠れているのかと言われていた大塩平八郎は、養子の大塩格之助とともに大阪の商人の離れに潜伏していた。
が――とうとう店の使用人によって奉行所にこの場所がばれてしまったのだ。
「……全国に、大塩平八郎が指名手配されているそうです。もう逃げ場はありません」
「と、言う事は、この騒動は全国に知れ渡ったちゅう事やな。狙いは完璧や。
しいて言えば、跡部の首を取っておれば、言う事はなかったんやけどな……。まぁ、しゃあないな。
あとは――民たちにもう一押ししてやるだけや」
そして大塩は、着物の裏に縫いつけていた火薬を取り出した。
「大塩平八郎が捕まったとあれば、せっかく捲いた火種が消えてまう。せやから、わしはコレで木端微塵に派手に逝く。
昔にもあったろう。源義経はホンマに奥州で死んだのか、とか、織田信長の遺体がないから本能寺から逃げ出したんやないか、とかな。
わしも源義経や織田信長になるんや。民たちがもしかしたら大塩平八郎が戻ってくるかもしれへん……そう思うだけでええんや。
自分らの味方がどこかにいるかもしれん。そう信じるだけで炎を燃やし続けられるもんなんや。そしたらいつか、民たちは自分らの手で……新しい日本を作る」
格之助は「お供します」と深々と頭を下げた。
「あなたが夢見た、新しい日本を……民たちの力を信じます」
大塩平八郎、格之助親子、靭油掛町美吉屋の離れで持っていた火薬で焼身自殺。
死体は塩漬けにされた。が、顔の判別が付かなかった。
その為――大塩平八郎は実は生きていて、大陸へと逃げたとまことしやかに噂される事となる。
四月。 広島三原で「大塩門弟」と幟を掲げた一揆がおこる。
* * *
江戸神田――。
日本橋の一角に、人だかりが出来ていた。大道芸人が、踊りを披露していたのだ。
不思議な足の運びで手を振り回すそれは、日本橋を行く人の足を止めた。
人が集まれば、ますます芸人は派手な動きをしはじめる。くるりと宙返りをしたり、二回転の回し蹴りをしたり……。
そして客たちも十分集まり、注目を集めた所で「とっておきの大技」を披露した。
「さぁさぁ、神田の願人、冷月様の大技を見れば、お伊勢参りの御利益ありだ! 見事決まったら、お布施をくんなぁ!!」
両手に持っていた木製の鳴子。その右手の鳴子を宙へ放り投げると、体を反らせて、右手をついた。
そして天を蹴り上げるように足をあげ再び立ち上がると、まるで磁石でもついているかのように鳴子が右手に納まった。
歓声とともにおひねりが飛んでくる。 それを拾い集めていると……みすぼらしい格好の男が、冷月に近づいた。
「……その技」
「ん? どうでえ、すごかったろう! さぁさ、あんたもお布施を……」
「陸奥圓明流、弧月」
「あん? ……あんた、陸っ奥ぁんを知ってんのか?」
「弟子にしてくれ!」
いきなり地面に額を擦りつけたので、冷月は慌てて顔を上げさせた。
「ま、まぁ、そこまで頭を下げるんなら、弟子にしてやらん事はないが……あんたの名前は? どこのモンでぇ?」
「河内弓削村、西村利三郎」
「河内って……ずいぶん遠くから来たなぁ……」
もちろん大阪の事件は江戸にも伝わっている。冷月も河内と聞いて、それに思い当たったのだが……。
「とりあえずな、そんなボロいナリじゃぁ、客は寄って来ねぇから、まずは風呂でも入りに行こうぜ!
