陸奥天兵の章 園部秀雄編 4

shibaigoya

明治二十一年秋――。

たりたが佐竹鑑柳斎の撃剣一座に入門して二年半。
父との約束の三年まであと半年という所まできた。

――私は……どこまで来たんだろうか……。

先が見えなかった。
旅を繰り返し撃剣の演目をこなす。
観客の歓声は、とても気持ちのいいものだし――何よりも自分は今まで負け知らず。

天賦の才能と讃えられた事もあるが、たりたは毎日続けた千本稽古の賜物だと思っていた。
努力が実力となって実った結果。
一座の男たちも、薙刀の師の佐竹茂雄も、それを認めていた。

しかし――佐竹鑑柳斎は何も言わなかった。
それどころか、たりたに手ほどきをしようという素振りさえ見せたことがなかった。

――このままでは……この薙刀をくれたお祖母様に、申し訳がたたない……。

家を出る時、祖母から授かった古い薙刀。その祖母も、もういない。
祖母が亡くなったのは、丁度一年前。その知らせを、父からの手紙で知った。

祖母の最期の言葉は――。

『たりたに、会いたい』

自分がもっと強ければ早くに修行を終え、鑑柳斎にも認められ、祖母に会う事もできたかもしれない。
そう思って一年、一層修行に励んだ。だから――。

後は神仏頼みだ。

ある日、たりたは剣撃の出番の後、佐竹茂雄の許しを得て、ひっそりと向かった場所がある。
日蓮宗総本山、身延山久遠寺。
手にするは布で包まれた祖母の薙刀

たりたの目には、見事な紅葉を裾に纏う富士が写っていたが、それを愉しむ事もなく、真っ直ぐに前を向き富士川沿いを南に下っていた。

高い所にあった太陽は、西へと傾き、富士を朱く染める。
そして暗くなるのは鶴瓶を落とすように早い。

しばらくは川沿いの町の家々の明かりを頼りに歩いたが、それもだんだんとまばらになり、たりたを照らすのは満月だけとなった。
秋の夜、虫の音と風音の大合唱の中、それでもたりたは歩き続けた。

やがて久遠寺の石畳までやってくると、足元も見えない闇の中、上だけを見つめ、一段一段と上がっていく。
そしてやっと登り切った時、月は真上に来ていた。

たりたは息を整えると、静かに本堂に上がり、跪き手を合わせ、一心不乱に祈った。

――あと半年で、一人前の武芸者に……。

静寂の中では永遠にも近い時間、身動きすらしなかったたりたは、やがて静かに立ち上がると境内へと向かい、薙刀に巻かれた布を取った。
一日も欠かさず手入れをした刃は月光の下銀色に輝いていた。

構えれば、竹の薙刀とは違う――重み。
重量だけではない。
もしもこれが人の体に当たれば……死に至らしめることすら出来る。

しかし、それは同時に自らも危険に晒す事にもなる。
手を滑らせれば、自身の体をも傷つけるだろう。

『武道トハ 死スルコトノ修練ト 心得ベシ』

銀色の切っ先は――杉の巨木へ向かっていた。

「エェエエエイ!」

掛け声と共に杉の木の陰に向かって打ち込む。

「ヤァアアアア!」

佐竹茂雄が一日に一手、次の日はまた一手とたりたに授けた技。
直心影流薙刀術――風車ノ舞。
続いて水車ノ舞。

心のままに、自由に、流れのまま逆らわず――。
巨木の陰を相手に見立てて刃を下ろす。

「ハァアアアア!」

その時杉の木が……避けた。

――え……。

外れたのではない。確かに避けた。
思わず退けば、杉の木がその分詰めてくる。

対峙していた杉の木を、たりたはたしかに人に見立てた。
いつの間にか、生けるものに化けたとでもいうのか。

「娘さんが夜道を一人、思い詰めた顔で歩いてたから何事かと思えば……」

男の声。
たりたは思わず間合いを取り、吠えた。

「後を付いてきたのか……不埒な奴め。覚悟しろ!」

「おいおい、オレはこれでも心配してやってたんだぜ……まぁ、その技がありゃぁ、そんな心配は無用だったみたいだがな」

たりたが一歩退けば、男は一歩踏み込んでくる。
杉の木の影から月光の下に出てきたその姿は――父親と同じくらいの歳の男だった。

――いや、親父殿のようにハゲてはないけど……。

歳の割には黒くて多い髪をむりやりに纏め、不精に髭を生やした皺の刻まれた顔はニヤニヤと笑っている。
道着姿に、裾を縛った袴。腰には鍔のない刀を差していた。

「お嬢ちゃん、あんた……何者だよ」

「不審者に名乗る名などない!!」
たりたがそう鋭く言い放ち、再び薙刀を構える。
が、男はまるで緊張感も欠片もなく、眉をハの字にしょぼんと下げてため息をついたので、ますますたりたは激昂した。

