陸奥兵衛の章 大塩平八郎の乱編 5

shibaigoya

第五話 世界

 天保八年一月末日
その朝、ミズホは漬物の桶を覗きこんで唸っていた。

――あかん……もうあらへんわ……。

元々、自分一人のつもりで作っていたのだ。自分だけなら、三月までは持つはずだった。
どうしたものかと考えてると、頭の上に何かが乗っかった。兵衛の顎だ。

「……なにしとん」

「食べ物がもうないのか?」

「質問に答えぃ」

「お前こそ答えろ」

「……乾物を戻せば、なんとか……」

「……兎か何か狩ってこようか?」

「勝手に狩ったら猟師どもに怒られるで。それに今日も源右衛門さんに呼ばれとんのやろ?
お山の雪も溶けはじめたし、うちが川で魚でも釣って来る。せやから大丈夫や」

「本当に大丈夫かよ」

「こう見えても、釣りは小さい頃から得意なんやで」

「いや、足滑らせて川に落ちたり……」

「落ちへんわ」

「魚に引っ張り負けて川に落ちたり……」

「落ちへんて……」

「あと、雪解けの鉄砲水に足取られて川に落ちたり……」

「むしろ落としたいんかい! 不吉な事ばっか言うて! ホンマに落ちたらどないすんねん!」

「そしたらオレが温めてやるよ」

「何を若干楽しみにしとんねん! っていうか、いつまで人の頭の上にとまってんねん!」

「ちょうどいい高さだと思って」

「意味わからん! えぇい離れぃ!」

兵衛の頭を振り切ろうと、そこらを歩きまわっても、まるでニカワでついてるかのように、ぴたりとくっついて離れない。

「もういい加減にしぃや!」

「……オチ、ついた?」

ミズホが振り返れば、その上に顎を乗せている兵衛も振り返る。
玄関口に冷めた目をしたミズホの姉と、「見たらあかん」とばかりに目を塞がれた姉の長男と長女が立っていた。

「お、お姉ちゃん……いつからそこに?」

「あんたが頭の上に卯兵衛さん乗っけて、ウロチョロしてたあたりから」

「ちゃうねん! こいつが勝手に乗っかってんねん!」
兵衛からは見えないが、きっと顎の下にあるミズホの顔は真っ赤なのだろう。
しかしミズホの姉は特に表情も変えず、冷めた目のまま続ける。

「お山の雪も溶けたし、そろそろ川に魚も戻ってくる頃やから、この子たちに釣りに行かせようと思ってん。
ミズホも行くやろうから、ついでに面倒見てもらおうと思うてな」

「そ、そか! ええで!」
平静を装うとして、かえって声が裏返っていた。
肘で兵衛の脇腹を小突き離れさせると、小走りで物置から釣り道具を持って来て、子供たちを姉から預かった。

「よっしゃ! 鮎釣り隊出動やー!」
「しゅつどーやー!」
「今年は、ミズホ叔母ちゃんに勝つからなぁ!」
「う~ん。どないやろなぁ~。まだまだ負けへんでぇ~」

子供たちと手を繋ぎ、そそくさと川へと向かうその背中を見送った。

――あいつは子供の扱い方を、心得ているんだなぁ……。

この前、三人組の相手をしていた自分と、小さくなるミズホの背中を比べた。
自分が少し不甲斐なく思えて、眉間に皺をよせていると、ミズホの姉が兵衛を振り返り声をかけた。
「さ、うちらも行きますか、卯兵衛さん」