江戸の風呂は初めてか? すっげぇ熱ぃから、ヤケドすんなよ?」
ニイと笑って、利三郎の肩を抱き、銭湯へと向かった。
* * *
六月七日。 幕府は大塩党及びその関係者の刑罰の吟味を命じた。
* * *
牢獄の中は、暗くて臭い。窓が無く、日光も届かないし、換気も悪いので、病気に罹る者も少なくなかった。
毎日誰かが倒れ、運ばれて行く。しかし医者に見せる前に死ぬものもいる。これらは皆病気で死んだ――と、されてるが……。
中には同じ牢内の者に殺された者もいる。理由は様々だ。
牢内の掟を破った。牢名主の機嫌を損なった。夜、鼾が煩い。差し入れを分けなかった。大体がそんな所だ。
幸い、兵衛が押し込められた牢屋の牢名主は物解りが良かった。
たった一発の裏拳で兵衛にチョッカイ出すのをやめてくれたし、差し入れの品や、畳の広さまで優遇してくれた。
ものすごく良い奴じゃないか? と思ったが、良い奴なら牢名主になるまで牢にいないだろう。
拷問に関しても尋問の時に特に否定するような事も聞かれなかったせいか、噂に聞くような酷い事はされなかった。
とは言っても、牢内の生活は快適とは言い難い。
逃げ出そうかと考えなかったわけでもない。だが思っていた以上に隙がなかったのだ。
そして牢に入れられ、日にちの感覚もなくなった頃――兵衛の牢屋に一人病気の者が出た。そうすると、あっと言う間に感染する。
一人、また一人と倒れ、医者の所へ連れて行かれ――二度と帰らなかった。柏岡源右衛門も伝七も……。
そして兵衛も。
不衛生な牢内に数ヶ月も放っておかれたのだ。いくら頑丈な体とはいえ、内側から壊されたらひとたまりも無い。
高熱で珠のような汗が全身から出ていた。
熱を出すなど、子供の頃以来だ。
子供の頃、夜中に熱を出して、母に背負われて里へ降りた――。
『開けろォ! 兵衛がッ!! あたしの子がッ!』
医者の屋敷の戸を壊さんばかりに叩く母を思い出した。……いや、実際に少し壊れていた。
穴のあいた戸に、ぎょっとした医者の顔をぼんやりと思い出す。
結局は大した事は無く、苦い薬一包みでケロリと治った。
翌日、医者の屋敷で目を覚ました兵衛が見たのは、朝食を平らげている母の姿。
その横で笑顔を引きつらせている医者に向かって「ご迷惑かけました」と、母の代わりに頭を下げた。
思えばあれが初めての土下座だった気がする。
だが薬を飲んで眠る時……体がほわりと温かくなったのを、なんとなく覚えている。
あの時は薬が効いたのだと思っていたが、実は母が自分を抱きしめたからだと気づいたのは大人になってからだ。
大人になり、女の温もりを知ってからだ。
――ミズホ……抱きてぇ。
ミズホは今頃何をしているのだろうか。田植えはもう終わっているはずだ。
そう言えば、最近まで蝉の声が聞こえていた。それが聞こえなくなって、何日か経ってる。
と、言う事は……刈り入れまでもうすぐだ。
――刈り入れを終えたら……もう一度抱かれちゃる
兵衛は、寝返りを打つように、うつ伏せになり、体を引きずって格子へと近づいた。
「卯兵衛さん、大丈夫かい?」
「横になってた方がええで」
牢屋の囚人仲間が声をかけたが、「帰るんだ」と一言呟いて、ずるずると進む。
そして格子を掴――。
般若寺村の卯兵衛が動かなくなったと、知らせを受けた牢役人が来たのは、その数刻後。夜が明け始めた時だった。
格子を強く掴み、その指を剥がすのに苦労したという。
* * *
ミズホはその日、奉行所の前で待っていた。
刑罰の吟味が始まって数ヶ月。
姉と姪が、ようやく無罪放免とされ出てくるのだ。
何人もの家族が再会を喜びあい、あるいは服だけを渡され泣いていた。
嫌な予感を振り切って、姉たちの姿を探すと、幼い娘の手を引く見慣れた姿が見えた。
「お姉ちゃん!」
やつれてはいたが、間違いなく姉と姪だ。
駆け寄って抱きつくと、ずいぶん細くなっているのが服越しに解った。
それでも、鼓動が――生きているぬくもりがあった。
「ミズホ……元気そうで、良かった」
「何言うてんねん! お姉ちゃんの方が大変な目に合うてんやないか! こんな時ぐらい、自分の心配しぃや、アホ!」
