第一話 江戸本所七不思議
江戸本所深川の掘りの近くには、夜になれば蕎麦屋の屋台が立ち並ぶ。
――きょ、今日こそは!
若き蕎麦職人の青年は屋台を引いて現れた。
今日こそは一番良いこの場所で店を開くのだ。幸いまだ他の屋台はない。
しかし、青年が息込んでいる理由は場所取りではない。
問題は――ここからなのだ。
さっそく仕込みに入る。出汁を取るのに、新鮮な魚を取りだした。
するとどこからともなく……呻き声が聞こえる。
「ううう……」
――き、気にするな!! 気のせいだ!!
「ううう……ううう」
――ま、負けるかぁ! オレはこの食料不足の御時世に安くて美味い蕎麦を食べて貰うという使命が……!
青年の肩に、手が置かれた。
「今……持ち合わせ無いんだ……でも、腹が減っ……」
「ぎゃぁあああああああああ!!」
「あぁっ! 食いもんは置いてってくれ! 置いてけぇ!」
「ひぃいいいいい!!」
青年はいつものように屋台を放り出して逃げて行った。
腕は宙を掻いて、再び力無く垂れ下がる。
「腹減った……なぁ……」
腕の主、陸奥兵衛はトボトボと堀沿いを歩き出した。
* * *
やがて日が暮れると、提灯を下げた旅装束の男の二人組がやって来た。
「ヤジさんや、ここってもしかして」
「あぁ、置いてけ掘りだよ、キタさん。ここで魚を取るとな、『置いてけぇ……置いてけぇ』と声が聞こえて魚を喰われて、しまいに魂まで取るんだと」
「ひぃ、おっかねぇ」
「大丈夫だ問題無い。オレらは魚なんか持ってねぇからな!」
「なぁるほど! なら安心だ。
所でヤジさんや、あの蕎麦屋おかしくねぇかい? この時間はかきいれ時だろ? なのに灯りもついてなけりゃ店のモンもいねぇみてぇだ」
「……まさか……燈無蕎麦……」
「な、なんだいそりゃぁ」
「一晩中、灯りのつかない蕎麦屋があんだと。いつまで経っても店の主人も現れない。でな、その蕎麦屋に入ると……祟られて地獄へ落ちるんだとよ」
「ひぃ、おっかねぇ!」
「大丈夫だ問題ない。入らなきゃいいんだ!」
「なぁるほど! なら安心だ」
男たちは笑いながら堀沿いを歩いて行った。
* * *
ぐうぐうと腹を鳴らし、堀沿いを歩いていた兵衛はふと足を止めた。
――こうなりゃ、草でも食うしかねぇ……
しかし、誰かにその姿を見られるのは少し恥ずかしい。
掘りを少し降りて、生えていた葦に紛れその葉を引き抜き、口に入れた。
――不味いし、腹の足しにもなんねぇ……。
それでも、この量だ。少しは紛れるだろうと思い、ブチブチと引き抜いて口に入れ続けた。
* * *
「ムッ!」
「ど、どうしたヤジさん?」
先ほどの二人組が葦の生い茂る掘りまで来ていた。
提灯に照らされた葦の葉は全て、片側にしか葉がついていなかった。
「か……片葉の葦だ」
「な、なんだいそりゃ……」
「昔な、この近所に別嬪さんがいたんだと。で、その別嬪さんに言い寄ってた男が居てな……。
相手にされないってんで、手足を斬って殺してここの掘りに捨てたんだ……。
以来ここの掘りの葦は片側にしか葉が生えないようになったんだと……」
「ひぃ、おっかねぇ!」
「大丈夫だ問題無い。特に祟られるとか、そういう話はないは……ず……」
提灯の光の先に、男の顔が浮かんでいた。
「うぎゃわぁああああ!!」
二人組の男は、提灯を投げだして逃げて行った。
「あ、待ってくれ、提灯忘れてるぞ!」
兵衛は提灯を持って追いかけた。もしかしたら食べ物を分けて貰えるかと思っての事だ。
「や、ヤジさん! なんか提灯が追ってくるぞ!」
「ありゃぁ、きっと送り提灯だ! 追いつかれたら殺されるぞ!」
「ひぃ、おっかねぇ!」
「待ってくれ……くそぉ……腹が減って速く走れねぇ……」
力は出ないが、腹の虫だけは喧しく鳴いている。
「ヤジさん! なんか聞こえるぅ!」