「それ以上近づいてみろ……指一本でも私に触れてみろ……舌噛み切って、殺してやる!!」

「……そんなに怖い顔すんなって、ちょっとオジサンとお話しようぜ。
こう見えて、お嬢ちゃんと同じくらいの息子がいんだ。
さすがに自分の子と同じくらいの女に手を出すほど恥知らずじゃねぇし……。
それ以前に、オジサンにはもったいないぐらいの女房がいてなぁ。だからオジサン、浮気なんて考えた事もねえんだよ。
ってその顔は……絶対信用してくれてねぇよな……」

こんな夜更けに人気のない場所にいる女の前に現れ、お前をつけてきたと宣言しておいて何を信用しろと言うのか。

「エェエエエイ!」

真刃を躊躇なく振り下ろしても、状況的に正当防衛の範囲内だろう。
だが――。

「当てる気で振り下ろさないと……近づかれるぜ、お嬢ちゃん」

真後ろから声が聞こえた。
薙刀の柄を後ろに突く。男は後方に飛んでそれを避けたが……。

「イヤァアアアア!」

振り向きざま凪いだ刃は……どんな遠くにも届く。
男の脇腹へと描いていた軌道は紙一重で避けられた。その勢いのまま……今度は柄を叩きこむ。
そして――。

くるりと薙刀が風車のように回り、横の回転が一瞬で縦の回転と変わった。

男の目が見開いたのは、驚愕からだ。

「ハァアアアア!」

真っ直ぐに、男の体を縦に両断するように振り下ろした……が、それは鼻の頭を掠めて地面へと刃は刺さった。
たりたが外したのではない。避けられたのだ。

「おっかねぇなぁ……」
そう言って、鼻の頭から垂れた血を拭い……男はニイと笑った。

たりたの背中に走った悪寒。
不審な輩に対する乙女の恐怖とは違う……。
しかしその恐怖の正体に気づく前に、男が放った言葉によって、その恐怖が憤怒へと変わった。

「コレで男だったらなぁ」

「男だったら……?」

ピクリと動いたたりたの眉に、男は気づかないのか、なかなか止まらない鼻の頭の血を何度も拭っていた。

「男じゃないから、どうなんだ?」

「ん? 惜しいなと思ってさ」

「何が惜しいんだ」

「男だったら、どれほ――」

「女だから、それが出来ぬというのかァア!!」

たりたの咆哮が突風となって男の髪を、正面から払った。

「この技を得たのは……私が女だったからだ。
私が女だからこの技の美しさに魅せられた。私が女だから、この技を得るためにここまで来れた!!
だから私にそれが出来ぬというのなら、それは私が女だからではない。私が未熟というだけだ!」