あの日以来、ミズホの姉が兵衛に見せる表情は、冷たく鋭かった。

――まぁ、美人はどんな顔でも悪かねぇんだが……。

やっぱりミズホみたいに笑ってたほうがいいと思う。
ミズホに似ているのなら、なおさらだ。

* * *

米を担いで、大塩の屋敷へ向かう。
この前来てから、半月ぶりである。

いつものように、米を離れの小屋まで運び、中庭の縁側に座っていた。

すると、誰かが廊下を歩いてくる気配がした。
のしのしとした、重量感のある足音……。

「……大井正一郎……だったっけ?」

「覚えていてくれるとは、ありがたい事やな」

足音の主が隣に座る。そこでやっと兵衛は振り返った。
濃く太い眉の下の真っ黒い目は、庭にある池の鯉を眺めていた。

「あんた……」
しばしの沈黙の後、大井が呟いた。
「この間の技、どこの流派のなんちゅう技や?」

「陸奥圓明流、弧月」

「聞いたことあらへんわ」

「まぁな」
戦国の世、源平の合戦。その時代の陸奥が、裏で大将を助けたという話も母から聞いた事がある……が。

「……無手でいかに人を殺すかを何百年もかけて練って来た流派だ。……この平和な世では、必要が無い」

「そんなことはないやろ! オレはもう一度仕合いたい。もう一度やって、今度は勝つ!」

「無理だ」

「即答かい! やってみなきゃわからへんやろ!」

「お前が圓明流を破るつもりで来るのなら、オレは本気になるしかない。そうなったら……お前は死ぬぞ」

ごくり、と大井の喉が鳴った。
張り詰める空気を破ったのは、兵衛だった。

「あ、でも大丈夫だ、お前だったら死なん」

「は?」

「お前が本気になった所で、オレは本気にならずとも勝てる」

「なんやて!?」

「お前が弱いって言ってるわけじゃないぞ。オレが強すぎるだけだ」

「ほざけ!」
木刀が、兵衛に向かって払われた――が、手で受け止められた。
兵衛は特に慌てた様子も無い。

「……甘いな。刀を抜けば良かったのに」

「武士の魂や。簡単に抜くわけにはいかへん」

「そこが武士のわからん所だ。それはただの人を斬る道具だろ」

「百姓にはわからんでええ」

「百姓なんてご立派な身分じゃない」

「ああ?」

「お前らの制度で言えば単なる乞食だよ、オレは。ただちょっと日本一強いだけだ」

「何を言うて……」

「卯兵衛」
後ろから源右衛門に呼ばれた。
大井がまだ何か言い足りなさそうにしていたが、構わずにさっさと立ちあがり部屋へと入って行った。

残された大井は再び池に目を戻した。
あの日、あの技を食らってから内から湧き上がる、言いようも無い感情。
思い出すだけで膚が粟立ち、体の中で獣がうなり、駆け回り、暴れるような狂気を押さえつけるのも、やっとだ。
どうにか発散させようとして、素振りを何度やっても物足りない。もう一度組み合いたい。
そんな感情を自分に植え付けた本人が、何故……何故、あんなにつまらなそうな目で世の中を見ているのだ。

自分の腕が上がれば、本気にさせる事ができるのだろうか?
それには何年かかる? あいつがこの世で一番強いのだとしたら……自分は一体何番目だというのだ。
「くそぉ!」

全てのうっ憤をぶつけるように、木刀を庭に叩きつけると、飛び散った石が池に何個も沈んで行った。

「あー! だめですよ、正一郎さん!」
「鯉をいじめちゃダメですよ!」

いつの間にかいた、末次郎・幾代蔵・龍太郎の三人組に咎められ、空気が抜けたように座り込む。

「すまん」
と、力なく呟いた。

「僕たちじゃなくて、ちゃんと鯉に謝ってください!」

「あーもう、えろうすんませんでした、鯉! もうせぇへんです!」
半ばヤケクソだった。

「わかればいいんです!」
えへんと胸をそらす三人組を見て、たぶんこの世で一番強いのは、こいつらなんじゃないかと思った。

***

* * *

通されたのは、前に大塩と相見えた大きな居間ではなく、大塩の書斎だった。
いるのは大塩と源右衛門だけだ。

大塩は、何か文を綴りながら、なんともなしに呟くように告げた。
「柏岡と話し合うたんやがな、お前さんをうちで雇う事にするわ」

「……え?」

源右衛門も、同じ調子で続けた。
「大塩先生の所に住みこみになるから、失礼のないようにな」

「はぁ!?」

あからさまに顔を歪ませる兵衛を、源右衛門が睨みつける。

「なんや、先生の世話になるんやで? ありがたい事やろうが」

「いつから?」

「今から」

「なんで勝手に決めるんだ!」

「お前はわしに雇われてる身やろうが、お前をどうしようとわしの采配一つや」

「まぁまぁ、待て、柏岡」
大塩がニイと笑って、源右衛門を宥める。
「わしらは、下のモンの意見も通る新しい日本を作ろうとしてるんや、まずは卯兵衛の意見も聞こうやないか」

