八雲立つ

shibaigoya

真っ青な空に、羽衣のような筋雲が一本。
それに沿うように走る街道を歩く男の背中を、腕に馴染んだ銃を抱きしめて、少女はずっとそれを追いかけていた。

狛彦の足は螢に合わせて緩める事はしない。
当然だ。螢が勝手について行っているだけなのだから。

何度も見失いそうになった。
けれど道を辿っていけば、いつも狛彦が飯の支度をしていたり洗濯していたりする所にでくわした。

今回も放置されている物置のような小屋の前で鍋をかき回していた。
おそらく、どこかの城の斥候が中継地点として使っていたのだろう。
螢がそう気づいたのは、狛彦が使っている鍋がやけに使い込まれていたからだ。
勝手に使っているのが知れたら、どんな目に遭うか……などという心配は、この男には無用なのだろうが……。

狛彦が螢の視線に気づき、顔を上げた。

「……しつこいな、お前も」
「あたしの執念深さは知っておるだろ!」

狛彦は笑いもせず「まあな」とだけ呟いて、鍋の中をかき回した。
川魚に木の実……野草。
地味だが、あっさりとした魚の出汁と木の実の酸味の効いた匂いが混じって、螢の鼻をくすぐる。
その感想を螢が口にする前に、腹が鳴った。

「……欲しいのか?」
「くれるのか?」
「質問に質問で返すな。欲しいなら、お前がオレに何かしろ」
「え……何かって?」
「そりゃぁ、オレの得になる何かだよ。タダで他人の飯を食おうなんて虫が良すぎるぞ」

螢の頬が朱に染まったのは、夕日のせいではないだろう。
キョロキョロと視線を泳がせ、ソワソワと布に巻かれた銃を持ち変える。

「じゃぁ、狛は……あたしに、な、何を、して、欲しいんだ?」

狛彦が「そうだなぁ」と口の片側をにいっと上げた。手は相変わらずお玉を掴んで鍋をかき回している。
螢は視線を、何か悪巧みを考えるように笑う狛彦の顔から目線をずらし、ほつれた道着の袖から伸びる腕から大きな手へとゆっくり下ろす。
長くて太い指……その割に、鍋をかき回す動作は繊細で……。

「これ食ったら、雑賀荘へ帰れ」
「やだ!」
それは反射的についた言葉だ。帰れと言われるたびに考えるよりも早く口に出る二文字。

「じゃぁ食わさん」
「やだ! 欲しい!」
「わがまま言うな。立派な銃があるんだ。それで雉でも撃ってくりゃいいだろ」
「……弾がない」

元々、この銃は雑賀荘から出ていくとき持ってきた一丁だ。父の形見の銃。
螢はそれを片時も離さなかったので、兄は取り上げるのを諦め、銃を螢に預けることにした。
しかし弾丸を持つことは許さなかった。

それでも、あの信長が……父の首を晒していると聞いたとき、居ても立ってもいられなかった。
討ちに行くと言った螢を、”雑賀孫一”を継いだ兄は止めようとした。
当然だ。雑賀衆は織田信長の軍門に下っているのだから。

それならば――と、螢は雑賀から出ていくことを決めた。
もう自分は雑賀衆の螢でも、雑賀孫一の妹でもない。そう言って兄の前から走り去った。

厳重な管理下に置かれているはずの火器蔵の前に落ちていた一弾。
――今思えば、兄がわざと置いたのかもしれない。

「……狛は帰れ帰ればかり言うが……あたしにはもう、帰る場所なんかない……」
「それが自分の選んだ道なんだろ?」

それっきり、狛彦も螢も言葉を発しなかった。
炭が爆ぜる音と、ぐつぐつと煮立つ湯の音。そして螢の腹の虫しか静寂には響かない。
真っ赤になっている螢には目もくれず、狛彦は茶碗に湯を装って、味見をした。

「ん」
という一言は、かなり満足な出来だ……という事を螢は知っている。
なので、狛彦が茶碗から目を離し再びお玉を持って鍋に目線を落とした瞬間をついて、螢はその茶碗を奪った。

「おい!」
狛彦の怒気を孕んだ声も物ともせず、熱さも忘れて一気に飲み干した。
ぷはっと息をついた時は、もう茶碗は空になっている。睨む狛彦にべっと舌を出してやった。