「くくく……くっははっ」

男は突然、腹を抱え、月を見上げて笑い出した。

「はははははっ!」

「何がおかしい!」

「いや悪い悪い。お嬢ちゃんがな、せめて四十年早く生まれてたらなと思ってな……」

「いつの世に生まれようとも私は私だ!」

「うん、そりゃそうだ」

男はニイと笑いながら、初めて構えた。
その瞬間、杉の老木から人へと転じた化物が……鬼の正体を現した。

「そこまで言うなら少しだけ見せてやるよ、お嬢ちゃん。アンタが進もうとしてる道の先で何が待ち構えているのか……な!」

恐怖に飲まれそうになった。体が震えて力が入らない。
薙刀が――重い。

先程まで、心のまま自由自在に軽々と操っていたというのに……振り上げることすらままならない。

だが、たりたの頭に、佐竹茂雄がいつも言っていた言葉が響いた。

――薙刀は力で振り上げるものではありません。気で振り上げるのです。川の向こうの人を斬るつもりでかかりなさい。

「ヤァアアアア!」

鬼が動いた瞬間、薙刀を跳ね上げた。
そして間合いを取るのではなく踏み込んだ。

薙刀の最大の強みはその間合い。それ故に懐に入られる事が最大の弱点である。
たりたはあえて、踏み込んだ。

振り上げた動作のまま、薙刀をくるりと回し、横に薙ぐ。
さらに回して、縦に、横に、袈裟懸けに。

「アァアアアア!」

そして腹に目掛けて、一気に貫く。
手応えはあった。だが貫いたのは腹ではなく……袖。
薙刀は男の脇にガッチリと掴まれ、固められた。

そして男が拳を真っ直ぐにたりたに向かって突き、鼻の先一寸で止まった。

「薙刀だけじゃないのかよ……」

男の喉元に、鞘がついたままの懐刀が突きつけられていた。

「小太刀の技を含めての、直心影流薙刀術だ」

「なら鞘から抜いて、寸止めなどせずに突けばいい」

「それはこちらの台詞だ。何故拳を止めた」

「花のかんばせを殴るわけにはいかないだろ?」

「まだそんな事を言うのかッ!」

「……殴る寸前まで行った」

「え……」

男は懐刀を握るたりたの腕を払うと、薙刀を離し、間合いを取る。
破れて下がる袖を「邪魔だな」と千切り、再び構えた。

むき出しの片腕は、杉の巨木の幹のようだ。

「……なるほど。女の身で、よくぞここまで来た」

「さっきから、お前はなんなんだ……。名を名乗れ物怪め!」

「オレぁ人間だよ。名は……そうだな。
お嬢ちゃんが本当にこの道を進むなら、いずれ聞くだろうから、今は名乗らんよ。
お嬢ちゃんの名前も、オレたちが知る事になるだろう」

「名乗る気がないなら、名乗らせるまで!」

「よせよ。お嬢ちゃんはまだできない」

「何がだ」

「まだ死ねないだろう」

その言葉は、門下となったその日……佐竹鑑柳斎から聞かされた言葉に重なった。

『武道トハ 死スルコトノ修練ト 心得ベシ』

まだ死ねない。
修行を成し遂げて、一人前の武芸者になるまでは。
それもあと半年で。
あと半年で一人前にならなければ、意味がない。

だが意味がないのなら――死と同じ事ではないのか?

「死ぬことが出来ぬだろう、だと……?」

出来ないというのは、負ける事だ。

「……だったら、お前が殺してみろォ!」

「お、おい、お嬢ちゃん。今、自分で何言ったか解って……」

「ァアアアア!」

雄叫びと共に薙刀を拾い、その勢いで真っ直ぐに突き――。

「そこまでェ!!」

ビリビリと空気自体を揺らす声の主は――佐竹鑑柳斎。
その一喝で、たりたと男はピタリと止まった。

たりたの刃は空を突き、男の足がたりたのこめかみに当たる寸前で、止まっていた。

「先、生……」

たりたはそう呟くと、薙刀を持ったまま、がっくりと膝をついた。

「先生? こいつ、お嬢ちゃんの師匠だったのかよ。
なーんだ。気配も足音も消して後をつけてるから、てっきりただの助平オヤジかと……」

先ほどまでの気迫はどこへやったのか、男は自分の事は棚に上げてポリポリと頭を掻きながら軽口を叩く。
鑑柳斎はジロリと一睨みして、膝をついたままのたりたに近づき、肩を叩いた。