源右衛門は「先生が言うなら」と兵衛に向き直った。
それが、なんとなく釈然としないまま、兵衛は答えた。

「とりあえず、今からは困る」

「なんでや?」

「……ミズホが待ってる……」

「ミズホには、わしから言うておく」

「嫌だ。オレから言う」

「ミズホちゅうんは、この前言うていた女の事か?」
大塩が尋ねたので、「ああ」と答えた。

「それに、田植えして、刈り入れしないと米とミズホを貰えないんだろ?」

「安心しろ、田植えの頃には戻ってもらうから」

「え?」

「田植えまで、大塩先生にお前を貸すんや。お前の馬鹿力を役立たせてもらい」

「はぁ?」

「貧民の為に……炊き出し施行をするんや」
大塩が付け足す。
「その為に本を売りに行かねばならん。一冊二冊やあらへん。蔵にある本全部や。何万冊もあるからな、力があるもんが必要やねん。
それから庭の池を埋める事にしたからな。あの池もでかいやろ? 人手が必要やさかい。
十人力のお前がいてくれたら助かる。
柏岡から借りるだけや。せやから柏岡との約束が反故になるわけやない。なんなら、わしからも米と女を上乗せしてもええで?」

「……米はともかく、女はこれ以上貰っても困る」

「なら米だけでええな」

「……ああ」
兵衛の発した言葉は同意だったが、そこから受け取れる感情は同意とは言い難かった。

「不満そうだな」

大塩の言葉に、同意するように続ける。
「オレのこの力は、土木作業や運搬の為じゃないからな」

「なら、何の為や」

「……人を殺す為だ」

「はぁ?」
何か言いたそうにした源右衛門を大塩が制し、続けさせた。

「オレは、自分がこの世で最強である事を証明する為に、力をつけた」

「この……天下泰平の江戸の世でか」

「ああ。八百年も昔から最強であり続ける為に技を磨き続けた一族だ。強いと言われる者がいれば会いに行き勝負をした。逆に挑んで来た者もいる」

「例えば?」

「――武蔵坊弁慶」

「ほう?」

「それから、雑賀孫一……宮本武蔵……柳生十兵衛にも勝った」

「へぇ、錚々たる面々やのう」

「それにオレは……雷電為衛門に勝った」

「は……? 雷電ちゅうたら、伊勢の海の?」

「雷電を殺したのは、オレだ」

「何を言うてんねん。雷電は老いて病気で死んだんやろ? 病気のジジイに勝って威張るなや」

「……何とでも言え。ただ、オレは雷電より強い男に出会った事はない」

「わしの門下生らは、病気のジジイより弱いかよ」

「弱い」

「……言い切りおったなぁ」

「ただ、大井正一郎は……」

「見込みアリか?」

「あと三十年経てば――あいつがあと三十年、剣の技だけ磨き続ける事ができれば、また相手してやってもいい」

「お互いジジイになっとるやないかい!」

「そうだな……でもオレは、またあの時と同じ仕合ができるなら――ジジイになるまで待たされてもかまわん」

「ほう……でもその口ぶりじゃぁ、無理や言うてるみたいやな」

「まぁな。もうこの日本でオレ以外に最強を目指す奴はいない。最強になる為なら死んでも構わないと思う馬鹿はな」

「確かになぁ。剣で身を立てるちゅうても、せいぜい道場の師範になるぐらいや。
その師範かて、別に殺し合うまでの斬り合いせんでもなれる。お前さんの眼鏡にかなう相手はいないやろうなぁ」

兵衛は、大塩の言葉に、一瞬目を見開いた。
武家の者で……しかも元は与力というような立場で、兵衛の――陸奥の言葉に理解を示すものは今までいなかったからだ。

――やはり、こいつの中にも……鬼がいる。

だが大塩は馬鹿ではない。自分と仕合ってはくれないだろう。
それは戦う前から負けを認めてるわけではなく――見ている方向の違いだ。

――大塩の中の鬼は、どこを向いているんだ?!

