出海は夕方に出かけて行った。家主の老人の使いで越後まで手紙を持って行くらしい。
握り飯の礼もあるからと快く引き受けていた。いくら足に自信があっても行って帰ってくるまで何日も掛るだろう。
「それじゃぁ、じいさん。鉄蔵を頼むぜ」
「ああ。雨の中、すまんね」
雨のせいか、出海にやられた胸の傷が痛む。以蔵は老人の優しい笑みに甘えて布団を貸して貰っていた。
が、異変はその夜に起こった。
雨に混じる騒がしい気配で目が覚めた。
耳を澄ました所で入ってくるのは激しい雨音。だが、気配で解る。
痛みに耐えながら、どうにか上半身を起こし手探りをした。
――刀は……オレの刀は、どこだ?
しかしどこにもなかった。
気配はさらにはっきりしてきた。話声もかすかに聞こえてくる。
「えぇ……確かに尊王攘夷と騒いでおりました」
老人の声。
「ふむ……昼間に賭場で暴れた土佐藩士がいたそうだ。そいつかもしれんな」
――馬鹿な、オレはずっと伏せっていたんじゃ……オレなわけなかろう!?
老人がそう証言してくれるはずだ。そう思った。
「……おそらくはそうでしょう」
老人の声を聞いた瞬間――全ての音が消えた。
「御用改めである!!」
障子が開かれた。しかし、部屋には誰もいない。布団はつい先ほどまで誰かがいた事を示してはいるが……
「……ご老人、逃げられ――」
青年は突然庭先へと吹き飛んだ。以蔵が体当たりをしたからだ。
庭の石に頭をぶつけ、昏倒した青年の刀を鞘から抜き、構えた。
「て、抵抗するな! 囲まれているんだぞ!」
別の男が老人を庇うように構え、叫ぶ。
以蔵は、虚空の様な目で老人を睨んだ。以蔵の感情は伝わらない――ただ、見つめている。
そして、不意に塀を乗り越えて、逃げた。
「裏へ……裏へ逃げたぞぉおおおお!」
* * *
裏路地を駆ける。泥と化した細道は足を取って走りにくい。なんとか通りへ出た。
こんな激しい雨の夜……。さすがに人はいなかった。そう……“人”は。
「土方さん……こんな夜に出歩かないで下さいよ、もう」
「オレだって出歩きたかぁねえよ。お前がいなけりゃ、あのまま店にいたんだ」
「でしょうねぇ」
「全く、近藤さんもなんで沖田を連れてけなんて言ったんだ」
「土方さんがこうなるからですよ。全く……せっかく新撰組なんて立派な名前を頂いたんですから飲んでばかりいないで下さい」
「馬鹿。オレはあの店に天誅組の残党がいるって聞いて……」
二人の男……いや、鬼が以蔵に気づき、足を止めた。
「天下の往来で、抜き身の刀握り締めて……何してんだぁ?」
「場合によっては御用――ですよ?」
雨粒が以蔵の頬を伝う。
後ろからは、無数の提灯が近づいてくる。
後門の犬、前門の鬼。
――どうせなら……前だ。
泥が飛びはね、火花が散った。
* * *
出海が京都の老人の家に戻った時、以蔵の姿は無かった。あの翌朝、フラっとどこかへ行ったらしい。
「今日はいい天気なのになぁー」
京都にいると面白い情報が手に入る。
会津藩の目付けで、新撰組ってのができたらしい。そこにいる土方っていう男はめっぽう強いらしい。
「……まさか、あいつらも京都にいるとはなぁ」
坂本龍馬が兵庫で会社を作ろうとしているらしい。
「龍さんも、とうとう黒船作るんだなぁ……」
そして――土佐で勤王派が投獄され、次々に拷問に掛けられてるらしい……。
中には拷問の最中、死んだ者もいる。
「……“岡田以蔵”は?」
無宿人の鉄蔵っていう男が京都を追放されたらしい。
「“岡田以蔵”は、どこにいる?」
ついに人斬り以蔵が拷問に耐えきれず口を割ったらしい。
自分は散々人斬ったくせに、根性無しやなぁ。
出海は手に持った握り飯を飲み込むと、刀を腰に差して立ちあがった。
「出海さん、またどこか行くんですか?」
「ああ……ちょっと土佐まで、な」
* * *
いたい。つらい。何でこんな目に遭うんだ。
そう言った時アイツらは「おまんが散々殺したやつの恨みじゃろ」と笑った。
違う。オレはいつだって一撃で殺してきた。こんなに苦しめてはいない。
京都で捕まった時、言われた通り黙っていた。
岡田以蔵の名も、武市半平太の名も、土佐勤王党も出さなかった。
でもオレが土佐訛りだから、すぐにバレた。
それでも……土佐藩邸の者がやって来た時、助かると思った。
『うちの藩には、ほなが奴おらんき』
オレはいつの間にか脱藩扱いされていた。
腕に彫られた刺青は――。
『無宿人土井鉄蔵』
もうオレは、土佐藩士じゃないのか。
もうオレは、岡田以蔵じゃないのか。
もうオレは……尊王攘夷の志士じゃないのか。
なら、オレは一体誰だ?