しかし、喜んでばかりではいられないのだ。
柏岡源衛門、伝七。伝七の妻と三男。姉の末の男児が、牢内で『病死』したのだ。
加えて残った源右衛門と伝七の息子達は、皆島流しとされた。
手放しで喜ぶには、あまりにもその沙汰が重い。
「ミズホ……痛いって」
「あぁ、ごめん」
「柏岡の家は今、どうなん?」
「分家の善次郎さんが土地を買い戻そうと必死や。一応、お姉ちゃんの受け入れも整えてるみたいやけど……」
「……ミズホは?」
「ウチは柏岡のモンやないし……前より居づらくなるかもな」
「そんな……」
「でも、平気や! 兵衛さんが戻ってきたら……」
「柏岡の者やな」
役人が、ミズホたちに近づいて来た。
「そうですが……」
「卯兵衛という男は、お前ん所で雇われてたのやろ?」
「……はい」
「今朝、死んだ」
ミズホの耳には、役人の声しか聞こえなかった。
周りには、喧しいぐらいの人がいるのが見えるのに、役人の言葉しか耳が認識しようとしなかった。
「まだ吟味中故、死体は返せんが……あいつの服だけ持って行け」
そして姉に包みを渡して、去って行く。
「……ミズホ」
ミズホは姉が振り返るより先に包みに飛びつき、奪うようにその中身を確認した。
そして震える肩を姉が抱きしめようとすると、突然駆けだした。
「ミズホ!」
追って行くと、人通りのない裏路地でうずくまっていた。
肩を震わせて、時折苦しそうに息を洩らす。
姉は何も言えず、もう一度抱きしめようと手を伸ばすと――
「お姉ちゃん来ないで! こんな顔、お姉ちゃんに見せられん!」
「何言うてんの! たった二人残った姉妹やないの!」
ミズホの肩をぐっと掴み、振り返させた。
――笑っていた。
「ごめんなぁ……源右衛門さんも、チビちゃんも、死んでもうたのに……ウチ、嬉しゅうて……我慢できなくて……」
包まれていたミズホの父の着物を、クシャクシャになるまで抱きしめた。
「兵衛さん……生きとんよ!」
そして、大声で笑い出した。中々止まらない。
――もしかしたら、ミズホが壊れたのかもしれない。一瞬そう思ったが――。
「兵衛さんな、お父ちゃんの着物、ごっつぅ大事にしてくれるんよ……。絶対に汚したり破ったりせぇへん!
せやから、あの騒動の時に着とった服はコレやない! きっとな、懐に入れて燃やされんようにしてくれとったんよ!
……せやからコレしか返って来ないちゅうことは……兵衛さん、生きとんよ!」
――数刻前。
般若寺村の卯兵衛が動かなくなったと知らせを受け役人たちがやって来た時、確かに兵衛は格子握りしめて動かなかった。
「オレの番の時にくたばりおって……」
めんどうくさそうに、格子を掴む指を一本一本剥がして行く。
「固いな、まったく……」
なんとか全て指を剥がし牢を開けたとたん、兵衛の手が役人の顔を掴み地面に叩きつけた。
扉の前にいた役人が慌てて閉めようとしたが、閉まり切る直前で扉が止まった。
二人掛りで押しても、びくとも動かず、それどころか押し負けている。
地獄の鬼の様な雄たけびと共に、扉が押し開かれる。そして――。
「卯兵衛さん、手伝うで!」
囚人たちが一斉に扉に体当たりして来て吹き飛ばされた。
更に外へと繋がる扉を破り、混乱状態の庭をつっ切り、塀を越える。
無数の弓が飛んできて兵衛の肩にも一本刺さったが、その勢いは止まらなかった。
塀を越えた先は、重病の囚人が入れられている屋敷の庭だ。
兵衛が入れられた牢屋とは違い、臭い匂いもせずに、明るい。
格子はついているが大きな窓があり、そこから何事かと覗く顔がいくつもあった。
その中に見知った顔があった。
顔の半分が包帯で覆われていたが、間違いない。
「ミネ!!」
兵衛は、走りながら叫んだ。
「あの約束……覚えてるからな!」
――もし何かあった時、オレの目の届く所に弓太郎がいたら、助けてやる。
「だから、何かくれ!」
「……はい」
ミネは半分の顔で、笑った。
兵衛はそれを確認する暇もなく、再び塀を越え外へ脱出した。
できない事は口にしない主義だが――女は口約束だけでも安心できるものだ。