それを見極めようと、じっと大塩の細い目を見る。
すると大塩が立ち上がり、「ついて来い」と廊下に出た。

前のように、大塩の間合いに入らぬように、慎重に後に続く。
源右衛門は目の前でされていた恐ろしい会話に、まるで狐にでも化かされているかのように呆けていたが、二人が部屋を出て行くのに気づいて、慌てて後に続いた。

* * *

大塩がやってきたのは、家の裏にある大きな蔵だ。

「ここが、わしの書庫や。この蔵にある本を全部売ろうと思うとる」

開かれた扉から漂うカビ臭さに兵衛は一瞬顔をしかめた。だが蔵の中は意外に明るい。
壁一面が本棚となっており、兵衛でも梯子がないと届かない所までギッシリと詰まっている。
しかもそれは綺麗に整頓され、本に詳しい者ならば、どこら辺にどんな本があるのか、初見でも解るだろう。
生憎、兵衛は本に詳しくはなかったが、整頓された空間というのは好きだったので、ついついキョロキョロと辺りを見渡していた。

「これや」

大塩が取りだしたのは、一枚の大きな紙だった。
折りたたまれた紙を丁寧に広げながら言った。

「お前さんは日本で一番やと言うてたな。わしもそう思うわ。だがな……世界ならどうやろうなぁ」

「そりゃオレが一番だ。オレはこの世で一番強い」

「……これを見ても、まだそれが言えるか?」
広げられた紙に描かれた模様。書かれている記号のようなものは異国の文字だろうか。

「地図か? どこの地図だ?」

「世界や」

「世界? この紙の中に、この世の全てが描かれているのか?」

「そや」

「じゃぁ、日本はどれだ?」

大塩が示したのは、地図の右の端の端にある、小さな島だった。

「……この、干したシラスみたいのがそうだと言うのか!?」

「ああ、清だけでもこんなにデカイ。日本が攻められたらひとたまりもあらへんで。
でもまぁ、今一番恐ろしいのは、ここの英吉利ちゅう国や。この亜米利加ちゅう所も、ここ近年勢力をのばしてるな」

巨大な島全体の亜米利加は兎も角、英吉利というのは日本よりも少し大きいぐらいの小さな島に見えた。しかももの凄く遠くにある。

「……英吉利のどこが恐ろしいんだ?」

「英吉利の城があるのはこの島なんやけどな、領土は飛び石みたいなもんや。
ここも、ここも、ここも、ここも、みーんな英吉利や。英吉利が攻めてぶんどって得た領土や。
亜米利加かて元々は英吉利の領土やったんやで。最近は清にもチョッカイだしとるらしい」

「……どんな奴らなんだ」

大塩がニイと笑うと、本棚から大きな本を取りだした。
書かれているのは、地図にあったような記号の様な文字だったが、絵も沢山描かれている。

「お前さん、火縄銃は知っとるな」

「ああ」
実家の物置きにも、錆びた銃がある。おそらく銃が出て来た頃に訓練で使っていたのだろう。
小さい頃、庭をほじくって遊んでいたら『豆』と彫られた錆びた弾丸が出て来た事もあった。
……もしかしたら、豆まきを弾丸でやっていたのか……? と思い当たったのと同時に背筋が凍え、そっと元のように埋めたのを思い出した。

「英吉利で使うとる銃は、コレや」

形は火縄銃と変わらないように見えたが、火縄が無かった。

「……どこに火をつけるんだ? 火薬はどこに入れる?」

「火はつけへん。火薬は弾丸の中に入っとる」

「え……?」

「引き金を引くとな、弾丸の底に金具が当たって爆発すんのやと。んでこの銃は、銃身に溝が彫られててな、発砲すると、グルグル回るんや。
ほれ、この絵が弾丸や。先が尖がってるやろ? これがグルグル回って向かってくるんや。鉄でも貫くで」

それは、銃相手の訓練で使う技――雹と同じ原理だ。

「……弾が凄くても、当たらなければどうってことはない」

「じゃぁ、この大砲は? 穴がいっぱいあるやろ? ここからさっきみたいな弾丸を連射するんや。
弾のある限り、何百発やろうと、何千発やろうと。これがズラーっと並んでみぃ。避けようがないで」

兵衛が、喉を鳴らした。

「英吉利だけであらへん。仏蘭西もその英吉利と何度もやり合うとる国や。世界中に領土があんねん。
わしらが、この小さな島の中で陣取り合戦やってた頃から、こいつらはこんなでかい世界を取り合うてたんじゃ。
どうや? それでも己がこの世で一番と言うか?」