京洛を追放されフラフラしてる所を襲われた。
ぐるぐるに縛られ、船に乗せられて辿りついたのは懐かしい土佐の海。
そして――牢屋に放り込まれた。
土佐勤王党のかつての仲間が……そして武市半平太が共にいる。
例えお互い顔を合わせずとも、それは心強い支えとなった。
だが、その苛烈な拷問は肉体的にも、精神的にもそぎ落とし、蝕んでいる。
「……以蔵か」
格子の向こうから、懐かしい声が聞こえた。
「た……武市先生!」
何かの間違いだと思った。武市も投獄された身。こんな所に来るわけがない。
だが、現にこうして見える。
幻でも良い。痛む体を引きずって格子にしがみついた。
「なんでオレはここに放り込まれてるんじゃ!? 毎日毎日、あいつらオレをいたぶるき! 先生……これも尊王攘夷の為なんですか!?」
「そんなわけがなかろう、阿呆。もう終ったんじゃ」
「……終ったって、何が」
「全ては――水の泡と消えるんじゃ。わしも……おまんも」
「そん、な……」
「以蔵……おまんは死ねばよかったんじゃ。ほんで土井鉄蔵として生きれば良かったんじゃ」
「武市さん……」
「以蔵――最期は潔く、死ね」
「先生! なんでじゃ!? 何でほなが事言うんじゃ! オレは阿呆だからようわからん! 解りやすく教えてくれ! いつもそうしてくれたろ?!」
「わしらは負けたんじゃ。こんな簡単な事もわからんか。本当におまんは阿呆じゃ」
武市は、もう言葉を発せられなくなった以蔵を一瞥して、また去って行った。
――そうか……オレらは負けてしもうたのか……。
全ての気力が、しゅうしゅうと蒸気のように抜けていくのを感じた。
――じゃぁ、もう……足掻かなくても良いんか……。
土佐勤王党、人斬り以蔵が頑なな口を割ったのは、その日だった。
* * *
慶応元年、五月十一日
その日、岡田以蔵の処刑が行われた。
罪状は九件の暗殺。 打ち首の上晒し首の獄門刑だ。
仲間からも蔑まれる程の極悪非道な行いから、切腹も許されなかった。
白装束を身に纏い、縛られ、大勢の観衆の目に晒される。
空は雲一つなく澄み渡っていた。
暫く空を見上げていた。観衆の野次も耳に入らない。
そうしているうちに、空に吸い込まれていくような感覚を覚えた。
――そうか、水の泡と消えたら……空へ行くのか……
『最期は潔く、死ね』
――オレは一体……何者として死ぬんじゃろか。
読み上げられた罪状は、土佐勤王党の人斬り以蔵のもの。
だが、腕に刻まれた名は「無宿人土井鉄蔵」
下手人が肩を掴み、目隠しをしようとした時だった。
視界の隅に人ではない気配があった。
「む、つ」
見間違いかもしれない。目隠しをされてもう確認はできない。
だが……確かに陸奥出海だった。
今日は――雲一つない良い天気だ。
「死にとうない!」
突然暴れだした以蔵を力の限り押さえつける。
いくら豪の者だと言っても、体中縛られた状態では抵抗などできるはずもない。
しかし、それでも以蔵はもがいた。
「嫌じゃ! オレにはまだやらなきゃいかん男がおるんじゃ! 死にとうない! 死にとうない!」
「えぇい! 往生際の悪い奴じゃ!」
「この後に及んで、まだ斬りたりんのか、この殺人狂め!」
「本当にこの阿呆は土佐の恥さらしじゃ!」
「潔く死なんか以蔵!」
どんなに罵られ石を投げられても……以蔵は叫び続けた。
「陸奥ぅ! 今日は良い天気じゃ! やろう! やろう!!」
以蔵の声は罵声にかき消される。それでも天まで……いや、この先にある海まで届けとばかりに。
「ただ武市さんに恩返しがしたかっただけじゃ!! その武市さんがたまたま尊王攘夷だっただけじゃ!
けんどもう、それも水の泡なんじゃ! 消えたら空に還るだけなんじゃ!!
オレはただ……ただ強くなりたかっただけじゃ!
尊王? 佐幕? どっちでも構わん!! 攘夷? 開国? 勝手にしちょれ!!
だから陸奥! 土佐勤王党の人斬り以蔵でもなく、無宿人の土井鉄蔵でもない――。
オレと……『岡田以蔵』と戦えぇええええ!!」
猿ぐつわを噛まされた以蔵は、もう叫ぶ事もできなかった。
白州に頭を押し付けられた瞬間。目隠しが緩んだが、下手人は気づかず刀を空高く振り上げる。
人々は息を飲んだ。
それは斬首の瞬間に備えるためではない。
以蔵の目……。全てを吸い込むような虚空の目を見たからだ。
その目は何かを探すように世話しなく動き、やがて一点で止まる。
空っぽだった瞳に――修羅がうつる。その瞬間、空が真っ赤に染まった。
* * *
観衆が目を瞑ったり逸らしたりしてる中、一人だけ目をそらさず瞬きもせずに斬首の瞬間を見つめていた男がいた。
やがて目を開けた観衆が歓声を上げる中、そっとその集まりを抜け出すと、ぽつりと呟いた。
「名を明かすのが遅すぎなんだよ……阿呆」
男は海へと向かって走った。
海風が全身を殴るように吹きつける。しかし男の勢いは向かい風でも衰えなかった。
そして強く高い波を割り脛のあたりまで入ると、天に向かって蹴りあげた。
波の飛沫が雲一つない空へと舞い上がった。