それが遠い昔、約束も交わせずに別れた女から教わった事。
その彼女に少し似ていたミネが、それで救われるのなら――。
見上げた空は、白み始めていた。
「……逃げられた……」
脱獄した囚人たちは捕まえたが、人数が合わない。
牢番の役人たちは、自らの咎を恐れた。
「……毎日誰かが死んでるんや。死んだ事にすればええやろ?」
大塩平八郎が聞いたら、どこまでも腐っていると憤った事だろう。
* * *
大塩平八郎一味判決。
東町奉行所与力隠居 大塩平八郎 四五歳
首謀者(一味連判)
逮捕時、自殺。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
大塩平八郎養子 格之助 二十八歳
首謀者(一味連判)
逮捕時、自殺。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
大塩格之助倅 弓太郎 二歳
首謀者縁者
幼すぎる為特別に許され、大阪に永牢。
大塩格之助妻 ミネ 十七歳
首謀者縁者
吟味中、牢内で死亡したため、判決無し。
東町奉行所与力 瀬田済之助 二十五歳
首謀者(一味連判)
逮捕前、自殺。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
東町奉行所与力 小泉淵次郎 十八歳
首謀者(一味連判)
乱発覚時、奉行所に泊り番でいたため斬殺される。
塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
摂津吹田村神主 宮脇志摩 四十一歳
首謀者(一味連判)
逮捕前、自殺。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
摂津般若寺村庄屋 橋本忠兵衛 四十二歳(大塩ミネ実父)
首謀者(一味連判)
吟味中、牢内で死亡。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
摂津般若寺村百姓代 柏岡源右衛門
首謀者(一味連判)
吟味中、牢内で死亡。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
柏岡源右衛門倅 伝七
首謀者(一味連判)
吟味中、牢内で死亡。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
摂津般若寺村農間日雇い 卯兵衛
首謀者
百姓たちを動員、扇動。
死罪のところ、吟味中、牢内で死亡。遺体は試し切りに使われた。
無宿 大井正一郎 二十三歳
乱発覚時、親族より縁を切られている。
首謀者(一味連判)
吟味中、牢内で死亡。塩詰した遺体を市中引き廻しの上、磔。
河内弓削村百姓 西村利三郎 二十五歳
首謀者(一味連判)
市中引き廻しの上磔のところ、既に潜伏先の江戸で病死。埋葬された為、墓の取り壊しを処す。
なお、事情を知りながら届けず、埋葬した大道芸人民吉(通称冷月)は、三十日間の謹慎を言い渡される。
東町奉行所同心 平山助次郎 三十二歳
首謀者(一味連判) 改心し、奉行所へ密訴。宥免される。
しかし身柄を預けていた家で自害。生きていれば昇進。
東町奉行所同心 吉見九郎右衛門 四十七歳
首謀者(一味連判)
改心し、奉行所へ密訴。宥免され昇進する。
吉見九郎右衛門倅 英太郎 十六歳
首謀者縁者
改心し、奉行所へ密訴。褒美銀五十枚。
東町奉行所同心 河合八十次郎 十八歳
改心し、奉行所へ密訴。褒美銀五十枚。
なお父の河合郷左衛門は連判前に出奔。事情を知っていたと考えられるが、未だに行方知れず。
* * *
秋。
焼かれた大阪の町も復興し、以前の様な活気を取り戻しはじめた。
山々が黄や紅に染まり、田んぼも黄金色に広がっている。
般若寺村では、今日は稲刈りだ。
ミズホは両手いっぱいの稲を持って、家路に向かっていた。
いくら耕して刈りいれても、結局自分の手に入るのはこれだけだ。
それでも――。
――去年よりも、増えた!