「他人から盗んだ飯は……美味いかよ?」
「最高じゃ!」
「……食べたら帰るんだよな?」
「あたしは、そんな約束しとらん」

狛彦はわざとらしくため息をついて、螢を見下ろした。

「いつまでついてくる気だ」
「嫁にしてくれるまでじゃ! 男が一度言った言葉を反故にするのか!」
「だから! オレはそんなつもりで言ったんじゃない!」

事の発端は――狛彦が陸奥となったあの日。
見上げた空に雲が出来上がって行くのを見て、螢が「雲がすごい!」と言った。
清々しい空に向かって狛彦も言ったのだ。確かに言った。

『八雲立つ……ってやつだな』

……まさかその言葉の語源には、先にあんな言葉が続いているとは……それがそんな意味だったとは……。
親父のニヤニヤ笑う顔があれ程憎かった事はない。

「フン」
と同時にそっぽ向く。そして狛彦は、一瞬でも鍋から目を話した事を後悔するハメになった。

「やっぱり、狛彦の作った料理は美味いのう!」

心から嬉しそうな声に振り返れば、鍋を抱えて直接お玉ですくって飲んでいる螢がいた。

「嫁になりたいなら、自分で作れるようになれ!」
「作れるようになったら、嫁にしてくれるのか?」
「それとこれとは別だ!」
「狛のわからず屋! わからず街道わからず屋の雇われ店長じゃ!」
「なんだその職種!」
しかも微妙な立場である。

べーっと舌を出して、鍋を抱えたまま小屋の中へと入っていった。
「……わからず屋開いてるのは、どっちだよ」
狛彦はポリポリと頭を掻いて、ため息をつき、隠し持っていた雉の肉を取り出し、火に掛けた。
しばらくすると鳥の匂いに誘われて、わからず街道わからず屋の大家が戸の隙間からこっそり伺っているのに気づいたが、雇われ店長は無視を決め込む事にした。


螢が狛彦につきまとうのは、単に子供のわがままなんかじゃない……と、本人は思っていた。
もちろん帰る場所がないのも本当だし、言葉遊びのような婚約の言葉に本気にほだされたわけではない。

――惚れたのは……心を許したのは、もっと前じゃもの。

月明かりの挿し込む小屋の中、小さな行灯の光を便りに、陸奥の証である刀を研ぐ狛彦の背中。
その背中が――あの時に重なる。

父の首を取り戻しに、一人で安土の城下に赴いた。
人影引いた丑三つ時に――この男がいた。
父を殺したこの男が、父の為に泣いていた。
そんな男に、どうして銃口を向けられようか。

兄に……雑賀孫一としての兄ではなく、雑賀孫一の子としての兄に託された、たった一発の弾を、こんな男を撃つためは使えない。
だから代わりに、父の首を抱いて大声で哭く鬼の背を抱きしめたのだ。

そしてその後、男は首を螢に渡し「帰れ」と言った。

「いやじゃ! 信長を撃つ!」

「お前には、まだ無理だ」

「じゃぁ、お前が討つのか?」

「オレにもまだ、無理だ。あいつがいるから……その刻ではない」

しかし男は刻が来たら知らせてやると言った。迎えに行くと言った。

「――だが手伝いはしないぞ。それでもいいなら待ってろ」

父の首を持って、雑賀荘へと戻り、ひっそりと弔った。
そして待った――その刻を。

三年後、狛彦が刻を報せに来た。

――狛彦、あたしは……待ったぞ。
三年も立てば、あたしだって女らしくなる。ううん……なったんだ。

螢は髪を解いた。そして帯に手をかけ――。

「狛彦!」

突然名を呼ばれ、振り向いた狛彦は表情も変えずに呟いた。

「……今日はそんなに暑いか?」

月明かりと、小さな行灯の光に照らされた柔肌。
膨らみかけの胸に続く平らな腹の前に両手を固く握っていた。薄い産毛の下に伸びる足は……震えている。

「……あたし、女らしくなったでしょ?」

狛彦は背を向けて「服を着ろ」と呟いた。
震える足で床を踏み、その背に抱きつく。膨らみ始めた小さな胸を、懸命に押し付けた。

「……もう子供じゃないんだ……男について行く意味ぐらいわかる! 覚悟なんてできてるのに!」

「覚悟なんて……?」

「それとも、あたしが迷惑か?」

「迷惑だっつったら、やめるのか?」

「質問で質問を返すなとは狛が言った言葉だろ」

何も喋らず、身動きひとつしない狛彦に螢は一筋の涙を流した。――悔しかったのだ。

「本当に迷惑なのか……? 私が……お前にとって、子供だから……か?」

螢は狛彦の腕をとり、その大きな手のひらを、自分の胸に押し当てた。ごつごつとした硬い手は、鉄のように冷たい。

「……胸だって大きくなったんだ……他のところだって、触って確かめてくれ……もう子供じゃない!」

突然、螢に全身が突き飛ばされる程の衝撃が来て、先ほど脱いだ着物の上に尻餅をついた。
咳き込みながら顔を上げると――鬼がいた。
この涙は、先程の悔しさの継続か、胸の痛みか――それとも、恐怖か。

