その日、私はいつものように娘と一緒に部屋で本を読んでいました。
一生懸命文字を読む娘のなんとほほえましい事。
「そして、たろうは、たまてばこを……」
娘が急に立ち上がり、廊下に飛び出しました。
「こら、どこへ行くのですか!」
私が追いかけると、向こうから義経様が怖い顔で向かって来るのが見えました。
「ど、どうしたのですか?」
……何故そんなに怖い顔を……私が何かしたのでしょうか。
「郷どの、逃げて下さい。敵襲です」
「……え」
その時、塀の外から馬の嘶きが聞こえました。
「私が出て、時間を稼ぎます」
呆然とする私の横を通り過ぎようとした時、静どのの声が聞こえました。
「誰か! 殿を止めて!」
駆け出そうとした義経様の腕をとっさに掴みました。
しかし、女のごとく華奢に見えても、やはり男の方。私一人では振り払われてしまいそうです。
「離して下さい、郷どの」
冷たく重く、鋭い視線。私が鬼のようだと恐れた顔。
思わず手を離してしまいそうになった時……。
「たぁしゃま、つかまえたー!」
虎若様が義経様に抱きつかれました。さすがに我が子に乱暴はできないのか、戸惑われています。
すると、廊下の先に、私の娘がいました。
その体は、ぼうっと浮き上がっているように見え、我が子ながらこの世の者とは思えず、その恐ろしさに、ぞくりとしました。
――あぁ、この子はやはり、父親似だ。
「またれよ、よしつねどの」
舌ったらずな娘の声は、騒がしくなってきた外の喧噪にも負けず、響きました。
静どのが家人を数人引き連れて、ようやく追いつきました。
髪を縛り、弓を持っています。その勇ましい姿はまさに戦を導く比売神のような美しさです。
「皆のもの、殿を頼みますよ」
静どのに言われ、家人の方が義経様を取り押さえます。
「郷どのは、こちらへ!」
静どのが私の手を引いて駆け出しました。娘も後をついて来ます。
こんな状況なのに、私はふと、今の静どのがもし男の方だったら、好いていたかもと、などと思いました。
きっと男の方でしたら、もっと目付きは鋭くて、眉も濃くて……あら、誰かに似てきました……。
つれられるままにお堂に来ると、静どのは中央の板を叩き、跳ね上げました。
するとその下には小さな扉があり、それを持ち上げると階段が現れました。
「ここへ、お隠れください。狭いですが二人ぐらいなら余裕もありましょう」
「静どのは……?」
「私は陸奥の女です。弁慶どのが門を守っていますし、兄様もじきに来るでしょう。それまで、自分の身と殿と虎若ぐらいなら守れます!」
「でも……」
「流石に、もう二人となると話は違います。……だから早く! あとでちゃんと迎えに来ますから!」
「でも……」
「正妻はあなたかもしれませんが、殿と好きあってるのは私。男児を産んだのも私なんですからね!
だから、殿と一緒にいるのも私なんです! もう、早くなさいませ!」
「あらまぁ」
相変わらず、すぐイライラして、余計な事まで口走るお方ですねぇ。
しびれを切らした静どのは私と娘を階段へ突き落とすように押し込めると、扉を閉めました。上から板も乗せられたようです。
その時、大きな音が聞こえました。門が破られたのかもしれません。
――静どのは、たしか門には弁慶殿が……って……。
暗闇の中震える私に、小さな手が触れました。
「かあさま、こわい?」
暖かい手……そう、私はこの子の母なのです。しっかりしなければ……。
暗い中、待つのは慣れています……でも、私は義経様の正室!
娘と一緒に平泉に入ったと言われているのはこの私! 虎若様は男児です。辻褄があわないじゃありませんか!
私は天井を押し上げました。
重い。動かない。……静どのは片手で軽々扱ってたのに!