「きっと狸囃子だぁ! 音を聞いてると掘りに引きずり込まれるぞ!」
「ひぃ、おっかねぇ!」
提灯の明かりが消えかかっている。
兵衛はたまたま持っていた火打ち石を懐から取り出し、火をつけなおした。
「ヤジさん! 今度はカンカンって!」
「これは送り拍子木だ! これも追いつかれたら取り殺されちまうんだ!」
「ひぃ、おっかねぇ!」
「あ、待ってくれ!」
兵衛は二人組を見失ってしまった。
「はぁ、どうしようか……」
近所には昔馴染みの絵師の老人もいるが、昨日世話になったばかりだ。
今はどこの家も、食べ物が少ない。大食らいの自分がそう何日も世話になるわけには行くまい。
考えあぐねているうちに、腹がまた鳴った。こんな日は、早く寝るに限る。
――どこかの家の屋根裏に忍びこませてもらおう……。
* * *
旅装束の二人組の男は、空き家を見つけて雨宿りをしていた。
「勝手に上がり込んで、大丈夫かねぇ、ヤジさん」
「大丈夫だ問題無い。こんなに荒れ放題の家だ。万が一持ち主がいてやってきたら、謝ればいい」
「なぁるほど! ……しかし、ヤジさんや。元々は立派な家だったんだろうねぇ。火の見櫓もあるし。ほらあの椎の木。こんな大雨の中で葉が落ちる気配も無い」
「ま、まさか……落葉無き椎の木!」
「なんだいそりゃ」
「何故か葉っぱが一枚も落ちない椎の木があるんだと」
「そりゃぁ、なんでだ?」
「何故かは解らない……」
「ひぃ、おっかねぇ!」
「大丈夫だ問題無い。ただそれだけだから。こんな立派な屋敷だ。庭師がいっつも綺麗にしてただけだろうよ」
「なぁるほど! なら安心だ……いやこの場合、安心か?」
* * *
兵衛は庭からかき集めた落ち葉を両腕一杯に抱え、空き家らしき大きな屋敷の屋根裏に忍び込んでいた。
もしかしたら非常用の食料が忘れ去られたまま保管されているかもしれないと思ったがそんな事は無く、祭りで使っていたような古い大きな太鼓があるだけだった。
「あーあ、早く寝るか」
力なく、太鼓を一回叩いた。
* * *
「や、ヤジさん……なんか太鼓の音が聞こえなかったかい?」
「まさか……あの火の見櫓から……?」
「火の見櫓に掛ってるのは、普通板木だろぉ?」
「所がな、江戸のどこかにある火の見櫓は……板木を叩くと太鼓の音がするんだと……」
「ひぃ、おっかねぇ!」
「大丈夫だ問題無い。音だけなら、特に問題はない」
「なぁるほど! なら安心だ」
「しかし……ヤバいぞキタさん」
「な、なんだい、ヤジさん」
「オレたちぁ、お江戸の七不思議のうち六つに遭遇してる……」
「あ、後一つは、何なんだいヤジさん……」
「……ある屋敷はな……夜に……」
兵衛は、屋根裏で、寝やすい位置を探していた。
しかし、この屋敷は無人となって相当経っているのだろう。だから――
「もの凄い音がして、天井から汚い足が生えてくるんだと」
「ひぃっ! おっかねぇ!」
「大丈夫だ問題無い、その足の汚れを拭いてやれば……」
――盛大に、天井板を踏み抜いてしまった。
「うおわぁあああああ!!!」
兵衛は、自分の叫び声の他に、下から叫び声がしたので、踏み抜いた穴からそっと覗いてみた。
先ほどの旅装束の二人組が、泡を吹いて倒れていた。
「……先客が、いたか」
どうやら驚かせてしまったらしい。起こすのもなんだと、心の中で詫びて、その屋敷を後にする事にした。
一先ず下に降りて、二人組の側に、先ほど落とした提灯を置いてやり、外へ出た。
畳には、泥で汚れた足跡だけが残った。
「腹、減ったなぁ……」
街を歩くと、やけに静かなのは、夜だからというわけでもない。
ここ数年続く大飢饉で、日本全国、どこもかしこも塞ぎ込んでいるように活気が無い。
夜ともなれば、江戸の真ん中だというのに山の中に迷い込んだかのように静まり返っていた。
しかし隅田川を越えて神田へ渡ると、珍しく騒がしい声が聞こえた。
