II, Lovely Lady – 娼婦たち –
雷がこの売春宿の洗濯夫として雇われて、早いものでもう半年が過ぎた。
なぜそんな長い間留まっていたかというと、理由は色々ある。
初めは、ナンシーという元々は教師だと言う売春婦から言葉や読み書きを習っていた。
水夫たちの会話から学んだ英語は「美しくない」と散々直されたが、お陰で早口でも聞き取れるようになった。
……まぁ、そのお陰でナンシーの部屋から時折聞こえる叫び声の意味が分かるようになってしまったのは、果たして良い事だったのかどうか疑問も残るが……。
「普段は美しくない英語は使うななんて、あたしたちにも言うくせに」
「まぁ、ナンシーみたいなお高く止まった上品な女から下品な言葉を聞きたいって男が多いって事だろ? な、アズマ」
雷は愛想笑いを返すしかなかった。
ナンシーから同じように勉強を習っていた、サンディというブロンドの女の部屋には古い地球儀があった。
何故彼女の部屋に地球儀があるのかは理由は知らないが、サンディは暇さえあれば地球儀をクルクルと回していた。
アズマがある日、彼女の部屋のシーツを取りに行った時もクルクルと地球儀を回して、話しかけて来た。
「アズマは、どの国から来たの?」
くるくると回る地球儀を止めて、日本を指差した。
「こんな小さい島に人が住めるの?」
「住んでる時はデッカイ島だと思ってたよ」
「……帰りたい?」
「まあね。でも帰り方が分からない」
「う~ん」
サンディは自分たちのいる街と、日本を指で押さえて距離を測った。
「西から行った方が近いみたいだよ。ここから海を渡って一直線!」
西海岸はまだ開拓の途中。太平洋を横断する航路はまだ危険も多く、主流ではない。
アメリカ人なら、少し考えれば分かる事だったが――。
「そうか。なるほど」
アメリカ人ではない雷はそんな事は当然知らなかったし、彼女は少し考えるのが苦手だった。
「でも海に渡るには、船に乗らなきゃいけないし……お金がいっぱい必要だよね」
「うーん、そこだよなぁ……兄さんなら船の用心棒にでもなっただろうけど、オレは弱いし」
「じゃぁ、ここで稼いでいけばいいじゃない! アズマ、洗濯上手いし」
「そうかな?」
「ほら、コレも洗って! チップもあげるから!」
サンディが放り投げた脱ぎたての下着が、雷の頭の上に乗っかった。
* * *
そんな風に乾いた暑さの夏を過ごし、情緒もへったくれもない秋を過ごし、冬は赤い鼻でソリを引かされ、ようやく暖かい春が来た。
その日の洗濯を終えた雷は、女主人のシャロンを訪ねた。
「あら、お疲れさん。アズマ」
「シャロン……オレ、そろそろ……」
雷がこの宿を中々出て行かなかった、最大の理由。 それはまだ給料を支払ってもらってなかった事だ。
出ていく時にまとめて支払うと、シャロンに言われていたが……。
「んー、ああ。ごめん。ちょっと出かけなきゃいけないんだよ。また明日ね」
「え……また?」
「さぁ、着替えるから出てってちょうだい」
こんな風にはぐらかされ今日も部屋に帰される。
シャロンがアズマを手放さないのは、別に雷の洗濯技術が素晴らしいとか、そういう理由からではない。
その理由は――
「何してるの?」
自分の寝床のある地下室に入ると、サンディがいた。
「ん……ちょっと眠れなくてね……」
サンディはソファーに座って、膝を抱えていた。
「……怖い夢、見ちゃって……」
「夢?」
「聞いてくれる?」
「聞くだけならね」
「やっぱり優しいね、アズマは。 昔の夢なんだけどね……。
戦争でお父さんが死んで、お母さんはショックで病気になっちゃって。 親戚に預けられたんだよね……。その従兄に、さんざん苛められてた。
……初めは何されてるかわかんなかったんだけど……怖いし、痛いし……。そんなアタシを見て、従兄は笑ってた。