「でかした、たりた」

たりたはハッとして、顔を上げた。
眼の前には、満足そうに笑う鑑柳斎の顔。

「でかした、たりた。今の突きの覚悟、わしにも見えた。これこそ、直心影流の奥義だ」

「先生……」

「よくぞ、ここまで来たな」

どんな厳しい修行の最中にも、決して泣かなかったたりたの目から、涙が流れた。

「……それ、さっきオレも言ったぞ?」
という男の声は聞こえてはいないようだ。

「今ここで、お前に直心影流薙刀術の允可を与える。これからは名を――秀雄と名乗るがよい」

「ありがとうございます!」

涙声のまま、額が地面につくまで跪く。すすり上げる声はしばらく続いた。

鑑柳斎は静かに――男を振り返った。
「これがこの娘の……いや、この直心影流の使い手の名だ。覚えておけ、陸奥圓明流」

* * *

「陸奥?」

「ええ。そう言ってたわ」

「不破じゃありませんか?」

「不破……? 知りません」

加賀美はペンの尻で額を掻いた。

園部の記憶違いだろうか?
いや……目の前の老婦人は、そういう呆けとは無縁に見える。これは確かだ。

「どうされましたか? 加賀美さん……」

「いいえ。……園部さんはその後、陸奥とは再戦したんですか?」

「ええ。違う陸奥とですけど」

「違う陸奥……?」

「この話聞きたい?」

「是非」

「でも、この続きは加賀美さんの大好きなロマンスですけど……」

「えっ」

「武道一本に生きると決めた女を落とした男の台詞……聞きたくありません?」

「では……後々、薙刀娘を落とす時の参考にさせて頂きましょうか」

「まッ。赤いチャンチャンコ着てるっていうのに、これからも女を口説くつもり? やっぱり加賀美さんは女遊びが好きなのねぇ……」

「園部さんが、薙刀遊びが好きなのと同じ事ですよ」

* * *

たりたは名を秀雄と改めた。

飛入り勝手。
日下秀雄を負かしたものには、賞品贈呈。
女ながらそう看板を掲げる秀雄の挑戦は、地元の剣士たちの時代の激流の中で忘れかけていた心を揺さぶった。

賞品ではない。
女に大きな顔をさせていては、武人としての面目が立たないのだ。

剣刀、鎖鎌、棒杖……様々な武器と戦った。
時には高い熱を出した状態で舞台に上がった事もある。
怪我で腫れた腕を切り、血膿を絞り出して試合った事もある。
それでも日下秀雄は負けた事はなかった。

いや、実は一度だけある。
六尺棒の棒術使い、そう思って対戦した男だ。

得物自由の飛入り参加とは言え、その得物の条件はある。
刃物はもちろんご法度。堅い部分や尖った部分があれば布を巻き、衝撃を和らげる。
その男も、棒の先端に布を巻いていた。

秀雄が上段から振り下ろされた棒を防いだ瞬間、柄の先から鎖分銅が伸びて、鉄の錘が秀雄の首の後ろを打った。
布に巻かれていたとはいえ鉄の塊。竹刀や木刀で打たれるのとは、衝撃が段違いだ。
秀雄はそのまま倒れてしまった。

生死を掛けた戦いにおいては、敗北と言ってもいいだろう。
だが客席からは「卑怯者」と声が出た。もっとも気絶している秀雄には聞こえてはいなかったが……。

小柄なため華奢に見られがちだが、実はやたら体の丈夫な秀雄はすぐに回復はしたが、自分が床に伏せている間に何があったのか――。
目覚めた秀雄の枕元には棒使いの男から詫び状が来ていて、無効試合となったという。

「たしかに、あの武器は悪辣とは思いましたけど……」
と、秀雄は武器に関しては少々文句を言ったが、顛末に関しては多くは語らず、また黙々と修行に励んだという。
周りの者は、無効試合とはいえ負けた事がよっぽど悔しかったのだろうと思っていたが、そうではない。

「嬉しそうだな」
お互いにどこでやっているとは知らないが、朝の秘密の稽古を終えた吉岡五三郎と日下秀雄は帰り道で偶然会った。

「ええ。あんな卑怯な手を使ってでも勝ちたいと思わせたんですもの。
それに、世の中にあんな武器があるって知らなかったのは私の慢心です。
一度避けたり受け止めたからって、もう二度と油断しません!」

「お前は、どこに向かってるんだ」
吉岡は呆れ顔で軽口を叩いた。

「……道の先に、化物がいるんですよ」

「え……」

秀雄の顔は冗談を言っている風には見えない。

「その化物に勝ったら証明できるんです。女でも――最強を名乗れるって」

にいと口のはしを上げた秀雄の表情はぞっとするほど――美しかった。

吉岡は背筋を伝う悪寒を感じつつ、わざと拍子を崩すように言った。

「女でもってどういう……あ、そっか。お前女だっけ?」

薙刀と竹刀がかち合う音は、朝日輝く空に高々と響いた。

* * *

秀雄の撃剣興行の最盛期は、長野県松本へ巡業に来た時だ。
この頃の撃剣の人気は凄まじいもので、「剣撃会を一度見たら、芝居の立ち回りなんか馬鹿馬鹿しくて見てられない」とまで言われた。

