いじはり合戦

shibaigoya

「お母さんは、許してくれるかしら」
「は? 誰を?」

琥珀がそう呟いたのは、山から降りて、街道に向かってる時だった。

琥珀がオレについて来て、早いものでもうひと月だ。
夜となく昼となく、無意識に――多分無意識だ。そう思いたい――
こう、なんていうか、絶妙にツボを刺激されつつも、どうにかこうにか、まだ夫婦らしい事をやらずに済んでいる。

琥珀は基本的に無口だが、時折口から出る言葉は意味不明なもので、オレは未だにその真意が分からない。

「お母さんは、私を許してくれるかしら……」

オレは、生まれつき、身体の内も外も頑丈だから、骨折以外でどこかが痛むなんて事はなかったのだが……。

――腹を下すのって、こういう事なんだろうか。

鳩尾なのか、へそなのか、よく分からない所がぎゅうっと握られたような気がした。

「……何を、許されたいんだ?」

琥珀が意味不明な事を言っても、ちゃんと聞き返せばちゃんと答える事は知っていた。
でも今回は、聞き返しておきながら、何故かその意味を知りたいとは思わなかった。
耳の奥がドクン、ドクンと脈打っている。

「私ね、小さいころ言われたの。お母さんに」

琥珀は真っ青な空に、はぐれたように浮かぶ小さな雲を見つめながら言った。
その表情は、なんとなく寂しげに見えた。

「寝る前に、きちんと手を合せて祈りなさいって」
「は?」
「昨日は疲れてしまって、ついやらずに寝てしまったから……」
「そ、そうか」

そのとたん、凍てついていた血液が、どっと流れ出した気がした。全く紛らわしい事を言ってくれる。

「……なら、今夜は昨日の分も合わせて祈ればいいだろう」
「でも、いっきに二日分も祈って、天神様はびっくりなさらないかしら……」
「大丈夫じゃないか? 神様だからな」

適当に言った言葉だが、琥珀はじっと考えてから「そうね。神様ですものね」と笑った。

しかし……オレは、琥珀の口から何を言われるのを、そんなに恐れたのだろうか……。

* * *

夕方になって、街道までは降りれたが、暗くなるまでに宿場街にたどり着く事はできなさそうだ。……琥珀の足に合わせてるから仕方ないといえば、仕方ない。

「……すまんな。今日もまた山の中で野宿になりそうだ。……明日にはどこか街につくだろう」

琥珀は笑って「はい」と答えた。……今までずっと山道だったからな。久しぶりに街に出るが楽しみなんだろう。しかしよくついて来たものだ。

「ありがとうございます」
唐突な言葉に、思わず「は?」と聞き返した。

「いつも私を気遣ってくれてますから」
「……どこがだ。オレはわざと山道を選んで歩いてたんだぞ」
「でも……今は街に向かってますよね」
「別にお前のためという訳じゃない。魚や木の実だけじゃ飽きる。たまには飯の味が恋しくなるからな」
「でも、辰巳さんはいつでも私を置いて行けたでしょう?」
「たしかに、オレは鬼と呼ばれるが……山に女を置き去りにする奴は、鬼とは言わない。それは外道だ」
「では、やはり私に気を遣ってくれたんじゃありませんか」
「あ。ん、まぁ……結果的にはそういう事に、なるか」
こいつは、ふだんはよく分からない事ばかり言ってるくせに、時々妙に核心をついてくる。
しかしそれが不思議と心地良……って、いかんいかん。この女にほだされたら終わりだ。
……何が終わりなのかは自分でも分からんが……。

オレは熱心に夜空に向かって祈る琥珀を見ていた。
「……いつも、何をそんなに祈ってるんだ?」
「いろいろな事です」
「そうか」
どうせ、わけの分からない事ばかりだろう。
琥珀が祈り終えると、ごろんと横になった……俺の膝を枕にして。
「おい」
「重いですか?」
小さな頭一つぐらいの重さなど、取るに足りん。問題はそこじゃない。
「あしたは、ちゃんとお布団で寝れるんですよね?」
「まぁな」
……その時、はたと気が付いた。
そうだ。宿を取るとなったら、どうなる? 宿の主人が若い男女の客を見て、どういう部屋を用意する?