小さい頃はね……普通に結婚して、子供産んで、幸せな家庭を持つんだって思ってたの……。 もう無理よね……」
「そんな事ないさ」
「こんな仕事してるし……、綺麗な体じゃないし……」
「サンディは綺麗だよ」
「……本当に?」
「うん」
「じゃぁ、確かめて……すみずみまで」
サンディは涙目のまま笑い、ソファー寝そべると、自分の胸に雷の手を押しつけた。
雷はその笑顔に笑い返すとサンディの足を抱え、おもむろに横抱きに抱きあげ、ベッドに向かって歩き――そのまま通り過ぎてドアの外に放り投げた。
「ちょっと、お尻打っちゃったじゃないのよ! アザになったらどうするの!?」
「それだけ元気があれば大丈夫だろ?」
「アズマ、冷たい~! 女の子が誘ってるんだぞ!」
「身の上話を泣きながらする女は信用しない事にしてんだ」
「うぅ~。アタシの泣き落しに引っかからなかった男は、あんたが十五人目よ!」
「結構いるのな」
「でも皆、アタシを抱くわ。なんでアズマは抱かないの?」
「……知ってるんだぜ、オレ。お前らオレが誰に最初に手を出すか賭けてんだろ?」
「う……。何故バレた……」
「やっぱりそうか。そんな所だと思ったよ」
「しまった! カマかけたのね! 酷いじゃない! アタシを抱いたら許してあげる」
「許してくれなくて結構」
「お願ぁ~い、アズマぁ、アタシを抱いてよぉ~。今月苦しいのぉ。ポーカーで給料全部すっちゃってさぁ」
「自業自得じゃねぇかよ」
「でね、その帰りにね、可愛いドレスがあったの! 今着てるのがそうなの!
可愛いよね! 似合うよね! アタシに着られるために作られたって感じよね! だから、ナンシーにお金借りてでも買って正解よね!」
「気持ちいいぐらいに同情の余地がないよ」
「でもあんたに抱かれると、負けを取り返せるの! ナンシーに借りた分はチャラにできるし、アタシもアズマも気持いい!
ワオ素敵! なんて良い事づくめ! さぁ、アタシを抱きなさい! 三秒で天国まで連れてって、あ、げ、る!」
壁に手をつけ、尻を向けてウィンクをしたサンディの目の前で、ドアは無情にも閉まった。
雷は暫くドアに背をつけて押さえていた。
ガチャガチャとドアノブを回したり、ドンドンとドアを叩いていたサンディが諦めて階段を上って行った気配を感じ、ほっと溜息をついてドアから離れる。
すると大きな音と共に再びドアが開いた。
「うぃーっす、アズマぁー! エミリーさんだぞー!」
現れたのは、エミリーという褐色の肌の娼婦だ。インディアンと白人のハーフらしい。
両親のどっちが白人で、どっちがインディアンかは、その時によって違うし、たまに白人と黒人のハーフになる。
「エミリー、また酔ってる……?」
「まーねーぃ」
そう言って、持っていたボトルに直接口をつけるので、慌てて奪った。
「また二日酔いするよ。シャロンにも怒られる」
「大丈夫、大丈夫。二日酔い防止には――」
エミリーはいきなり床に膝をつけてしゃがむと、アズマの帯を一気にはぎ取った。
「ミルクが一番ってな!」
褐色の手が宙を掴み、紅を塗った厚い唇がパクンと音をたてて閉じた。
雷は、いつのまにか部屋の隅で袴を直している所だった。
「くそぉ。相変わらず、すばしっこいな……」
「お陰さまで、忘れようと思っていた技まで思い出しそうだよ……」
「技?」
「……こっちの話。ほら、もう部屋に戻らない仕事に響くよ? 帰った帰った」
エミリーの背中を押して、外へ出すとドアにチェーンを掛ける。
すると、またノック音が聞こえたので、チェーンを掛けたまま開くと、隙間からナンシーの笑顔が見えた。
「サンディが、賭けの事バラしちゃったんだって?」
「……言っておくけど、賭けの対象にされてんなら、意地でもやんないからな」
「意地になればなる程、あの子たちは燃えるわね。
あの子たちがもっと過激な事する前に、私で手を打たない?」