もしかしたら食べ物があるかもと、灯りに吸い寄せられるように向かった。
灯りは長屋の一軒から漏れていた。
なんとも明るい酔っ払いたちの笑い声が聞こえる。
それにつられて、中を覗いてみると、人も大勢いる。長屋の住人がそれぞれ持ち寄って、夕餉をしているらしかった。
麦めしと芋と、川魚に味噌汁……けして豪華ではないが、その匂いに思わず兵衛の喉と腹が鳴った。
「誰でぇ」
兵衛に気づいたのは四十ぐらいのひょろっとした切れ目の男。
若いとは言えないが、兵衛から見ても、『ああ、なんだか女に困らなそうな感じだな』と解るほどの色男だ。
男は戸を開けて、兵衛の腕を引っ張った。
「おう、兄ちゃん。なんの用でぇ?」
「いや、食べ物の匂いがしたので……つい」
そしてまた兵衛の腹が鳴る。
「……腹ァ減ってんのかい?」
「……今、持ち合わせはないんだ……用心棒でも雑用でも何でもやる。だから、少し恵んでくれないだろうか……」
「ほう、なんでも、ねぇ……」
男の口元がニィと笑った。
他の者たちも、「まぁた、民吉の悪い癖が始まった」とニヤニヤと笑っている。
「じゃぁ、何か芸でもやってくれ」
「げ、芸……?」
戸惑う兵衛の手を引いて、一同が円座している真ん中に立たせる。
「言っておくが、オレぁ芸には少しばかり煩いぜぇ? つまんねぇもん見せたら、容赦なく追い出すから覚悟しとけ」
「え……?」
「嫌なら、その腰に差している刀を渡してくれりゃ、分けてやるが?」
「それは……困る」
「じゃぁ、何か芸を見せてみろ」
兵衛は、しばらく眉間に皺を寄せて考えていた。
相手が武士なら、刀を振らせてそれを避けるというのもできたが、彼らはどう見ても町人だ。
そもそも、面白い芸というのは、どういうものなのだ。
兵衛が芸について深く考えれば、考えるほど、眉間の皺も深くなった。
「あーあー、そんなに難しく考えんなぃ!」
男が、バンと兵衛の背中を叩いた。
「じゃぁ、こうしよう。オレと同じ動きをしてみろ」
「……わかった」
兵衛が答えると、周囲の一同が、拍手をしたり、指笛を鳴らした。
「待ってましたッ! 冷月!」
――冷月? さっきは民吉って呼ばれていたよな?
訝しがる兵衛を余所に、拍手や皿を叩く音、歌声に合わせて、男は広げた手を振った。
「まぁ、まずは序の口、小手調べといきますか。この足が出来なきゃ、話にならんなぁ」
音に合わせて、つま先を外に向けて前に出す。
それを交互に何度もやっているのだが、前には進まず、その場に留まったままだった。
不思議な足踏みだったが、やってみると意外とすんなりと出来た。
要は、普通は前に進む場合、重心が前に行く所を、上に向けてるだけだ。
体を動かす事に関してなら、コツを掴むのにさほど時間は掛らない。
「おお、中々筋がいいじゃないか。ほれ、お次は倍速」
ちょこまかとデタラメに見えて、男のその足の運び方は、一分の隙もない剣豪のようで、相当の熟練者である事が伺えた。
――山の下の祭りでも、こんなに速い音で踊った事はないなぁ……。
音を取るのに多少時間を取ったが、兵衛もすぐにその速さに追いついた。
「……やるねェ。んじゃぁ次は腕を動かしてみろィ」
両腕を大きく8の字を描くように振り回す。
それは滑稽なように見えて、しかし柔術の演舞をしているような豪快さがあった。
――なるほど、踊りと思わなければいい。
兵衛も、同じように腕を振り回す。
影相手の組み手なら、それこそ生まれた時からしている。
「いいねぇいいねぇ!」
「民吉ィ、押されてんじゃねェぞ!」
周囲からもヤジが飛ぶ。
「おい!」
民吉が手の平を上に向けて、何かを求めた。
「はいよ!」
民吉が座っていた所の隣にいた男が、何かを二つ投げて寄こすと、それをくるりと回りながら受け取り、両手に握りしめた。
カチカチカチン!
