がしゅら 3

shibaigoya

十年後――

江戸の町に男の怒鳴り合いが響いていた。


「あー!? 草履をくわえた絵だぁ!? そんな汚ねぇ絵、オレが描けるかよ!」
「汚ねぇのはアンタの身なりだろうが! つぅか、なんだよこの狐! 狐なんて、オレの話に出てねぇだろうが!」
「うるせぇ! お前にオレの感性がわかっか!」
「依頼主にも伝わらない感性なんざ、いらんわ! 依頼通りに描け!」
「ばーかばーか! 馬琴のバは馬鹿のバー!」
「そうだけど、違うわアホー! つうかアンタ幾つだよオッサン!」

良い年齢の大の大人が、何とも低次元の言い争いをしていた。しかしこれでも二人は、有名な作家と浮世絵師なのだ。
「いいか!? 今度こそ依頼通りに描けよ、オッサン!」
「お前こそ、オレの絵に喰われねぇような文章書いて来い!」

絵師はぴしゃりと戸を閉めると、奥で妻がクスクスと笑った。
「滝沢さんに意地悪な事言わないで、たまには素直に認めてやったらどうですか?
居ない所で褒めたって、伝わりませんよ」
「うるせぇ、アイツにゃこんくらいで丁度いいんだよ」

男が、墨で汚れた自室に戻ろうとすると、また誰かが訪ねて来たようだ。
「……出ろ。知り合いだったら通せ。部屋にいる」
「はい」

部屋に戻ると、男は一冊の真新しい本を開いた。先ほどの男――滝沢馬琴の新作だ。
男は、その挿絵を担当していた。
だから――この本の魅力は誰よりも理解しているし、また、新作を誰よりも心待ちにしていた。
音楽のように流れる文章の音が、スッと脳に、心に入り、文字の世界が艶やかに視覚化されていく。
まるで狐に化かされている

ように。
――この世界を一番上手く描けるのは、オレだ。

「あなた」
妻に呼ばれて振り返る。その奥に見慣れない娘がいた。いや……その面影は覚えている。
「……葉月ちゃん?」
「久しいな、時太郎」
父親とは全く似ていない顔なのに、父親とそっくりな笑い方でにいっと笑った。

 

***

 

いつものように、適当に隙間を作って座らせる。墨で汚れた畳も、小さな時より気にしてはいないようだった。
ただ、その目は「これをどういう順番で片付けようか」と考えているように、キョロキョロと動いていた。
何もかも、父親に似ていない。いや、似てなくて良かったというべきか。

「美人になったなぁ……あの時も可愛かったけど」
「三人目の妻にしたくなったか?」
「うーん、もうちょいと熟れてるほうが、好みなんだけどねぇ。
でも葉月ちゃんがどうしてもって言うなら、浮気してやってもようござんすよ?」
むっと顔を顰める葉月を、「冗談、冗談」と笑った。

「で、何しに来たの? 陸奥さんは?」
「親父殿は、一昨年死んだ」
「……え?」
「病だ」
「……そうか」

しばらく、沈黙が続いた。

「……時太郎は、親父殿に渡す絵を描いていたんだよな。一子相伝の技を、継承するのに必要になる絵だと」
「ああ、ここにちゃーんとある」
時太郎の後ろには、一尺ほどの筒があった。そのふたには紙で封がされていて、なおかつ「ステルナ」と書いてあった。
「……それを、貰いに来た」
「ダメだ」
十年前のようにきっぱりと、言いきられた。

「親父殿はもういない。だからあたしが……」
「あの時も言っただろう。女には、やれん」
「女だから……女だから何だ! 女だから、男だから、そんなのがそんなに必要か!?
あたしは……陸奥左近の一人娘。圓明流を伝える役目がある!」
「でも……葉月ちゃんは男じゃない。この絵は渡せない」
立ち上がり掛けていた葉月は、時太郎の言葉で、力なく座り、俯いた。
「やはり、時太郎にも解るのだな……あたしが、陸奥を継げなかったと……」
「え?」
「でも、あたしが継げなかったのは、女だからじゃない……弱かったからだ!
だから……あたしは陸奥を……子を産んで、最強の陸奥を育てなければならない。そして、あいつを――」
「……葉月ちゃんは、それでいいのかい?」
「それしかない。陸奥を伝える事ができるのは、あたししか……」
時太郎は、悲愴な決意をした葉月の目を、ぎょろっとした目で見るだけだった。