「……勘弁してよ」
「嫌?」
「……ナンシーは魅力的だと思うよ。……この店の女は全員ね。でも、こういうのは嫌だ」
「模範解答ね。分かったわ、私は賭けから降りてあげる。その代わり一つお願い」
「何?」
「私を罵って」
「え?」
「私が汚い英語を嫌っているのは知ってるわよね。
客は私に汚い英語を使わせるけど、お金貰ってなきゃ死んでも言いたくないし、聞きたくもないわ。
だけど……外国語の汚い言葉って大好き。私を日本語で罵って」
「……ナンシーに向かって酷い事は言えないよ。いい人だし」
「あなたが人に酷い事言いたがる男じゃない事はよく知ってる。 でも、そういう男から言われるのが……たまらないの」
正直なところ、ナンシーの吐息混じりの懇願の声と表情にゾクリと来たのも事実だ。
これは自分の本心ではない、頼まれて言うことだと心の中で言い聞かせて、言った。
「Heya-ni Modore-yo… Subeta」
「ありがとう、良い夢見れそう。お休み、ぼうや」
ナンシーはにっこり笑って去って行った。
階段を上る足が見えなくなってから再びドアを閉める。
暫くするとまたノック音が聞こえた。
「今度は誰?」
「はぁい、アズ……」
ドアを閉める。 またノック音がしてドアを開けると別の女がいるので、ドアを閉める。
しかし、すぐにまたノック音がするのでドアを開けると別の女がいるので、ドアを閉める。
そしてまた、ノック音が……。
「もう、いい加減にしてくれよ!」
雷はノック音を無視して寝ることにした。
毛布をかぶって耳を塞いで目を瞑っても、眠りに落ちるのには更に時間が掛った。
* * *
「羨ましい限りじゃねぇかよ」
「……他人事だからだろ? そう思うなら代わってくれよ、ビリー」
「代われるもんなら、喜んで代わるぜ」
シーツや服、下着を干す雷の横にいる金髪碧眼の少年は、最近この街にやってきた家出少年で、名前はウィリアムと言った。ヘンリーとも言うらしい。
女が好みそうな綺麗な顔をしているので、女たちにはボニーと呼ばれている。
そしてその人懐っこい性格は男たちからも好かれていて、 ウィリアムの省略であるビリーとか、キッドとか呼ばれている。
「うぉー、すげぇなコレ。下着の役割果たしてねぇだろ」
「毎日毎日洗ってりゃ、こんなのはただの布だって思って来るよ」
「ちなみに誰の?」
「……シャロン」
「受付の婆ちゃんじゃねぇかよ。一気に萎えた。……サンディのはどれ?」
「知って何するつもりだよ?」
「やっぱ、オッパイ大きくてオツム弱めなブロンド女って最高だよな」
「……お金持って店に来れば?」
「イヤミかよ。で、アズマはぶっちゃけ、どの女が好みなの?」
「……みんな魅力的だよ」
「馬鹿。誰にも言わねぇから教えろよ」
「本当にそう思ってるさ……」
雷はそう呟くと、遠くの空を見つめた。 赤い大地と、青い空の境界線のはるか先……。
「……そうか、故郷にいるのか」
その言葉に振り返った雷の顔を見て、ビリーは大笑いした。
「図星かよ」
「そんなんじゃないよ」
「いーや、今の顔は本気だね。店の女の話してる時と全っ然違うもん」
「本当に、そんなんじゃないって」
「どんな女だよー。教えろよー」
ビリーがアズマに詰め寄ったが、アズマは慣れた動きでひょいひょいと避ける。
そうして全ての洗濯を干し終えると、雷は桶を持って物干し場を離れた。
ビリーはしばらく、青い空の下に干された洗濯物を見ていた。
そして事件は、店が始まる少し前、夕方に起こった。
* * *
「ない、ないー! あたしのドレスがぁああ!」
また今日も、給料を渡す渡さないのやり取りをしていた、シャロンと雷の元にエミリーが飛び込んできた。
「アズマ! あたしの赤いドレス、どこやった!?」
「え……? 洗濯物は全部取り込んで、部屋に置いたけど?」