「……ああ」

「ほう?」

「それを証明したい。オレが……オレの技が、この世で一番だと……」

「この世界を回るつもりか?」

「ああ」

「なら、その地図やるわ」

「いいのか?」

「どうせ売るつもりやったんや。お前さんがいつか世界に行く事になったら、使え」

「かたじけない」
世界地図から目を上げ、礼を言う兵衛の目は、かつて雷電と対峙した時と同じ。
その目を見て、大塩はニイと笑った。

* * *

村に戻ったのは、昼過ぎだった。

「まぁ、世界だろうと、なんだろうと何処へ行くのもかまわんが、刈り入れまでは居て貰うからな」

「……ああ」

大塩に教えて貰った“世界”への思いを馳せようとも、現実は相変わらず源右衛門の牛か馬だ。
大荷物を担いで柏岡への屋敷へ向かう途中、村の奥から童女が走ってくるのが見えた。

源右衛門の孫――いや、娘だ。

「おとうー!」

「おう、どないした」

父親を迎えに来たという様子ではない。酷く慌てている。

「お、お兄ちゃんが、木に……つりざお……ミズホ叔母ちゃんが……!」

息子の身に何か起こったらしい事は察した。

「卯兵衛、わしは川へ行くから荷物を屋敷……」

振り返れば、兵衛の姿はなく荷物だけがそこにあった。
もう一度向き直れば、娘の姿もなく、遙か前方に娘を抱えて走る兵衛の後ろ姿があった。

「卯兵衛! 荷物どうすんのやー!」

小脇に抱えた源右衛門の娘が指差す通りにすすむと、人垣ができていた。
娘の言っていた事は要領を得なかったのだが、人垣を掻きわけて前に出ると、事態が把握できた。

小さな中州に、ミズホと源右衛門の息子が取り残されていた。

「お兄ちゃんの、つりざおが……流ててきた木に引っ掛かって……ミズホ叔母ちゃんが手ェ離しぃって言うたのに……
つりざお失くしたら、おとうに怒られるからって、離さへんで、川に落ちて……したら叔母ちゃんが……!」

雪解けで水かさが増し、流れも速く冷たい川……。
時間が経てば、いずれあの中州も水没するだろう。

「持ってきたで!」

村人の誰かが縄を持ってきたらしい。

「誰が行く?」

押し付け合う村の男たちを余所に、兵衛は懐から地図を出し、娘に「持っててくれ」と押し付けた。
そして刀も渡そうと腰に手を伸ばしたが――

――ああ、そうだ。ミズホの家だ。

大きな音がして、村人が振り返ると、中州に向かって泳ぐ人影が見えた。

「お、おい、命綱!!」

だが、人影はまるで流れなどないかのように、真っすぐに中州へ向かって行った。

* * *

「……寒ぅないか?」

「うん」

ミズホは震える体で、源右衛門の息子を抱きしめた。

幸い二人とも怪我はないが、ミズホに子供を抱えて岸まで泳ぐ体力は残っていなかった。

「ほら、村中の人が来てるやろ。もうすぐの辛抱やで」

「うん」

だが川の冷たい水は、もうミズホの座る尻の辺りまで浸みている。
はたして誰かがここに辿りつくまで持つかどうか。

その時、川岸から大きな音が聞こえた。
誰かが飛び込み、真っすぐに向かってくる。

「……兵衛さん?」

「卯兵衛ー! こっちやー!」

子供の声を頼りにして、兵衛が中州へ辿りつく。

「……まさか、本当に川に落ちるとはな」
息は白いが、その表情はいつもと同じようにニイと笑っていた。
寒さを感じていないのかと思ったが、伸ばした腕にはびっしりと鳥肌が立っている。