なにせこの佐竹一門には直心影流剣術の剣豪佐竹鑑柳斎、かつて錦絵にも描かれた妻の佐竹茂雄
その他に、北辰一刀流の使い手、鎖鎌の名人もいれば、居合抜きの達人もいる。
そしてこの頃には秀雄の他にもうら若き乙女剣士も十数人いて、彼女らが見せる剣舞演技もなかなかの人気だった。
とくに秀雄の剣舞は本物の剣士の舞だ。へたな役者や芸人の見せる剣舞とは迫力が違うと評判を呼んだ。
こんな面白い見世物が、僅かな料金で見られるのだ。
同じ観光地で鉢合わせしてしまうと客を根こそぎ取られてしまうと、旅芝居の一座からはかなり顰蹙を買っていた。

しかし松本での評判は、これだけの理由では無かった。
地元の豪士吉田伝蔵門下の槍術使いが二、三人ほど、興行試合が始まるやいなや「たかが見世物剣術、景品を全部ふんだくってやる」と飛入りしてきたのである。

しかし秀雄は彼らをあっさりと打ち負かした。
翌日も、その翌日も、新手の門人が挑んできたが、秀雄はことごとく返り討ちにしてやった。
そして六日目。秀雄の前に立ったのは吉田道場の師範代、神貫市助。
今までの門下生とはわけが違う。吉田道場もいよいよ本気を出してきた。

だが神貫も見事打ち取ると、――ついに、吉田伝蔵本人から果たし状を突きつけられた。

「秀雄、こうなったらなんとしても負けるわけにはいかんぞ」

鑑柳斎の言葉通り、負けるわけにはいかない……のは、分かっている。
だが門下生たちはともかくとして、師範代の神貫にも楽に勝ったというわけではない。
――あの突きは……怖かった。

神貫の突きがあれなのだ。……吉田伝蔵は、どれほどのものなのだろうか。

夜の五百本稽古の時もそう頭にチラついて身が入らない。

「……お前らしくもないな」

声を掛けたのは、吉岡五三郎。

「そんなに怖いなら、オレが代わってやろうか?」

「果たし状を受けたのは、わたくしです」

振り返りもせず、素振りを続けた。

「そうだ――お前は直心影流薙刀術の日下秀雄だ」

ハッとして振り返る。吉岡が持って来ていたのは――布に包まれている祖母の薙刀。

「今日はこっちで稽古してみればいい」

「何故……」

「オレも負けられない試合の前は……真剣で稽古するんだ」

吉岡の腰には、鞘に収まった日本刀。

震える手で祖母の薙刀を受け取り、布を取る。
出てきたのは一点の曇もない、銀色の刃――。

「……槍の技には、三段突き、四段突きという技があるんだってよ。
剣じゃそんな疾い突きは、なかなか出せないが……知ってるか? 新選組の沖田って奴も剣で三段突けたらしいぜ」

「沖田、『も』……?」

再び振り返れば吉岡が刀を抜き、中段に構えている。

「槍の突きとは勝手は違うが……稽古、してみるか?」

にいと笑う吉岡は――あの男と重なった。
久遠寺の、化物。

薙刀の刃を再び見上げる。月明かりを反射して眩しいほどに輝いている。
それを目を細め少しの間眺め、秀雄は無言で構えた。

一座の花形剣士、吉岡五三郎、日下秀雄、両雄の対峙を見ている観客は月と杉の木だけだ。

秋風が木々を薙ぎ、枯葉がひらりと舞い落ちた。
それが吉岡の刀の切っ先に触れた瞬間――音も無く両断された。

――うそ……っ

瞬く間に、薙刀の間合いから剣の間合いに入られた。
真っ直ぐに腹を突いてくるので、半歩後ろに下がる。
しかし間髪入れずに今度は喉元……。

――この人、こんな疾く動けるの!?