「ドレスがねぇんだよ! 一番のお気に入りの高いやつが!」
騒ぎを聞きつけて、他の女たちも顔を出してきたのを見てシャロンは葉巻に火をつけて、めんどうくさそうに呟いた。
「……最近、ゴロツキどもが縄張り争いして、不良どもが増えたからね。盗まれたのかもねぇ」
「冗談じゃねぇ……アズマ、責任とれ!」
「どうやって……」
「私と寝ろ! それでチャラにしてやる」
「えー?」
雷の襟をつかんで睨むエミリーの視線から逃げるように、シャロンに無言で助けを求めた。
シャロンは鼻から煙を吐いて言った。
「仕方ないねぇ……。賭けはエミリーの勝ちってわけだ。 全く……あたしゃサンディに賭けてたってのに……」
拳を握って「よっしゃ!」と叫ぶエミリー。 同じように嬉しそうに歓声を上げる女もいれば、残念そうに首を振る女もいる。
「オレの意思確認は……?」
「すると思う?」
確かに、今回は言い訳が出来ない程に自分が悪い。 だがそれと、これとは別の事なんじゃないだろうか……。
この感情を英語でなんといえばいいのか考えていると店の入り口が騒がしい事に気がついた。
何事かとシャロンを先頭に見に行くと、保安官がビリーの首根っこを捕まえてやってきていた。
保安官の反対側の手には真っ赤なドレスがあった。
「あ! 私のドレス!」
保安官は飛び出したエミリーにドレスを渡して言った。
「こいつが、このドレスを持ってコソコソしてたから、捕まえたんだ。……エミリーのだろ?」
この保安官はエミリーの客だ。エミリーのキスをニコニコと受けて「どんな勲章よりも嬉しいぜ」とご満悦だった。
その間ビリーは身を捩って抵抗をしていたが、体格の大きい保安官はビクともしなかった。
「だーかーら! 風に飛んだから、拾っただけなんだって!」
「このガキャ、まだそんな嘘つきやがって!」
「本当なんだって!」
ビリーの青い目が、雷を捉えた。
「アズマ! お前なら信じてくれるよな!? 友達だろ!?」
「早く来い!」
雷が返事をする前に、保安官は抵抗するビリーを引っ張って連れて行ってしまった。
「……ボニーが犯人だったんだねぇ」
「全く、どうしようもないね、この町に来る男は」
皆が口々にビリーの噂話をしている。
雷は一縷の希望を込めてチラリとエミリーを見た。
「……ドレスは見つかったんだし、許し――」
「私がマリア様に見えるかよ?」
「……見えません」
エミリーがドレスを持った反対側の手で雷の腕をつかんだ。
「さぁ、皆! 私と雷が次に部屋から出てくるまでに、金を用意しておくんだね!」
すべてを諦めてエミリーの部屋に引っ張られた時……。
雷は反対側の腕を誰かに引っ張られた。
「……サンディ?」
サンディは俯いたまま、呟くように言った。
「賭けはエミリーの勝ちでいいよ……でも……でも……」
時折、言葉が詰まった。 降り始めた通り雨のようにボロボロと落ちる涙は、雷の腕にもポタポタと垂れた。
「アタシも……アズマが欲しいよぉ~!」
そして、雷の腕を掴んだまま座り込み、わぁわぁと子供のように泣き始めた。
「まぁた、始まったよ……」
「気に入った男がいたら、他人の客でもお構いなしなんだから……」
「ほら、サンディ。良い子良い子……」
娼婦仲間に子供のようにあやされながら、サンディは「アズマが欲しい」と何度もしゃくり上げた。
――えーと……
雷は故郷にいるとき、似たような光景を見たことがある。しかも何度も。
『あーん! たろうがあたしの人形とったぁ~!』
『えーん! じろうが、竹トンボ横取りしたぁ~!』
『わーん! はなこが、ぼくにだけ貸してくれない~!』
『うぉー! オレのまんじゅう~!!』
――あ、最後のは親父にまんじゅう食われた兄さんだ。
とにかく、故郷にいるとき里の子供たちと遊んでて、何度も見た光景だ。
――こういう時って、何て言って主張すればいいんだ?