「声に出した事はホンマになるんや、気ぃつけぇよ」
ミズホも、自然と強気な言葉が出た。

「帰ったら、温めてやるからな」

「子供の前で何言うとんの、アホ」

お互いの目が合い、ニイっと笑った。

「じゃ、行くぞ。掴まれ」

「この子を先に……」

「馬鹿。二人とも連れて行くぞ」

「いくら兵衛さんでも、それは無理や」

「もう一度往復するほうが無理だ」
もうミズホの尻が水に浸かり始めている。

「二人ともオレに掴まれ。絶対離さなければ岸までたどり着く」

「三人とも溺れてまう……」

「声に出した事は本当になるんだろ? それに、オレは無理な事なら言わない。口に出した以上はやる自信があるんだ。オレを、信じてくれ」

信じる――その言葉は、ミズホの心を鐘のようについた。
自分でも気づいていなかった。

――ウチ……男の言葉は信用してへんかったんやな……。

でも――。

「解った、信じる」

この男を信じないで死ぬか――、信じて死ぬか。
だったら最後に信じてみるのも悪くない。

――いや、信じるんやから……生きるんや。

「何があっても、絶対暴れるなよ」

ミズホが差しだした手が、震えていたのは寒さだけではない。
そんな事を兵衛は知るわけはないのだが、握られた手をしっかりと握り返した。

* * *

川の水は身を切る冷たさだった。凍えて指先の感覚はないが、しっかりと兵衛の服を掴む。
深さはミズホの顔が半分出るほどだが、兵衛がミズホの腰をぐっと抱えて浮かせてくれたお陰で息はできる。
反対側では源右衛門の息子を同じよう抱えて、歩いて渡っているようだ。

まるで川底から根を張っている大木のように、流れにも動じず、真っすぐに岸に向かう。
流木でさえ避けて行くように思えた。

村人たちの歓声が、少しずつ近づいて行く。
だが――源右衛門の息子の、唇が青い。ミズホも奥歯が噛みあわない。

水温が、体温と気力を奪って行く。

「もうすぐだから、気をしっかり持て」

「うん……」

兵衛の呼びかけに、答える事で意識を保っていたが、それも限界だった。
体から力が抜け、一瞬沈んだが、ぐっとまた体を浮かされる。

「あ……すまんなぁ、兵衛さん」

「いや、オレこそスマン」

「は?」

兵衛の腕はミズホの脇の下を回って、手が胸部を掴んでいた。

「……スマン」

「そう思うてるなら、指動かさんといて」

「こうする事によって、お互い意識が保たれるだろ?」

真顔で言うので、一瞬納得しかけた。

「子供が聞いてるやろ、アホ!」

「大丈夫だ。こいつも水面下で何が起こってるのか興味を持つ事で、意識を……」

「詭弁やぁ! ええい離せぃ!」

「暴れたら三人とも溺れ死ぬぞ」

命を盾にされたら、抵抗もできない。

「鬼や……アンタは鬼や!」

「ああ。よく言われる」

「何を得意げに言うとんねん、ドアホッ!」

そんな事を言い合っているうちに、川岸についた。
いの一番に駆け寄ったのは、ミズホの姉だ。
村人達が持ち寄った布を全部、息子とミズホにかぶせ、強く抱きしめた。
周りを囲んだ村人たちも「よかったよかった」と拍手をしたり、そっと袖口で目元を拭ったりしていた。

「あの……オレにも一枚もらえないだろうか……」
兵衛の呟きは、ミズホの姉には届いていないようだった。

* * *

「エライ目に遭うたわ、もう!」

柏岡の屋敷に風呂に入れて貰って、夕飯まで御馳走になって、すっかり温まって家に戻ってきた。
幸い、ミズホも源右衛門の息子も……もちろん兵衛も怪我はしていない。

村人たちが、兵衛を見る目もガラリと変わった……が、変って無いのが二人。
ミズホの姉と、ミズホ自身だ。

「あんたを信じた結果がこれかい!」
フンッと鼻息も荒く、兵衛と目を合わせようともせず、チクチクと着物を縫っていた。

「意識が無くなったら死んでたかもしれないだろ?」
兵衛は、床に広げていた世界地図から目を上げてミズホに答えた。
「ああするしかなかった」

「嘘や! 絶対他にも方法あったわ!!」

「でも、オレたちは生きてる」

「まぁ、そこは感謝しとるけど……」
言いごもると、着物を縫う手も遅くなった。

「それにオレ達、夫婦だろ? 恥ずかしがる事ねぇじゃねぇか」

「フリしとるだけやって! 夫婦ちゃうねん!」
プイと、そっぽ向くと兵衛から見えるのは耳だけだが、それが真っ赤になっている。

「せやから……恥ずかしいんや……アホ」

――嫌だというわけではないんだな……

と言うと、また烈火の如く怒り出しそうなので、心の中だけでつぶやいた。
ニイっと笑った兵衛の顔は、ごまかすように縫っている手元から目を逸らそうともしないミズホからは見えない。
暫く沈黙が続く。聞こえるのは、火鉢の墨が小さく爆ぜる音だけだ。