「そして、久しぶりにお風呂にも入れるんですよね」
風呂!! ……。まてまて、またんかオレ! 湯上がりなど想像するんじゃない!
……やっぱり、街に行くのはやめておこうか?

「それに、おいしいホッカホカご飯! 楽しみですねー」
「そうだな」
……って、しまった。
今の「そうだな」は、ホカホカご飯に掛かってるのであって、決して湯上がりの琥珀が楽しみとか、そういうわけでは……。

「でも、辰巳さん。私、何も持たずについて来てしまいましたので……宿代は……?」
「街に行ったら稼ぐさ」
「……稼ぐ? まさか強と――」
「だから、オレは鬼だが外道ではない。……まぁ、明日になれば分かる。お前も手伝ってもらうからな」
「……悪いことでは、ないんですね」
「ああ」
「なら、分かりました。がんばります」
ぐっと拳を握って、おおげさなくらいに真面目な顔をして頷く。思わずその頭を撫でた。
「あ……」
「あ、いや……お前が、子犬みたいに見えて……」
「そうですか……なら、私は辰巳さんを錦鯉だと思う事にします」
「は? 何で?」
「では、お休みなさいませ」
「いや、まて、どういう意味だ?」
琥珀は寝付きが良い。もう規則正しい寝息を立てている。相変わらず、俺の膝を枕にして……。

* * *

翌日、街に辿りついた。そんなに大きな街ではないが、城下町にも近いせいか人通りも多い。
「辰巳さん、何をすればいいですか?」
「ん?」
「お金を稼ぐのでしょう?」
「あぁ……そうだな。じゃぁ、これを持ってろ」
オレが腰の小太刀を渡すと、しっかりと握り締めた。
「それを抜いて、オレに斬りかかれ」
「え……?!」
琥珀が目を丸くしている。普段、突拍子もない事言って驚かせる仕返しだ。

「さぁさ、お立ち会い! どんな剣筋でも避けてみせよう!」
ご先祖様たちは何て言うかわからんが、こうでもしないと食えない時もあるからな……それに――
って……。
琥珀が小太刀をこちらに向けて構えてる。構え方は素人丸出しだが、まるで親の敵を前にしたような気迫……。
さすが、庶民の出でも血筋は武家……というか、何でそんなに迷いがないんだ。

「たー!」
まぁ、どんな気迫だろうと所詮女の細腕から繰り出される剣筋だ。目を瞑ってでも避けられる。
それにしても、振り下ろす時も全く躊躇がない。本当はオレの事、恨んでんじゃねぇのか?
……まぁ、一カ月も山の中歩かされちゃ、溜まるものもあるだろう……。

人も集まって来たしそろそろ良いだろう。
オレは琥珀から刀を奪って、「もういい」と頭をポンポンと撫でてやった。
……なんだ、そのトロンとして間の抜けた顔は。さっきの気迫はどこ行った!?

まぁ、琥珀の言動が良く分からないのは今に始まった事じゃない。それに、ここからが本番だ。
「さぁ、腕に覚えがあるやつはいねぇか? どんな剣だろうと避けてやるぜ」
「女連れで、腕自慢とは笑わせてくれる……」
出て来たのは、いかにも剣一筋で生きて来たんだろうなぁという男だった。
「そんな女の太刀で気取ってもらっちゃ困るな。わしの剣を躱してみろ」
「いいぜ」
相手が強そうな程、見物客もおひねりも増えるからな。それに、本当に強ければしめたものだ。