基本的人権の尊重という言葉が日本に生まれるには、まだ百年近くかかるし、その英語をナンシーは教えてくれなかった。
「エミリー、サンディは私たちが何とかするから……」
「おう、頼んだぞ……ったく」
そして雷は抵抗する気力もなく、引っ張られて行った。
* * *
エミリーの部屋に通された雷は、言われるがままにベッドに座った。
「……ずいぶん素直じゃねぇか。もっと抵抗すると思ったのに」
「こうなったら仕方ないでしょ。もう好きにしてください」
そう言って五体を投げ出すようにベッドに仰向けに倒れた。
「ムードねぇなぁ……。淫売だって女だぜ? その気のない男に嫌々抱かれても、楽しくも嬉しくもねぇよ」
雷はフンとふてくされたような顔でそっぽ向いたままだ。
「そうだ、着替えるから待ってろ」
「どうせ脱ぐのに?」
「ムードだよ、ムード」
雷はため息をついて、一旦シャワールームに引っ込んだエミリーを待った。
窓の外の空は、赤く染まり始めている。向かいの酒場からは、音楽が聞こえてきた。
外国の音楽は、騒がしいだけかと思ったが、こういう静かな曲もある。
酒場から聞こえてくる曲は知っていた。毎日聞いていれば覚える。だから思わず口ずさんだ。
「歌、ヘタだねぇ」
「確かに得意じゃないよ。でも、この曲は好きだ」
シャワールームから出てきたエミリーは、あの真っ赤なドレスを着ていた。
「歌詞の意味はわかってる?」
「初めはわらなかったけど……悲しい歌だね」 戦争で死んだ恋人を、いつまでも待ち続ける女の歌――。
「馬鹿な女の歌さ」
エミリーは雷の掌に指を絡ませ、立たせた。
「ダンスは知ってる?」
「村の祭りで踊ったくらいさ。エイサッサのヨイヨイヨイって」
「何だよ、それ」
ククっと笑って、自分の腰に手を回させた。 そして自分も雷の背中に手を回す。
「……こうして、体を揺らすんだ」
「これ踊り?」
「初心者向けのね。ムード出るだろ?」
「……まあね」
音楽に合わせて、しばらく体を揺らしていた。
エミリーからは果物のような匂いがする。
両耳から下がる銀の耳飾りが褐色の表情を引き立てた。
「私さ……前はダンサーだったんだ。 裸で踊ってたから、誰も私のダンスなんて見てなかったけどね」
「今度は身の上話?」
「ムード作りだ。聞いとけ」
エミリーは手を繋いだままクルリと回った。
赤いドレスは花が咲くように広がり、エミリーが体を反らして止まれば水鳥が羽を休めるようにゆっくりと止まった。
「でもさ……この肌の色だろ? 普段は白人ども……、いや白豚どもって言った方がいいか。
あいつら私を人間扱いしない。肌が白くなくっちゃ、あいつらにとっちゃ動物と同じなんだとさ」
「……確かに、オレも散々言われたよ。黄色い猿ってさ」
「だろ? でも、舞台の上にいる私には白人の踊り子と同じように喝采をくれるんだ。
踊ってる時だけ肌の色も関係ない。あいつらは私を女として見る。
裸でいる時だけ、私は人間でいられるんだ」
エミリーは泣きもしなければ、憎しみの表情もしなかった。
ただ淡々と、あるがままの事実、あるがままの過去を受け入れていた。
エミリーは再び雷の手を取って、腰に回させた。聞こえてくる音楽は、もうすぐ終わりだ。
「……ねぇ、アズマ……私、綺麗?」
「綺麗だよ。服を着ててもエミリーは人間だし、いい女だよ」
「奇遇だねぇ、私もそう思ってる」
エミリーが、にいっと真っ白な歯を見せて笑った。だから雷もつられて笑う。
そして音楽がゆっくりと最後の一音を響かせた時、どちらからともなく顔を近づけ――
――突然の銃声。叫び声。
二人が慌てて窓の外を見ると、向かいの酒場から逃げ出す人々が見える。
続いて銃を持った男たちが、一人の男の死体を道に投げ出して、叫んだ。
「今からこの町はオレたちが仕切るぜ!」
そしてニヤニヤと、こちらの売春宿を眺めていた。
無意識に――雷は拳を握っていた。その拳をエミリーはそっと両手で包んだ。
「コレで何するつもりだい? ここは女の城だよ。男はすっこんでな」
「でも……」
「あんた、この拳……できれば使いたくないんだろ?」
「え……」
「私が何人の男を見てきたと思ってんだ?