やがて縫い終えた着物をミズホが畳み始める。

「……何を縫っていたんだ」

「お父ちゃんの着物や。兵衛さん、大塩先生のとこに住み込みすんのやろ?」
その話は、柏岡の屋敷で飯を頂いている時に、源右衛門が切りだしたのだ。

「ああ明日からな」

「着物がその道着だけやと、色々と不便やと思うてな」

「これが一番着慣れてるし、どうせ向こうでもやるのは力仕事だ」

「何があるかもわからん。念の為、持って行きぃ」

「……わかった」

そしてまた無言になる。

「……兵衛さんは、さっきから何見とんの?」

「世界地図だ。大塩からもらった」

「ふーん」
と、ミズホも地図を覗きこんだ。

「……こんな形しとんのかぁ。で、日本はどこや?」

「ここだそうだ」

「え? この干したシラスみたいのが!?」

自分と同じ感想を言ったので、思わず吹いた。

「せやったら、大阪はどこなん?」

「この辺りだ」

「お江戸は?」

「ここ」

「小指の爪程も離れとらんね」

「でも、一月近く掛った」

「ふーん……んなら、この地図の端から端まで行くとしたら、どんくらい掛るんやろな。想像もつかんわ」

――ああそうか。世界中全て回るとしたら、何十年かかるんだ?

日本ですら、十年以上さ迷っているというのに。
何故そんな単純な事に、すぐ気づかなかったのだろう。

「……オレ一人では回り切れんな」
空でも飛んで行けるというのなら別だが、所詮人の身。修練で翼が生えるわけもない。

「え……行くつもりだったん? 端から端まで」

「ああ」

「アホやなぁ……でも、気持ちはわかるで。一体どんな人がおって、どんな風景があるんやろなぁ」

そして、どんなツワモノがいるのだろう。
どんな技や武器があるのだろう。

その全てと戦いたい。
だが――老いというものは確実にやってくる。自分に残された武人としての時間は、あとどれくらいなのだろう。

自分が戦えなくなったら……。

――子が欲しい。

初めてそう思った。
この日本に、陸奥である理由はもうない。陸奥を引き継ぐ理由も無い。なら海の向こうならどうだ? まだ見ぬツワモノが、そこにいるかもしれない。

陸奥は海に出る。自分に無理なら……子に託すしかない。

――だが、オレは子供が嫌いだ。

何を考えているかサッパリわからないし、人の言う事を聞かず笑っているだけの態度にもイライラする。今回の騒動だって原因は源右衛門の息子だ。
一応、謝罪と礼の言葉は言ってくれたが、飯を食ったら元の生意気な小僧に戻ってしまい、本当に反省しているのか怪しいものだ。