半身避けて、首を傾けるが、後れ毛をぷつりと切られた音がする。
耳元で刀が風を斬る音が聞こえたかと思うと、今度は眉間を――。

――間に合……

「エェエエエエエイ!」

雄叫びと共に、刀を柄で跳ね上げた。
吉岡は払われた腕の勢いのままくるりと周り……払い胴。

その腕を薙刀の柄で叩き落とすと、くるりと回し……肩に刃を寸止めした。

「わたくしの勝ちですね」

「そうだな」

いつものように、ため息混じりの呆れたような顔で吉岡が笑ったので、秀雄は薙刀を立てて、それに縋るように座り込んだ。

「どうした?」

きょとんとする吉岡を、潤んだ目で見上げて言った。

「すごく怖かった。吉岡さんに殺されるかと思った……。吉岡さんを――殺しちゃうかと思った!」
潤んだ瞳がキラキラと輝いて、まるでこの世の中にある全ての歓びをかき集めて夜空にばら撒くように、星空を仰いで大声で笑った。

「今、すごく生きてるって感じる! すっごく……愉しい!!」

「……本当にお前はどこに向かってるんだよ」
吉岡は刀を鞘に戻しながら呆れ顔で呟いた。

「で、明日はどうだ?」

「明日?」

「……吉田伝蔵」

「ああっ!」

「その様子じゃもう怖くないみたいだな。……ったく。
吉田伝蔵がどんな奴かは知らないが、どうせ槍に刃はついてないし、技はともかく体の全盛期はとっくに過ぎたオッサンだ。
日下秀雄が怖がるような相手じゃない……だろ?」

「……そう、かも」

再三、吉岡は呆れ顔でため息をついて、くるりと踵を返した。

「んじゃ、がんばってなー」

そう言って背中を向けながら手を振る。きっと彼もこれから人知れずの稽古に向かうのだろう。

秀雄はその背中を見つめながら、ふと考えた。

先ほどの吉岡は、久遠寺の化物を彷彿とさせる恐ろしさを感じた。
しかし……その久遠寺の化物は、明日戦う吉田伝蔵と同じような年齢だった。
全盛期はとうに過ぎていたはずだ。

――あの化物が若い頃は、どれだけ恐ろしかったんだろうか……。

考えるだけで身震いがする。
考えるだけで……身に滾るものを感じる。

秀雄は立ち上がり薙刀を構え、目の前にある杉の木に向かって打ち込んだ。

翌日の試合では、秀雄は獅子奮迅の活躍を見せ、吉田伝蔵の得物を叩き折った上で面を取る程だった。
観客達は、座布団や羽織を投げ、思わず舞台へと上がろうとする者まで出る程の大興奮に包まれたという。

* * *

しかし、この頃を山に撃剣興行の人気は下がっていく。

憲法発布後、人々の生活も安定し始め、明治維新の殺伐とした気風はすっかり潜まっていった。
撃剣興行という泥臭い殺伐としたものよりも、より教養のある洒落たものに人々は興味を持ち始めたのだ。

あの吉田伝蔵との試合から一年と少ししか経っていないというのに、門人も半分に減っていた。
いくらか客の入りはあるものの以前のような盛況は見られない。
加えて六十を超えた佐竹鑑柳斎の年齢。このままでは、一門を解散する他はない。

そんなある日、佐竹鑑柳斎は、日下秀雄と吉岡五三郎を呼び寄せ、言った。

「頼む、お前ら結婚してくれ。そして夫婦としてこの一座を取り仕切ってくれ」

それはもう、懇願に近かった。

この一座の花形といえば、女は日下秀雄。男は吉岡五三郎。
秀雄は佐竹夫妻に心酔している。例え最後の一人になろうとも、この夫婦のいる一座から離れる事はないだろう。

だが吉岡五三郎はどうだろう。
眉目秀麗の出で立ち、加えて秀雄と並ぶ剣の腕。
まだ二十六歳の若者なのだ。身一つ出て行ってもいくらでも引く手はあるだろう。

もしそうなった時、秀雄一人でこの一門を支えるのは無理だ。
しかし秀雄はやろうとするだろう。例えこの身を削るような事をしてでも。――時代へ消えていく一門と共に、消えて行ってしまう。
そのような事はさせられない。
それは佐竹鑑柳斎の一門を率いる責任者として、そして娘を案じる父のような気持ちとしての言葉だった。