* * *

どこの誰だかしらんが、お陰で思ったよりも上等な宿に泊まることが出来た。
問題は――

「やっぱり……かよ」

二つの布団がぴったりとくっついて敷かれていた。
まだ琥珀は風呂から戻って来てないようだから、今のうちに離しておこう。うん。これで大丈夫だろう。

「良いお湯でしたね」
心臓が跳ね上がった。な、何をこんなに恐れてるんだ、オレは……。

ゆっくり振り返ると、浴衣を来た琥珀が、ほかほかと顔を赤らめて、濡れた髪をたらしていた。
そして、すごく自然な動作で、せっかく離した布団をくっつけた。
「なっ」
言葉が上手く出ないオレの顔を覗きこむように、琥珀は顔を近づけた。
ヤバイ。鎮まれ、鬼の血。何か、関係のない事を言わなくては……。
「さっきは助かった。お前のお陰で稼げた。礼を言う」
「お役に立てたのなら、嬉しいです」
ぐぅ……。顔をほころばせるな。 頑張れオレ。
「しかし、凄い気迫だったな。実はオレを恨んでんじゃねぇのかよ?」
「恨むだなんて……私は真剣にやったまでです!」
頬を膨らますな。負けるなオレ。
「それに……私ごときに斬られる事は絶対ないと思ってましたし……」
いや。今もし琥珀が刀を持ってたら、確実に斬られるぞ、オレは……。
「そうかよ。だが、もしオレが斬られたら、どうしてた?」
「あなたの首を持って、兄さんに『あなたの目は節穴でした』と言いに帰ろうと思ってました」
……なんて迷いの無い目で言いやがる。

「さすが、うつけの妹だな」
「あら。武家の娘の心構えとして当然でしょう。
帰蝶さんも兄さんに嫁ぐ時に、お父上に『本当にただのうつけだったら、この刀で寝首を掻いて来い』と言われたそうです」
「お前は庶民として育ったんだろう?」
「織田家に引き取られてからは、武家の娘です」
そら恐ろしい一族に目をつけられたものだ。しかし、良い具合に熱が冷めたというか、胆が冷えたというか……。

「……辰巳さん」
「ん?」
「織田家に引き取られた時に、もう私が何も言ってもその気持ちを汲んでくれる事などないと覚悟していました。
私がどういう人間で、どういう考えを持っているかなんて、政にも戦にも関係ありませんから……。
でも、辰巳さんは私の話をきちんと聞いてくれます。私がどういう風に思ってるのか、聞き返してくれます。
私の話が、意味ある物だと思ってくださいます」

もしかしたら……こいつが今まで意味不明な事ばかり言っていたのはわざとなんじゃないだろうか……。
そんな風に思っていたら、またいつの間にか近くに顔があった。
「……辰巳さん……今日こそ私をつ――」
「あー、長湯しすぎたかな。夜風に当たってくる」
琥珀が言い切る前に、窓から外へと逃げた。

* * *

「……いじっぱり」
辰巳さんが出て行った窓から、涼しい夜風が入って来て、洗い晒しの私の髪を撫でました。

辰巳さんってば、本当、何を考えてるかわからない!
どんなに迫っても表情変えないし。……自信が無くなってきます……。
本当に迷惑に思われてるのかしら……。
……でも、迷惑だったらとっくに置いて行かれてるはずだものね。

今回だって、絶対戻って来ます。だって……辰巳さんの短刀は、私が持ってますから。
抜き取られても気づかないなんて……あと一歩だった、という事ですね。

「いじっぱり」
もういちど、窓の外に向かって呟いてやりました。
そして、いつものように夜空にお願い事をして、寝たふりをして辰巳さんを待ちました。

でも、1か月以上も山の中で野宿して、久しぶりのお布団……何度もそのまま眠りそうになりました。
睡魔と戦いながら、結構な時間が経った、と思います。辰巳さんが戻って来た気配で目が覚めました。ガサゴソと何を……?

……布団を離してます。全く。ちょっと距離があって不自然だけど仕方ありません。

ごろりと転がって辰巳さんの背中に抱き着いてやりました。
天神様。今日こそお願いしますね。

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