男なんて単純さ。事情なんか話さなくても、大体の事は、体つきと表情を見ればわかるよ。
少なくともあんたの体が、洗濯するために鍛えられたわけじゃないって事はわかる。
大方、戦うのが嫌で逃げてきたんだろ?」
「……」
「なーんてね、本当はシャロンの受け売りだけどね。その顔は図星みたいだねぇ……」
「……あの人、何者?」
「化物さ。とにかく、あんたの拳は淫売たちの為なんかに使っちゃダメ。
使うんなら……本当に綺麗な女の為に使うんだ。
たった一人の男を、生涯かけて愛し抜く、馬鹿な女の為にね」
「でも……」
「言っただろ、ここは女の城さ。町を仕切る男が何度も変わっても、ずーっとここに居続けた女のね」
エミリーがくいっと外を顎で示した。
窓の外を覗くと、先ほどの男たちが酒場から逃げる女を無理やり捕まえている。
そこにサンディーやナンシー、宿の女たちがやってきて、男たちにしなだれかかり、囁き、抱きつき、キスして、体に触れさせ、手を取り笑顔で宿屋に引いてくる。
傍目から見ると、女たちを庇ったようにも見えた。
「おーおー。だらしない顔だ事。ありゃ持って半年ってトコだねぇ。またすぐにボスが変わるだろうさ」
エミリーが窓の外を見下ろしながら、髪を掻き上げると、銀の耳飾りが大きく揺れた。
「……願わくば今回の白豚たちにも、変態野郎がいるといいな」
「え?」
呟いた言葉の意味を問いただす前に、ドアが開いた。
「……なんだ、あんたらまだ服脱いでなかったの? それとも着衣のまま?」
「キスもまだだよ、マダム・シャロン」
エミリーはにいっと笑いながら、ドアの前にあきれ顔で立つシャロンに向き直った。
「まぁ、いいさね。あんたらも見てただろ? これから新しいボスの就任パーティーだ。
他に男がいたら面倒なことになる。アズマ、これやるからとっとと荷物まとめて裏口から出いきな」
シャロンから渡された袋には、ぎっしりと金や宝石、貴金属や小物が入っていた。
「これは……?」
「今までの給料と……女たちからのプレゼント。
まぁ、大抵はさっきまでのボスやその仲間から貢がれた物さ。
残ってたら面倒くさいものばかりだ、遠慮なく持って行きな」
「シャロン、ありが――」
「礼を言われるような事じゃないさ。
いいかい? ここから出たら、後ろを振り返らず、真っ直ぐに町の外に出ること。
それから――この宿の事はさっさと忘れること。いいね」
「え……」
「売春婦ってのは、夜が明けたら店の外に出てった男の事なんて綺麗さっぱり忘れてるもんさ。
だから、あんたもそうしな。……売春宿の洗濯夫なんて経歴、キズものでしかないんだから」
「……この宿は最高だよ」
「この店を出て行く時、男はみんなそう言うさ」
シャロンに葉巻の煙を吹きかけられ、追い立てられるように自分の寝泊りしていた地下室まで来た。
荷物をまとめて……と言っても、自分のものはこの刀ぐらいだ。
それを腰にさして、階段の上から聞こえる喧騒から逃げるように裏口のドアを開けた。
すると、そこにはサンディがいた。
「えへへ。お別れを言いに来たの」
「サンディ、今までありが――」
右の頬が腫れていた。
「……あの男に、ぶたれたの?」
「ああ、よくあることよ。ほらアタシ馬鹿だからさ、すぐ余計な事言っちゃうんだ。
新しいボスは、右頬のアザがコンプレックスみたいね。アタシは可愛いと思ったのになぁ~」
そう言って頬を撫でながら、いつものように笑った。
「アズマも可愛いよ。背がちっちゃいトコとか、ゴワゴワの髪とか……」
「サンディの可愛いは、よくわからないよ」
サンディが突然雷に抱きついた。 「ねぇ、アズマ……さよならのキスして」
「え」
そして顔を近付けて、唇を突き出してきたので、アズマはため息をついて右頬に一瞬だけ重ねた。
「……それだけ?」
「時間がないんだよ、じゃあね」
頬を膨らませるサンディを離れさせ、その前を通り過ぎる。
そして十歩ほど進んでから、振り返った。
「ああ、そうだ。サンディ、言い忘れてた」
「何よ」
「オレの国じゃ、唇で相手の肌に触れるってのはベッドの中でしかしない事なんだ」
「……素敵な国ね」
雷はまた歩き出した。背を向けたまま手を振る雷に向かって、サンディは呼びかけた。
「アズマー! アタシ、決めたわ! ギャンブルも、無駄使いも、もうやめる!