しかし――。

目の前にいる女。
地図を見下ろして、楽しそうにその世界を空想している女。

この女が産んだ子ならば、この女に似ている子供ならば――。

「……なんなん?」

意識してはいなかったが、かなり長い間ミズホの顔を見ていたらしい。

「……早くオレに惚れてくれないかな、と思ってな」

「いきなり何言うとんの?!」

「オレは女を不幸にしたくない」

「ええ心掛けやと思うけど、どう繋がっとんの?」

「女ってのは、惚れた男に抱かれたいもんなんだろ? そうじゃないうちに手籠めにしても不幸にするだけだ」

「……は……ははっ! あははっ」

ミズホが腹を抱えて笑いだした。中々止まらない。
ついに笑いながら「腹が痛い」と苦しみ出した。

何故笑われているのか判らず、眉を顰めているとミズホも落ち着いて来たようだ。
ひいひいと息を整えながら言った。

「そんなん男の傲慢や。男が惚れた女を抱きたいだけやろが。男がそういう事ばっか考えとるから、女もそうやと思ったら大きな間違いやで」

そして兵衛の眉間に人差し指を置き、皺をぐりぐりと伸ばした。

「女はな、惚れた男に抱かれたいちゃうねん」

ニイとミズホの唇の端が上がり、顔が視界から消えた。
肩にミズホの顎が乗り、耳たぶに吐息混じりの言葉が掛った。

「……抱かれてあげたいんや」

脈を打ったのは、自分の心臓だろうか。
目の前にあるのは、触れただけで折ってしまいそうな程、細い首筋。

手では傷つけてしまうと思い、口をつけた。

* * *

* * *

翌朝、目を覚ましたミズホは隣に寝ていたはずの兵衛がいないのに気がついた。
慌てて上半身を起こすと、後ろから「起きたのか?」と声がして、ほっと振り返った。

「珍しいな。お前がオレより遅く起きるなんて」

「あんたの鼾が煩うて、眠れんかったんや。アホ」

肌蹴た襟を直して立ち上がろうとしたが、コテンと前につんのめってしまった。

――た……立てへん……

ちらりと兵衛を見ると、ニヤニヤと笑っている。

「何を見とんねん。起こしてや」

「寝てていいんだぞ?」

「朝食作らにゃあかんやろ」

「自分で出来る」

見れば、昨日釣った鮎が囲炉裏に差してあった。

――干物にしようと思うてたんやけど……。

でも、やって貰った事には変わりない。
「……すんまへんなぁ」

「たまには、こういうのもいいだろ」
と、つんのめったままのミズホの尻をポンポンと撫でた。

「何すんの、もう!」
慌てて身をよじり座り直すと、目の前に「食え」と鮎を突き付けられた。

「ほらほら、沢山あるぞ。食え」
明らかに、自分が釣って来た以上の鮎があった。

「どうしたん?」

「目が覚めて、お前が寝てる間に捕って来た。食え」

「……こんなに食えへんて」

「お前は痩せすぎだ。腕とか折ってしまいそうで不安だ」

「あんたが加減すればええんちゃうの」

「お前が相手じゃ、無理だな」

「アホ」

ツンとそっぽ向いたが、習慣からかキチンと「いただきます」と言ってから鮎を齧った。
その様子を見て、兵衛も「いただきます」と鮎を頬張る。

「……今日から、行くのやろ? 大塩先生の所に」

「ああ……寂しいか?」

「ちゃうねん……いや、ちゃうはちゃうんやけど……いやいや、ちゃうちゃうちゃう」

「何を言っているんだ」

「……帰って来るんよね?」

上目遣いでおずおずと聞く。おそらく、伝わってくる以上にミズホの中では不安が渦巻いているんだろう。
兵衛は笑って、腰の刀を渡した。

「預かっててくれ」

「え……」

「前に言っただろう。これは一応家宝だ。オレが、オレである証だ。だから――絶対に取りに戻って来る」

「……うん」
ミズホは刀を受け取ると、少女がお気に入りの人形を抱くように、ぎゅっと抱きしめた。

「それから、この地図もな。オレは物の扱いが雑だからな……破ってしまいそうになる。
だからこれも預かってくれ」

「うん……」

「それに、お前の親父さんの服も借りてるからな、返しに来なきゃいけないだろ」

「せやな……」
ミズホが、安心したように笑った。

「それから――」

まだあるの? という風に首を傾げるミズホを見て、ニイと笑った。

「お前を抱き足りない」

「何を言うとんねん、アホッ」

「……もう抱かれてはくれないのか?」

兵衛が、眉を下げて困ったような顔をした。
それがまるで小さな子供のように見えて、ミズホはクスリと笑った。

「刈り入れまで勤めんと、源右衛門さんから夫婦の許しも貰えんやろ。せやから……刈り入れ終わったら……もう一度抱かれちゃるわ」

「本当か?!」

「せやから、絶対帰って来てな?」

「絶対帰って来る! お前こそ覚えてろよ? 約束やからな!」

「あ……」
ミズホが、片目を瞑って兵衛を指差した。
「うつった」

「……」

「兵衛さんも、恥ずかしそうな顔する事、あんねんな」

「……うるせぇ」

誤魔化すようにガツガツと鮎に食らいつく兵衛を、ミズホはクスクスと笑って眺めていた。

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