しかしこの唐突すぎる申し出に、二人共困惑していた。

「結婚? オレが、日下とですか?」

吉岡の言葉に、秀雄はムッとしてつい睨んでしまった。

「……他に女がいるのか?」

鑑柳斎が問いかける。
今までも旅先で、女客が吉岡目当てに楽屋まで押しかけて来るような事もあった。
しかしその度に吉岡は「今は修行の身ですので」と冷静に押し返してきた。

だが、旅先で出会った者と恋仲になり、その地に留まった弟子も何人かいる。
吉岡が真面目な剣士とはいえ……いや真面目だからこそ、一度そういう関係の娘ができたのなら、いくら鑑柳斎の頼みでも首を縦には振らないだろう。

「いえ、そのような間柄の女性はいませんが……。なにしろコイツを女として見た事がなかったもので、少々面食らいました」

「なんですって……」

秀雄が低い声を出したのは、本人も無意識だったのだろう。
慌てて口を抑えたが、内心メラメラと怒りの炎が燻った。

これでも一座の花形として、客席を沸かした。
一座の男や、対戦相手に言い寄られた事だって何度もある。

そんな自分を捕まえて、女として見たことがないなどと……。

「でもまぁ、先生に頭を下げられちゃ、断ることもできません。
分かりました。日下と結婚します。そして女として見るよう努力はしてみます」

「フム、そう言って貰えると助かる。して秀雄、お前は……」

「しますとも! わたくしは、十七の頃からずっと……そしてこれからだって、先生に一身をお預けしています!
先生がしろとおっしゃるのなら、結婚ぐらいしてやってみせますとも!!
一座の命運を掛けて、仕方なくですからね! わたくしも、吉岡さんを男として見る努力を、こ、れ、か、ら、します!」

「ウ、ウム。そう言って貰えると……助かる」

こうして二人は旅の空の下、佐竹夫妻が仲人となり夫婦の盃を交わした。

* * *

「あら、どうされました? 加賀美さん」

「いえ、期待した私が馬鹿でした」

頭を抱える加賀美を、園部はクスクスと笑った。

「あら、薙刀娘の落とし方の参考にはなりませんでしたか?」

「だって園部さんも吉岡さんも、落ちてないじゃないですか」

「いいえ。落ちたんですよ。少なくともアタクシはね。まぁ、この時は私自身も気づいてなかったですけど」

「え……」

「アタクシ、小さい頃から散々言ってたでしょう? 『女に生まれなければよかった』って。
薙刀をやってからも散々『女のくせに』とか言われて……そのくせ女だから男に言い寄られる。
正直疎ましかったんですよ、自分が女だって事が。

それなのに吉岡に『女として見た事がない』なんて言われてついカッとなる。
でも吉岡以外の男に言われても、ここまで憤ることも無かったんです。

何故かしらと考えた時に、突然これが女心という事だって気がつきました。
アタクシはきっとこの人の前ではどうしようもなく女で……でもこの人は女という括りではなく、私自身を見てくれていたんだろうってね」

「ふむ……よくわかりませんねぇ、女心は」

「あら、男女の色事を散々書いていらっしゃるのに?」

「小説ってのはね、登場人物の心を書くんじゃない。読者が納得するよう仕向けているだけですよ。
実際そういう事があった時、本物の女が本当にそう思うのかなんて、わかりません」

「女遊びも散々してるのに?」

「女の気持ちがわからないから、女で遊ぶなんて酷い事ができるんです」

「なるほど。……あらすごい。納得できましたわ」

「褒めてます?」

「いいえ、全く」

「やっぱりね」
加賀美はニイっと笑って続けた。
「で、吉岡さんとはそれからどうなったんです?」

もしも吉岡とずっと一緒に居たのなら――眼の前にいる老婦人は、園部ではなく、吉岡と名乗るはずだ。

「……私達、結婚後しばらく新婚らしい事はなかったんですよ」

「え?」

「だって一座の命運を掛けて、お互い仕方なくの結婚でしたからね。
そりゃずっと同じ門下生として一緒にいたんですから、嫌いって事はありませんでしたけど……。
吉岡からも何もなかったし、もちろんアタクシからなんて事はあり得ませんでしょう?
結婚した前日も、当日も、翌日も、何も変わりはありませんでしたよ」