お金貯めて、いつか日本に行く! そしたら……またキスして!」
雷は振り返らなかったので、聞こえたかどうかはわからないが……。
* * *
ニコニコと上機嫌でロビーに戻ってきたサンディーは、新しいボスがナンシーに見送られ帰っていく後姿を見た。
しかし、その仲間の男たちがまだ何人か残っていた。
その男たちに愛想を振りまきながら、カウンター階段の手すりに身を預けて様子を窺っていたエミリーに近づいた。
「なんだよニヤニヤして」
「アタシ、さっきアズマにキスされたわ」
「……どこに?」
誇らしげな表情でトントンと腫れた右頬を叩いて見せた。
「……そんなの、私らだって毎日してるだろ」
「うん、そうね」
そう言って、サンディはまた「うふふ」と笑いだす。
まぁ、サンディがおかしいのは今に始まった事じゃないが……。
エミリーは再びロビーを見下ろした。
すると……男の一人と目が合った。
「……なんで、白人の来る店に、有色人種がいるんだ!?」
男は階段を上って、エミリーの髪を掴み、引っ張った。
「何すん……」
エミリーの額に銃口が当てられた。
女たちは息を飲み、固まっている。
男の仲間のゲラゲラとした笑い声だけが店に響いた。
「オレたちがこの町を仕切るんだ! この町に有色人種は必要ねえ!」
「……私、これでも馴染みの客多いんだ。私がいなくなったら収益に響くと思うぜ?」
エミリーは額に当てられた黒々と光る銃身を両手で包むように掴み、口元に引き寄せ、銃口を舌先でチロチロと舐めた。
「アンタも一度、試してみてよ……引き金ひくのは、その後でもいいだろ?」
そしてたっぷりと唾液をつけた後、口いっぱいに頬張った。
新聞の号外には、とある町のボスが殺された夜、
そのボスを襲ったギャング団のリーダーが何者かに襲われ気を失って倒れていたところ、早朝パトロールの保安官に発見された事が書かれていた。
発見時、彼は左頬が倍ほどにも腫れる大怪我をして、誰にどうやって襲われたかを聞かれても、真っ青な顔で身を震わせて「Demon」としか言わなかったと言う。
彼は右頬にアザがあるのが特徴だったが、これからは両頬のアザが特徴とされるだろう。と、締められていた。
よくある事件だったので、誰も関心を寄せなかった。
ましてや、記事にもかかれていないその町の娼婦がどんな目にあったかなどと、思いを巡らす者は誰もいない――。
* * *
地平線に沈む太陽を横目に、町を出た雷が向かったのは荒野にぽつんとある少年刑務所だ。
たぶん、ビリーがここに入っている。
『アズマ! お前なら信じてくれるよな!? 友達だろ!?』
――なんであの時、すぐに「信じる」って言ってやらなかったんだろう。
海のような青い目が、まっすぐに自分の目を見てたのに……。
雷なら信じてくれると、信じてくれたのに、それに応えてやれなかった。 そこを後悔していた。
とはいえ、この国の人間でもない自分の証言など、取り合ってもくれないだろう。
ならば――と塀を飛び越え、見上げた刑務所は、思っていたよりも小さなものだった。
ただ、扉は重く当然ながら鍵がかかっているし、窓にはすべて格子がはめられている。
だが、明かりの洩れている窓は一か所。 ……たぶん夕飯の時間なのだろう。
雷は音もなく壁を伝い、屋根までよじ登る。そして煙突の中に入った。
手足を伸ばして少しずつ、時間をかけて降りる。
だんだん、食堂の喧騒が聞こえてきた。
足を伸ばせば床につくところまで降りると、足が暖炉の外から見えないように、慎重に逆さまになり、様子を窺った。
ビリーはすぐに分かった。
刑務所でもすぐに友達ができたらしい。仲間に囲まれて大笑いしている。
でも、別のグループの少年がやってきて、ビリーと一緒にいた少年が思いっきり殴られた。
それからはもう大乱闘だった。