冬の間ためした肥えが効いたのか。それとも、夏に去年よりも太陽が照ったからか。
もしかしたら、ミズホの執念にも似た耕し方が効いたのかもしれない。 ――あとは……。
ふと、赤とんぼが舞う夕焼け空を見上げる。
「兵衛さん……刈り入れ、終わってまったで」
家に戻ったミズホは、兵衛の刀を抱き、世界地図を眺めた。
きっとどこかで、生きている。そう信じる事ができるだけでも幸せだ。 でも――。
明日別の村の男がミズホを貰いにやって来る。
前に姉が言っていた男だ。
大塩の事件で有耶無耶になってしまったとばかり思っていた。
――よっぽどせっぱ詰まってんのやろか……。
柏岡がミズホの縁談を無理に進めようとしているのは、世間体と厄介払いの為だというのは子供が見ても解る。
相手だって、本当はどう思っているのかわからない。
『刈り入れまで待ってください』
ミズホは頭を下げてそう懇願するのが精いっぱいだった。
「兵衛さん……刈り入れ、終わってまったで」
もちろん刀も、地図も何も答えなかった。
じっと地図を眺める。
自分がいる大阪は、この地図の中では米粒の半分ほどの大きさもない。
――一生、こんな小さな所におるんかな……。
世界は、こんなに広いのに――。
今まではなんとなく感じていただけだったが、自分はもうその形をハッキリと知ってしまったのだ。
知ってしまえば、もう止まらない。
『うち、旅に出たいねん』
『どこに行きたいんだ?』
『お伊勢さんにも行きたいし、江戸も見物したいし……もっと遠くでもええなぁ』
ミズホは刀を抱きしめ、立ち上がった。そして地図を外し、掴んで外に出た。
日は沈みかけ、赤紫の雲が流れて行く中、村の入り口にある櫓を目指して走った。
この村からどこまで見えるのだろうか。それを突然確認してみたくなったのだ。
しかし櫓に登ってはみたものの、見えるのは川と山と城。夕日で真っ赤に燃える大阪の町だけ。
櫓に登らずとも見える景色ばかりだった。
もう一度地図を広げてみる。
――ホンマに広いんやなぁ……世界って。
この世界で陸奥兵衛という男と同じ時代と国に生まれ、出会えた。
それだけでも、奇跡だったのかもしれない――。
そう思って、諦めたように笑い、地図を畳んで懐に納めた。
そして何気なく村から町へと続く道を見下ろすと――一人の男が歩いているのが見えた。
ボロボロの道着を着て、伸ばしっぱなしの髭。空腹で虚ろな目は、出会った時と同じ様子だ。
「兵衛さん!!」
ミズホは一瞬飛び降りようとする勢いだったが、思いとどまり急いで梯子を降りた。
梯子を下りて、入口まで走る。すると――兵衛が倒れた。
「兵衛さん!!」
駆け寄ろうとするのを、ぐっと足に力を入れて踏みとどまった。
「……村までもうすぐやで! 早う帰って来てや!」
兵衛は再び立ち上がり、フラフラと前に進もうとして、また倒れる。
「刈り入れはもう終わってんで! 田植えも手伝わんで何してたんや、ドアホッ!
