陸奥天兵の章 園部秀雄編  1

shibaigoya

昭和二十八年、冬――。

東京某所、夕刻。
待ち合わせの料亭の前で、加賀美正一は通りすぎていく車を眺めていた。

――ここがほんの八年前まで焼け野原だったなどと、もう誰も思わないだろうな……。

ふとそんな事を思いながら、ハラハラと舞い落ちる粉雪を見上げた。
街灯に輝く淡雪の中に一人の女を思い出した。

あれから、八年経っている。
彼女が死んだという事実は、加賀美どころか日本、そして中国中の人々が知っている。

でも加賀美はそれが嘘つきな彼女の吐いた最後の大嘘なのではないかと、どこか信じていた。
彼女が死ぬとは思えない。

彼女を探す手がかりを求めて、もしかしたらという人物に辿りつき、たらい回しのようにまわされ、やっと今日会う人物に辿り着いた。

加賀美はもう一度、時計を確認した。するとすぐそばで車が停まる音がする。

顔を上げれば、タクシーが止っていて、現れたのは――眼鏡をかけた小柄な老婦人。
藤色の着物をキッチリと着こなし、髪を一本も乱れなく結い上げ、姿勢はまるで体の中に鉄の芯でも入っているかのように真っ直ぐに立っていた。

「ありがとうございます」

穏やかな声で運転手に向かって礼を言い、角を曲がるまで頭を下げたあと、加賀美を振り返った。

「加賀美正一さん……ですね」

「はい。はじめまして、園部さん」

「すみませんねぇ、せっかくお時間を作って頂いたのに、アタクシ七時二〇分には上野に行かなくちゃいけないの」

「いえいえ、こちらこそお忙しい中、わざわざありがとうございます」

お互い譲りあうように料亭の暖簾をくぐり、女中に案内されて座敷に座る。

――緊張、してるのだろうか……。

目の前に並んでいく料理を眺めながら加賀美はそう自問し、そうだと自答して、自嘲した。
自分は本来そんな緊張する質ではない。立場の上下も年齢の上下も性別も関係なく、誰とでも話ができるという自負があった。
しかしこの老婦人は立場も年齢も性別すらも超越した何かを持っていた。

それは――”彼女”に対する印象にとても良く似ていた。

「嫌ですよ、加賀美さん。アタクシを見つめたまま、そんな固くならないで」

しどろもどろになる加賀美を、園部という老婦人はクスクスと笑いながら箸に手をつけた。

「すみませんねぇ、若い男を見るとついからかいたくなって……」

加賀美が若いなんて言われたのは、四十年ぶりだ。

「……自分はもう赤いちゃんちゃんこを着ましたよ。四年も前に」

「あらそう? 白髪もないし、皺も目立たないのでまだ四十代かと思いましたわ。まだまだ女がほっとかないでしょう?」

褒め言葉は嫌いじゃないが、こう面と向かってハッキリと言われると照れてしまう。
だから仕返しに切り返した。

「そういう園部さんだって……八十を超えてるなんてとても思えませんよ」

「でしょう? アタクシ、自分はまだ四十ぐらいだと思ってるもの」

あっさりと受け流された。

――いや、さすがに四十には見えないですよ。

出かかった言葉を、茶とともに喉の奥へと流し込み、本題に入る事にした。

「お話は、すでに聞いていると思いますが……」

「ええ。アタクシの半生を題材に、新聞の連載小説を書くんですってね」

「快諾して頂いたと伺いましたが……本当によろしいんですか?」

「ええ。あなたの作品、いくつか読ませて頂きました」

「どうでしたか?」

「アタクシはずっと武芸に身を置いてきたので文芸には疎いですから、見当はずれな事を言うかもしれませんが……。
感じた事は……そうね、加賀美さんは女遊びが好きでしょう? 若いお妾さんの一人や二人囲ってるんじゃないの?」

茶を口に含んでいた加賀美が吹き出し、咳き込んだ。

「でもまぁ、それがその若さの秘訣ってことかしら? 全く、男の人って幾つになっても考える事は同じなんだから……」

残った茶を飲み干して心を落ち着かせ、気をとり直して、なるべく真剣な顔を作った。

「私はモデルに取材をし小説を書きますが……、小説として面白くするためなら、どんな虚構だって書きますよ。そしてそれが原因で――」

「死んだ人がいる……でしょう?」

加賀美は、眼鏡ごしに真っ直ぐ見つめる園部の目から視線を逸らし、俯いた。

彼が、二十年前に執筆した小説「男装の麗人」は、川島芳子という当時の時の人に取材して書いたものだ。
小説として面白くするため、彼は彼女の語る半生を、より華やかに艶やかに装飾した。
女でありながら男装し、中国人でありながら日本軍の諜報員として活躍する。
それは彼女の描いた願望であり、加賀美の吹いたホラであったはずだった。

だが川島芳子は加賀美の小説が諜報活動の自白とみなされ――八年前、中国の裁判で死刑となった。

「そんな小説を書いた私が、あなたの半生を描いてもいいんですか?」

顔を上げ、そう問いかけた加賀美の顔は……ニイっと笑っていた。
そして園部はそれにニコリと微笑み返す。

「あなただからこそ受けた事です。もしもあの編集者さんの告げた作家の名が加賀美正一でなければ……アタクシは受けませんでした」

「何故ですか?」

「アタクシ、強い男って大好きですの。特に馬鹿の上に大がつくぐらいのね」

「私はただの小説家ですよ。ペンより重いものなんて、持った事ありません」

「ペンより重い武器はありませんよ。あなたはその武器で人の命を奪った後も、なおその武器を握り続けている。そんな事、強くなくっちゃできない事です」

「他に生きる術を知らない、馬鹿なだけです」

「ええ、大がつく程ね。でも言ったでしょう。アタクシは大馬鹿な強い男が……だ、い、す、き」

そう言いながら、園部は加賀美の湯呑みに茶を足した。
加賀美はそれを飲み干して、わざとコトリと音を立てて置いた。

「あなたが、もし四十年若かったら口説いてたかもしれません」

「あら。四十年も若かったら、アタクシ赤ちゃんよ?」

――よく言うよ、このバァさん。

もちろん声には出さず、また注がれる茶を眺めながら言った。

「じゃ、その四十年前、赤ちゃんだった頃の話からお聞かせ願いますか?」

「いいですよ。私が生まれたのは……日本初の汽車を作り始めた頃かしら」

「今は世界初の高速電車を作ろうかって時代ですけどね」

「何か言った?」

「いえいえ、何も」

記憶を手繰ろうとする園部の気が散らないよう、加賀美は音を立てぬようにそっと手帳とペンをカバンから取り出した。

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