売春宿に居た時、女の喧嘩の仲裁をした事も何度かあるが……。
――やっぱり、男同士の殴り合いは怖いねぇ……。
思わず顔を引っ込めると、ビリーが暖炉のそばまで吹き飛ばされてきた。
暖炉の灰の中に、血の混じった唾を吐き捨てたので、雷はその後頭部をつついた。
振り向き、暖炉の中を見上げたビリーは目を見開いたが、叫び声を上げる前にすすで汚れた手で口を覆われた。
「……アズマ……お前……なんでこんな所に」
「お前を助けに来たんだ。でも結構楽しそうだね」
「冗談じゃないぜ。ご機嫌とらなきゃ、殺されちまう。 だからと言って、一方ばっかご機嫌とってても殺されちまう。
でも、両方にへつらってる事がバレてもやっぱり殺されちまう。
刑務所も町と同じだよ。逃げ場がある分、町のほうがマシだね。まぁ、刑務所は食いっぱぐれる事はないけど」
「一長一短だね……どっちがいい?」
「うーん、町には綺麗な姉ちゃんがいるけど、刑務所にはいない。コレで町の方がマシな理由が増えた」
「オーケー、じゃぁコレを体に結んで」
にいっと笑って差し出したロープの反対側は、雷の体に結ばれている。
「……普通、煙突の外に結ばねぇ?」
「ロープが短かったんだよ。なるべく体重かけないでね。
ビリーの方が手足長いんだし、余裕だろ? あとは絶対に下を見ないのがコツかな」
「やっぱ刑務所にいようかな……?」
「町には酒もあるぜ」
「よし、じゃぁ行く」
食堂の乱闘はさらに激しさを増す。
刑務官は暴れる少年たちを取り押さえるのに必死で、一人いなくなっても就寝前の点呼まで気がつく事はなかった。
ビリーにとっては永遠にも感じた時間を経て、ようやく煙突の外に出た。
お互い煤で真っ黒だが、夜の闇に紛れるにはちょうど良かった。
屋根から降り、塀を乗り越えて荒野へ出ると、ビリーは大きく深呼吸した。
「へへへ……ありがとうなアズマ。オレん家来て妹をファックしていいぜ」
「え? ビリー、妹いたっけ?」
「いや、いないけど……」
「そう。でも冗談でもそんな言い方しちゃダメだよ。女だって意志がある」
「いや、そうじゃなくて……」
「それに、ビリーの家は確か東側だろ? オレは西に行かなきゃいけないし……」
「あー、もう! これだから英語が解らない奴は! 兄弟になろうぜ、って事だよ、馬鹿!」
「……ならそう言えばいいだろ?」
「機知に富んだ会話が英語の真骨頂だ」
「……ファックが知的な言葉とは知らなかった」
「貶す時にも褒める時にも使える便利な単語だぜ?」
「……なんで悪口と称賛が同じ言葉なんだよ」
「日本語にはそういう便利な言葉ないの?」
「うーん、Sumimasen, かな? 謝る時にも礼を言う時にも使う」
「謝罪と感謝が同じ言葉なんて、ファッキンクールだぜ」
「……褒めてんの? 貶してんの?」
あきれ顔で歩き出す雷の後ろをビリーがついていく。
「んで、なんでオレを助けてくれたわけ?」
「なんでって、お前はドレスを盗んでないんだろ?」
「え……?」
「信じてくれって言ってたのに、とっさにそう言えなかった。ごめんな……」
「……アズマ、お前やっぱ、馬鹿だな」
「何が?」
振り返った雷の黒い目は、出たばかりの月と星の光に照らされて、何の疑いもなくキラキラと輝いている。
ビリーの心に罪悪感がふつふつとわき上がった。
「出まかせだよ。連れて行かれたくなかったから……」
「嘘ついたのかよ!」
「でも、今は正直に言ったぜ」
「助けなきゃよかった!」
「Sumimasen! 待ってくれよ、アズマぁ。次の町では、真っ当に働くからぁ!」
「ファック! 当たり前だ!」
雷は眉間にしわを寄せて、太陽の名残のように赤く染まる地平線に向かって大股で歩きだした。
その背中をビリーは慌てて追いかける。
やがて赤が紫に変わり、紺に染まると、名も知らぬ町の明かりが星のように輝いているのが見えてきた。