早う村へ帰って来い! ここまで来たら……」
倒れてもまた起き上がり、前に進む。
「約束通り、抱かれてあげる!」
足取りは覚束ないが、目だけは村の入り口で両手を広げているミズホを捕らえていた。
「アンタの好きな、乳も尻も、ここにあんで! 早うせんと……他の男に取られてまう!」
「それは……嫌だな」
呟く声が聞こえる程、近くまで来た。
「ウチも嫌や!」
そしてミズホの上に圧し掛かるように、倒れた。
何日も風呂に入っていない、むっとした男の匂いがミズホの鼻の奥までくすぐる。
秋の虫の音の合唱に、腹の虫の音が混ざった。
「ミズホ……」
兵衛が倒れたまま頭を動かすと、ミズホのクスクスと笑っている目と合う。
「オレに抱かれてくれ!」
「その前に、風呂と飯にしよな」
ミズホの細い腕が、兵衛の背中をぎゅっと抱えた。
* * *
翌日、相手の村の男が来てもなかなかミズホがやってこないので、ミズホの姉が慌てて迎えに行った。
「ミズホー! ええ加減、覚悟決めぃ!」
ミズホの姉が玄関を開けると、そこに居たのは布団にくるまったままのミズホと――。
「……卯、兵、衛、さ、ん?」
その横で肘をついて寝そべってミズホの寝顔をニヤニヤと見ていた兵衛だった。
「お、久しぶり」
まるで昨日も会っているかのような気軽さで、上半身を起こして片腕を上げた。……服は着ていないようだ。
「あんたホンマに生きとったの!? 死んでなかったの!?」
「日雇い百姓の卯兵衛は死んださ。ここにいるのは、陸奥兵衛という、鬼だ」
「鬼?」
熟睡していたミズホが目を覚ます。
姉には気づいていないのか、兵衛を見て「おはようさん」と甘えた声を出して抱きついた。――服は着ていない。
どういう事なのかは、子供じゃあるまいし、嫌が応でも思い知らされた。
音を立てる勢いで顔が熱くなる。
「刈り入れはもう終わったんだろ? 約束通り貰って行くぜ」
「んー? 誰と話して……」
振り返ったミズホから、サァーっと血の気が引いて行くのが解った。
ゆっくりと青くなった顔が一瞬で赤くなる。
姉とミズホが同じような顔で、兵衛を見ていた。
――やっぱり姉妹だなぁ、よく似てる。
でも、できれば笑ってる顔で比較したかった、と思った。
姉の唇がブルブルと震え、言葉を放つ。
「向こうさん、もう屋敷におるんやで……」
「知るかよ。第一オレの約束の方が先だろ? オレはちゃんと柏岡のジイさんに従って、大塩に手を貸した。牢屋にまで入って死罪の判決まで受けたんだぜ?」
「向こうさんはアンタみたいな、どこの馬の骨とも知れん根なし草とはちゃう。村役場のお役人さんや! アンタはミズホを食わせていけんのか!?」
「狩りは得意だぜ? せめてアバラが隠れるくらいは食ってもらわねぇと、子供も産ませらんねぇしな」
「こ、子供っ!?」
と、今度はミズホが素っ頓狂な声を出した。
ニイっと笑って姉に見せつけるようにミズホの腰を抱き寄せ、真っ赤になって固まったままの顎をぐっと掴み、目を合わさせる。
「で、ミズホは……どっちがいいんだ?」
「な、なにが?」
「今日初めて会う顔も知らねぇ村役場の男と、昨日熱い一夜を過ごした根なし草のオレと、どっちのモノになりたいんだ?」
「え……あの……その……」
目を逸らすミズホの顎をぐいと引き、何度も無理やり目線を絡め取る。
「オ、レ、だ、よ、な?」
「は……はぃ……」
「よし。ミズホの家で、ミズホの家族の前で、双方同意した。これで結納終了だな。オレのモノだ」
「そんな結納があるかい!」
姉が抗議する。
「そ、そんなん……向こうさんに、何て言うつもりや!」
「鬼に手籠にされて攫われたとでも言っといてくれ。
返して欲しいなら相手になる――追いかけて来て斃してみろ、とな」
姉の知らせを受けて柏岡の家の一同と相手側の男が来た時、既に二人の姿はなかった。
ただ、その代わりのように――姉妹の父の着物と、ミズホの赤い振袖が囲炉裏を囲むように置かれていた。