「……時太郎、その絵。あと二十年取っといてくれ……そうしたら新しい陸奥を連れてくる」
「できれば、その〝陸奥さん”だけ、来てほしい。この絵は、陸奥さんの為に描いたんだ」
「ああ、そうする。邪魔をしたな」

部屋を出て行こうとする葉月を、時太郎は手を掴んで止めた。
「待ちな……あの絵は渡せないが、葉月ちゃんの為に絵を描いてやる。そこに座れ」
その目は一瞬、左近に重なった。
――時太郎はまん丸のギョロ目で、親父殿は細いタレ目なのに……

しかしその戸惑いも、時太郎の気迫には敵わず、言われるがままに、また座った。

「座ってるだけじゃ暇だろう、この絵でも見とれ」

時太郎が投げ寄こしたそれは、色彩豊かな美人画。髪を梳く女の肖像だ。

「これ……」
「オレの娘が描いた」
「え……」
「しかも、まだ娘は十四だ……オレは娘にいつか抜かれるんじゃないかとヒヤヒヤしてるよ」
「すごい……」
「父親の才能を受け継ぐのも。それを超えるのも、男も女も関係ねぇ……だがな、やっぱり男と女では差がある。
娘は女だからか、オレにも描けない柔らかさ、細やかさ……それをモノにしている。
だが、力強さや荒々しさは、やっぱり男の描くものと比べて、一つ足りない」

――親父殿も、同じような事を言っていたな。

「……時太ろ――」
葉月は顔を上げて息を飲んだ。

――え……? 誰?

姿は時太郎だ。しかし、紙に向かって筆を振るうその気迫は――鬼そのものだ。
紙の大きさなど、お構いなしに筆を走らせ、床や壁、天井にまで墨が飛ぶ。
葉月の服にも掛ったが、それに気を止めず、身をすくめていた。

――これが武人ならば、どれだけの……
葉月が産まれるずっと前、左近も同じように思っていたなどと、知る由もない。

やがて、息も荒げたまま、顔を上げ、絵を差し出した。
「下絵無しの、墨書きだが……久しぶりに描いた絵だ」

その絵を見て、葉月は目を見開いた。目を見開いたまま、涙が溢れ……拭いもしなかった。
絵の中に――白と黒の世界に――鬼がいた。絵の世界から、この浮世に出ようと、手を伸ばしていた。
たかが絵と解ってる筈なのに、足がすくむほどの恐ろしい鬼。しかし、葉月から見えたのは……

「親父殿が、いる……」

「絵に描くってぇのは、姿形だけじゃねぇんだよ。
ありゃ三十年ぐらい前かな……陸奥さんを見て鬼の絵を描いたんだ。あの時以来、〝この鬼”は描いてない。
持てる力を全力で描くんだ。頭も体力使うし、精も根も尽きる。魂も寿命も削られる。鬼を描き切るか、オレが果てるかの大勝負だ。そんな絵を何度も描いたらこっちの身が持たねぇから、もう二度と描く事もねぇと思ってたんだけどよ……。
それ、やるよ。どこかに飾っといて、辛い時にでも眺めて、陸奥さんに一喝されろ」

絵の中の鬼の手が、葉月の頭まで伸びてくる錯覚――

「……いや、陸奥さんならこう言うな」

――泣くな、めんどくせぇ

葉月は絵の中の鬼に向かって、何度も何度も呼びかけていた。

「おいおい、涙落としたら墨が滲むぞ」
葉月は慌てて紙を遠ざけた。ふわっと空気の流れに乗って、再び時太郎の机の上に乗っかった。

「おお、そうだ。完成品には号を書いておかないとな」
再び筆を取り、紙の隅に名を記す。

 

 葛

 飾

 北

 斎

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