木と木が重なり合う音が響く。
足を動かし、手を振る度に音が鳴る。どうやら小さな木を手の平の中で鳴らしているようだ。
しかし、どうやってそんな小刻みに音が鳴らせるのか、兵衛には解らなかった。
「兄ぃちゃん、今度は回れ!」
立ち位置は変わらず、手を振り回しながら、足を踏み出し、回転する。
一見簡単そうに見えて、真似するのは難しいだろう。
――だが、足の動きさえ見ていれば……。
「ハハハッ! すげぇなぁ、兄ちゃん! 次は兄ちゃんから何かやってみろ!」
「え……?」
「何でも良い、その動きオレが真似てやるよ! 真似できなかったら、オレの分の飯をやらぁ!」
「ほう……」
ぐっと足に力を入れ、音に合わせて一回転の回し蹴り。
「へッ、ナメンナ、そんぐれぇ……」
民吉も難なくできるようだ。
次にまた、回し蹴りの後の――軸足を使った回し蹴り。
周りの観衆達も、この動きに圧倒されたようだ。
民吉を見ると――ニィと笑っていた。
「ハハ、兄ちゃんもやるねぇ」
圓明流の旋――としては、威力はない。
だが、音吉のそれは力強さはなくとも華やかさがあった。
――真似事だけなら、簡単にされてしまうのか。
仕合としてこれを見せられていたら、きっと鼻で笑うだけだったろう。
形だけ真似たとて、所詮圓明流の技ではないと。
だが――。
――真似されたら……飯がないッ!!
民吉もまた、真似できなければ飯がないのだ。
これもある意味、命の賭け合いだ。
兵衛は次に、音に合わせて宙返りをしてみせた。
これも民吉にはお手のものだったらしい。
――どうすれば……いいんだ!?
背中側から倒れ、右手をついて、天井に向かって蹴り上げる。
「お、今度はちょっとムズかしいかもなぁ?」
民吉は一度、右手に握った小さな木片を放り投げ、背中から右手を床についた。
そして天井に向かって蹴り上げて、また立ちあがる。
するとまるで磁石であるかのように、木片が再び手に納ま……りそうになって、するりと抜けて床に落ちた。
「あー、もう! 失敗だ! オレの負けだ!」
いきなりそんな事を言うので、兵衛は「え?」と、動きを止めた。
人を殺せる程の威力はないにせよ、形は綺麗な弧月だったというのに……。
「くそう……この冷月様が、鳴子落とすなんてよう」
「……でも、真似は出来てたぞ?」
「完璧じゃなかった!」
と、ふてくされるように仰向けに倒れた。どうやら民吉なりの美学というものがあるらしい。
「まぁ、本人が負けと言ってるのだから……」
兵衛は思わず、ニイっと笑った。
「約束通り、飯を分けてもらうぜ?」
「ああ、オレの分やるよ、ちくしょう」
「文字通り、おまんま食いあげだなァ! 民吉ィ」
ドッと周囲が笑った。
民吉は足を跳ね上げ、勢いで飛び起きて、兵衛に向き直った。
「で、兄ちゃん名前は?」
「陸奥兵衛」
「浪人か何かかい?」
「いや……武士ではない。強い奴と戦いたいとは思っているが……」
「そうかい。じゃぁオレの名前を覚えとけ。民吉……またの名を神田の芸人、冷月様の動きに完璧について来たって言やぁ、お江戸で大きな顔が出来るぜ?」
「……あんた、そんな凄い奴だったのかよ?」
「っカー! 大道芸には興味ねぇってかい! こちとらコレで飯食ってんでぃ!
ヘタなお武家さんより、よっぽど動けるし、腕っぷしもあるんだよ! 現にこの界隈で喧嘩して、オレに勝てる奴ぁいねぇ!」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」
「なら、あんたも『陸奥圓明流』を覚えておくといい。形だけとはいえ、一目見ただけで真似来たんだ。誇っていいぞ」
「何言ってんだ若造が。ほれほれ兄ちゃん、腹いっぱいとはいかないかもしんねぇがドンドン食え!」
差し出されるまま、遠慮なく頂く事にした。
「で、江戸には何しに来たんだ? 強い奴を探してるんなら……そうだなぁ、浅草の藤松なら……」
「いや」
強い奴とは戦いたい。しかし、今の兵衛にはもっと重要な使命があった。
「探してるのは、米だ」
「こ……米ェ?」
「探してあるもんなら、とっくに食ってらぁ!」
「やはり、江戸にもないのか」
がっくりと落ちた兵衛の大きな肩を、民吉がバンと叩いた。
「そう、ガッカリすんない!」
「そういえば……」
話を始めたのは、ある家族の母親だった。
「聞いた話じゃ、江戸に献上された米……。このご時世に、どこの国も去年より落ちてんのに、大阪だけは増えたらしいよ。大阪に行けばあるのかもね」
「へぇ……さすが天下の台所! 景気のいい事だ」
「大阪か……行ってみるか」
大阪の米に想いを馳せる兵衛に、民吉がこっそり耳打ちした。
「明日も飯奢るからよ、大阪から帰ったら、少し米分けてくんねぇ?」
兵衛も小声で「ああ」と答え、麦めしを飲みこんだ。