「あ……あ……」
言葉がつまるのは痛みというよりも、はっきりと恐怖が勝っていた。
足の震えはもう体を支えられず後ずさる事しかできない。
螢の背が壁についた時、狛彦は唸るように声を出した。

「……そんなに、女にして欲しいかよ」

狛彦が片足を床に出した。
ギシ……という音が螢の全身を強ばらせる。
背は尻まで壁についていて、もう逃げ場はない。

「女にして欲しいだけなら遊んでやる。嫁にして欲しいなら服を着ろ!!」

そのとたん、螢の視界が一気に水で覆われた。腹の底からの叫びが、口から上がる。

「なる!」

「どっちだ!」

螢は目も鼻も涙でぐしゃぐしゃにしながら自分の服をかき集めた。

「嫁に……狛彦の嫁に、なる!」

「じゃぁさっさと着ろ。大馬鹿」

狛彦が再び螢に背を向けて、刀を研ぎ始めた。
螢は泣きながら袖を通し、いつもより念入りに帯を締める。
それでもまだ涙は止まず、しばらく泣き続け、いつの間にか泣き疲れてそのまま眠ってしまった。

狛彦は、そっと寝顔を覗き込むと、熟睡しているのを確認して、長々とため息をついた。
「……このマセガキ」
そう呟いて、小屋の中にあった布団をバフッと音を立てて螢の上に落とし、自分は小屋の外に出て屋根に上がった。
夜風もようやく涼しくなってきた。頭上の月を見上げながら頭を掻いて、またため息をついた。


翌朝、螢は魚の匂いで起きた。戸を開ければ、やはり狛彦が魚を焼いている。鍋の中はたぶん山菜汁だ。
いつもなら「くれ」と言いながら隣に座るのに、なんだか今日はそうするのが恥ずかしくて、その背中を見つめてマゴマゴしていた。
すると狛彦が背を向けながら「欲しいのか?」と声を掛けた。

「うん……」

「じゃぁ何かしろよ。いつもいつもタダでもらおうなんて虫が良すぎるぞ。いい加減にしろ」

「……何して欲しいんだ?」

「自分で考えてみろよ」

螢はしばし考えた。そしておずおず声をかける。

「……た、食べ終わったら……あたしが鍋と皿を洗う」

「よし、じゃぁ食え」
と、狛彦が魚が刺さった串を隣の地面にさしたので、螢は目を輝かせてそこに座った。

「いただきます!」
そう言って、ハフハフと熱と闘いながら魚を頬張る。

「美味いか?」
「最高じゃ!」

それを聞いて、狛彦も自分の分も食べ始めた。
言葉を交わすこともなく、食べ終えると「じゃ、頼んだぜ」と立ち上がった。

螢は洗っている間に置いて行かれるかもしれぬと慌てていたが、狛彦は小屋の壁に背を預けてぼうっとした様子で流れる雲を眺めている。
そして螢が鍋も皿も片付け、小屋を出ると、狛彦はもう道の先に居た。

螢はそれを走って追いかけ、背中に追いつくと、しばらく黙ってその後ろを歩いていた。
しかし沈黙がなんとなく気まずくて、声をかける。

「どこに向かっているんだ?」

「今更聞くのかよ……出雲だ」

「出雲?」

「……確かめるんだよ。お前が言うように、あの言葉に本当にそんな句がついているのか」

「あ……」

狛彦が、陸奥を継いだあの日。清々しい空の下で言ったあの言葉。

「……確かめて……本当についてたら……どうするんだ?」

「男は一度言った言葉を、反故にしないんもんだろ?」

真っ青な空に、羽衣のような筋雲が一本。
それに沿うように走る街道を歩く男の背中を、腕に馴染んだ銃を抱きしめて、少女はずっとそれを追いかけて行った。

 

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