娘を抱いていた片手を離し、両腕を天井に押し当てました。すると娘も同じように手をのばします。
私達は力を合わせて、床板ごと押し上げました。
なんとかはい上がると屋敷が燃えているのが見えました。まだ、このお堂までは回ってはいませんが……時間の問題でしょう。
私は娘の手を握って進みました。すると前方から……鬼一どのがいらっしゃいました。しかし……その服は、義経様の……。
「郷、なぜここに……」
「鬼一どのこそ。そんな格好でどうするおつもりで?」
「……義経と静と虎若を逃がす。そのためには……九郎義経の首がいるだろう」
私は、一瞬言葉が出ませんでした。何か……何か言わなくては……。
「……何故、鬼一どのが……」
「弁慶と、向こうで決着をつけにいく」
「この世には、もう未練はないと……?」
私の質問にしっかりと、「ああ」と答えました。
「郷、お前たちも逃げろ。そこの堂の床の下には身を隠す場所がある」
「……はい」
「達者でな」
鬼一どのは、娘の頭を撫でました。
「……やはり、お前に似てる。源氏の姫に相応しい美人に育つだろうな」
「いいえ。この子は鬼の子です。美しいのならそのせいでしょう」
「……ああ。お前にとって、義経は鬼だったな」
鬼一どのは、背を向けて立ち去ります。
「そう、この子は鬼の子です。……私だけの義経様の子です!」
足取りはしっかりして、止まりません。
「そして私は……義経様の妻です!」
一度も振り向かぬまま、見えなくなってしまいました。
……あの人は、一つ思い違いをなさっています。
この騒ぎを収めるのには九郎義経の首だけでは足らぬのです。
九郎義経と奥州に入った郷御前は、頼朝様に誅された河越家の娘。身よりない女が夫に先立たれてどうやって生きられましょう。
「泰平の世は、まだ遠いのですね」
私は、お堂に戻り、娘と一緒に念仏を唱えました。
鬼一どのは言ったことがあります。
きっとオレは地獄へ行くと。人を殺すための術を極めた鬼が人と同じ場所になど行けるかと。
……わたしも人を殺めました。直接ではないですので、もしかしたらこれだけでは地獄へいけないかもしれません。
でも今からする事で、私も『鬼』と呼ばれましょう。
「もう……皆と一緒にいれなくなるの……ごめんね?」
「だいじょうぶ。みんな、いつかくるところ」
娘はまだ四つだというのに、毅然としています。
自分の身に何が起きて、どうなるのか、理解してるようでした。
私が懐から守り刀を抜いても、ただじっとして動きません。
外からは、鬼一どのの声が聞こえて来ました。
「我が名は源九郎義経! その最期を、とくと見るがいい!」
私だけの義経様……。今、あなたの娘とともに、そちらに行きますね。
* * *
「ここまでくれば大丈夫。殿、ここでお待ちください。虎若を頼みます」
十分な距離を歩いてから私は言いました。
「静、どちらへ?」
兄様の服を着た殿は、とても不安げな顔をなさいます。
「大丈夫です。すぐ戻ります。郷どのを連れてくるだけです」
郷どのの第一印象は、なんて暗い人なんだろう、と思いました。
ぐじぐじしてて、トロトロしてて、ホントにイライラしました。
でも……話してみると、面白い方でした。
なんていうか、私は女の人と話しても話しが合わないというか……。私が何を言っても響かず、壁を感じるのです。
私が本心を話してるのに、だれも本心で返してくれないのです。
でもあの人だけは、本心を返してくれる。私がどんな失言をしても「あらまぁ」と笑って許してくれる。
まるで姉のような……って言ったら失礼かしらね。
ただ、正室正室って、口癖のように言うのがうるさいけど……
今回助けてあげたのだって、平泉に呼び寄せたのだって、殿の正室だからじゃないんですからね!
あの人が身よりのない親子を戦火の中ほうって置けるわけないじゃない!