「そりゃぁ由々しき事態ってやつじゃ……」

「でもその後、巡業が北海道へ向かう途中に、鑑柳斎先生が両親へ結婚の報告をして来いと言うもので、吉岡と二人でアタクシの故郷に帰ったんですよ。
その時の、村の騒ぎようと言ったら……。祭りの時だって、こんなに賑やかになった事なかったわ。
会う人、見る物全てが懐かしくって……。ついつい長居してしまいました。
一門に入ってから七年。七年ぶりのゆっくりした時間でした。
その時間の中で、気づいてしまったんですよ。吉岡がアタクシを見る目が変わったって。
吉岡は、お前がオレを見る目が変わったせいだなんて言っていたけど……どちらが先かなんて、きっと大した違いはないですよ。

故郷で過ごして一ヶ月、村の皆に見送られて北海道にいる一座と合流しました。
夏を過ぎて、冬が来た頃……アタクシのお腹もだいぶ張ってて……流石に試合にも出られなくなったので、室蘭の宿に滞在して子を産んだんですよ
鼻や口なんかはアタクシに似てるのに、目元が吉岡にそっくりでねぇ……それが不思議で、可愛くって……」

「お名前は?」

「おぎん」

「由来は?」

「……銀色ってね、この世で一番美しい色だと思うんですよ」

「刃の色、ですか」

「そう。アタクシ、生まれた時につけられた名前が『たりた』でしょう。そして、その後頂いた名前は『秀雄』。
どちらの名前も今は不満ないですけど、やっぱり女の子には女の子らしい名前がいいじゃないですか。だから、この世で一番美しい名前をつけたんです」

――でもあまり女の子らしい由来でもないような気がしますけど。
と加賀美は心の中でだけ呟いて、話の続きを促した。

「で、出産後はどうしたんですか?」

「産後の休養も済んだ後、青森に行ってそこで巡業しました」

「乳飲み子抱えてですか?」

「だって仕方ないじゃないですか。アタクシと吉岡は、今や一門を背負って立つ柱なんですから。
朝起きて稽古して乳やって。食事の用意して剣撃の試合をして乳やって。また試合をして乳やって。
食事の用意して乳やって。夜の稽古して乳やって。寝て、夜中起きて乳やって……。
吉岡もアタクシの代わりに試合に立ったりして……でも人手が足りないから、やっぱり太鼓を打ったりしなきゃいけないし……。

そんな二人を見て鑑柳斎先生も『後継者にするためにお前らを結婚させて、石柱にさせたが、このままでは二人共倒れてしまう』とお暇を出させようとしました。
けれど吉岡もアタクシも、剣撃以外の生き方を知らなくてね……。一座を離れて、どうやって生きていくか……。でもこのままでは先生のおっしゃる通り共倒れ。

そんな中、青森の県庁職員の上田さんって方がね、吉岡を県庁剣道部の師範に推薦してくれるって言ってくれたんですよ。
だからアタクシ達は、青森にしばらく残る事になりました。

一座を見送って、アタクシと吉岡、そしておぎんの三人の生活が始まって三日後――吉岡が剣道の稽古場へ行く途中、雪の中で倒れたんです。

――天然痘でした」

「え……」

「それから二十日程で、吉岡は行ってしまいました。上田さんは引き止めた自分の責任だと言って、それはそれは立派な葬儀をしてくれました……。
その後姉夫婦が迎えに来て……わたしはおぎんを抱いて故郷へ戻る事になりました。
なので、お世話になった上田さんにご挨拶に行ったら――アタシに手紙だと一通の封書を渡されました。

書かれていた言葉は――『果たし状 日下秀雄殿』

夫が亡くなったばかりのアタクシに、事もあろうか旧姓で宛先を書いて、よくもこんな悪戯を――一度は読まずに破り捨てたんですよ。
でも実家に戻ったら……再び手紙が届いたんです。私がいない時に、たまたま家にいた妹に誰かが手渡したそうです。
同じように書かれてましたよ『果たし状 日下秀雄殿』
再び、破り捨ててやろうと思った時――差出人の名が目に止まったんです。

――陸奥天兵。

妹に問いただしました。どんな男かと。すると、父ぐらいの歳の男だと言いました」

『父様みたくハゲじゃないけど。あと、初対面なのに妙に馴れ馴れしくって……私も姉さんみたく強かったらひっぱたいてた所よ』

「……あの男だ、と思いました」

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