「柏岡のジイさん最後の頼みちゅうから、年増の行き遅れでも貰うてやろうと思うたのに、コレはどういう事や! 恥かかせやがって!」
柏岡が男に平謝りしている間、姉の娘がどこからか書き置きを見つけ差し出したので、こっそり開いた。
ミズホの字で謝罪の言葉と落ち着いたらまたコッソリ連絡する旨が書かれていて、最後に『振袖はもう必要なくなったから姪に譲る』と結んであった。
「フン……行き遅れの振袖なんか、縁起悪いわ」
「そんな事ない」
一緒に手紙を覗いていた姉の娘が呟いた。
「ミズホ叔母ちゃん、いっつも言うてたやんか。嫁に行くなら、おもろくて男前やないとあかんて。その通りなったやん」
「アホな妹や……まったく」
姉はいつものように冷めた目で、ため息をついた。
秋の風が、紅葉を運ぶ。
その先にある小高い丘で、ミズホは生まれ育った村を見下ろした。
「ホンマちっぽけな村やね」
手をかざせば、すっぽりと納まってしまう。ここが世界の全てだった。
だが目の前に広がるのは、もっと広い世界。
村の櫓に登った時よりも、もっと多くの山や川や町、そして海が遠くに見える。
振り返れば、すぐ後ろに米俵を担いだ兵衛が立っていた。
「もういいのか?」
「うん。兵衛さん、おおきにな。ホンマに村から出してくれて……」
「飯の礼は、絶対にする主義だからな」
「まぁ、やり方がちょいと乱暴やったけど……」
そして街道へ続く道を歩く。その後ろを兵衛がついて来た。
「……ミズホ」
「なんや?」
「約束は果たしたんだ。夫婦のフリは、もう終わりでいいんだろ?」
びくっと肩が強張り、立ち止まった。
そしてその頭の上に、兵衛の顎が乗っかった。
「もう本当の夫婦って事でいいんだろ?」
「……へ?」
思わず上を向くと、兵衛の顔が逆さまに見えた。
「嫌なのか?」
兵衛がニイっと笑う。「そんなワケねえよな」とでも言いたげだ。
それが少し癪にさわったので、ミズホはツンとそっぽ向いた。
「嫌やないけど、納得いかへん!」
「なんだよそれ……」
「だって兵衛さん……出会うた時からそんな事言うてるやん」
「出会った時からそう思ってたんだぜ? 柏岡の爺さんの前でも言っただろ? 飯も美味いし、美人だ。惚れる理由には充分すぎる」
「アホッ。惚れた腫れたの色恋と、夫婦になるならんは別や」
「……嫌なのか?」
不安げに眉をハの字に下げた。それを見て、ミズホは満足そうに笑い、再び歩き始めた。
「せやから納得いかんだけで、嫌やないって。ウチも柏岡のジイさんの前で言うたやろ?
こんな歳まで行き遅れた女、嫁にしたいなんてアホはアンタだけやねん。せやから喜んで貰われて行きます」
兵衛が目を輝かせて、ミズホの後をついて歩く。
「まず、どこに行くんだ?」
「せやな、お伊勢参りかなぁ」
「伊勢か……蛸だな」
「え? 海老やのうて?」
「蛸だ。試したい事があるんだ。お前にやってもらいたい」
「ウチ、蛸は捌いた事ないけど……」
「お前なら、出来る!」
「そか……じゃぁ、がんばってみるわ」
兵衛がニイっと笑った事に、ミズホは気づいてなかった。
「お伊勢さんの次は、江戸に行きたいなぁ」
「江戸か。……そう言えば大阪から戻ったら米を分ける約束したなぁ」
「……誰と?」
ミズホが般若のように睨みながら振り返った。
「……飯を奢ってくれたオッサンだよ」
「そか」
そしてまた笑顔に戻る。
兵衛は、元々しようとは思っていなかったが、浮気は何があってもしないと改めて誓った。
そして動揺を誤魔化すように質問する。
「江戸の次は、どこに行くんだ?」
「んー……あ、温泉入りたいなぁ。兵衛さん、ええ所知らん?」
「温泉だったら北だ。オレの知ってる温泉はな、猿や鹿や熊や狼も入りに来るぞ」
「熊や狼ぃ!? 嫌やわ、そんな危ない温泉」
「オレと一緒に入れば、熊も狼もどうってことない」
「……そうやね、あんたが一番危ないわ」
語り合う二人の前に、道はどこまでも続いていた。