妻だとかそうでないとか、あの人には関係ありませんから!
今回も、無茶する前に私が安全な所へ導いただけ。 ただそれだけなんですからね!
風の音が「あらまぁ」と笑った気がしました。
そんな風に郷どのの事を考えながら、屋敷へ近づきました。
まだ藤原の兵がうろうろして、入るには刻を待たなければなりません。
日が傾き、空が真っ赤に染まります。館を包んでいた火も治まり、兵士達が焼け跡に入っていくのが見えました。
――あの床下に、気がつくはずはないとは思うけど……だいじょうぶかしら。
郷どのといえば、あの子。
……あの子は本当に殿の子なのかしら?
前はよく殿を問い詰めたけど、はぐらかされるし、そもそもそんな時間いつあったというんでしょうか。
三郎どのはよく、ヘラヘラ笑いながら
「オレがいつ町に繰り出してるのか誰も知らんでしょう? 女の所に行くってぇのは、そういうもんです」とか言ってたけど……。
でも私、思うの。
あの子は私の小さいころに良く似てるって。
特にあの舞踊の才能……いいえ。あの才能は舞踊のためのものじゃない。
もしかしたら、あの子は……。
「どうされました、泰衡どの?」
声につられ覗けば、裏切り者の泰衡が兄様の首を見ている……。
汚い手で……兄様に触るな。私は思わず飛び出したくなりました。
「義経は、こんな顔をしていたか……?」
バレる!? バレたら、兄様の死が無駄に……。
頭が真っ白になった時、屋敷の奥から誰か出て来ました。
「泰衡様ぁー! 堂に郷御前とその娘が!」
「なに! 隠れて居たのか!?」
「いえ……既にもう……」
藤原の兵に抱えられ出て来た親子は真っ赤に染まった服を着て、夕日の光に晒されても満月の元にいるかのように青白く輝いていています。
ふと、郷どのが私の肌が白いのを羨ましがっていた事を思い出しました。
『郷どのだって、十分白いじゃない』
あの時の私は、軽々しく世辞を言ってしまいました。
「ふむ……確かに郷どのとその娘御だな……。偽物と共に妻と子が果てるわけがない、か。あのような最期だったのだ。どんな菩薩も鬼の形相となるだろうよ……」
私は、音を立てないように、その場を離れました。
あの方は確かに殿の正室で、あの子は源氏の姫です。
あの二人でなくては……九郎義経の証明はできない。
――兄様。虎若は陸奥の男として立派に育てます……。でも……義経様の妻は……義経様と幸せになるのは、私なんですからね!
いつものように「あらまぁ」と聞こえました。
……風の音の、聞き違いでした。
もうすぐ、夜が来ます。今日は新月。身を隠すには、丁度いい。
* * *
それから一五年がたった。
平泉のある寺の住職が、見慣れぬ青年が境内で手を合せてるのを見かけた。
腰に鍔の無い刀を差し変わった胴着を来ている青年が手を合せてるのは、かの九郎義経とその妻、郷御前の位牌だ。
寄り添うように並んだこの位牌を拝む者はめったにいない。特に若者には義経の名も知らぬ者も多いというのに。
住職は青年の祈りが終わるのを見計らって声を掛けた。
「めずらしいですな。義経どのの縁の方ですか……?」
「……九郎義経の足跡を辿ろうと思って。じいさんは義経の知り合い?」
「平泉に居たころに、お見かけした程度ですが、そのお顔はよく覚えてますぞ」
「ふーん」
青年が振り向いた時、住職は目を見開いた。
「あ、あなたは……」
へなへなと腰を抜かした住職を見て、青年は大きなため息をついた。
「言っておくが、オレは義経じゃないぜ。縁の地にいく度に言われて、めんどうくせぇ」
「で……では」
「オレは、陸奥。陸奥虎一だ」
青年は腰を抜かした住職に、ニイっと笑いかけた。