陸奥兵衛の章 大塩平八郎の乱編 6

shibaigoya

第六話 修羅と般若

大塩の屋敷に行けば、早速肉体労働が待っていた。

まずは中庭にある池の埋め立て。
兵衛の他に近隣の村から四十人近く体力自慢の男たちが集まっていたのだが、それでも何日も掛った。

「お疲れさん」
休憩している兵衛の隣に座った青年は、弓削村の百姓西村利三郎。
利三郎は大百姓らしいがそれを鼻にかけたりせず人当たりが良く、一緒にこの土木作業をして、兵衛を始め他の労働者にも話掛けたりしている。
畑仕事で体を鍛えられていると自負しているだけあって、なかなか体格も良い。

「さすがの卯兵衛さんも、汗かくんやね」

「当たり前だ」

「でも疲れてなさそうやけど」

「苦痛を顔に出しては、戦う時は不利になるからな」

「何と戦っとるんや」

「……己と」

「ふーん」

利三郎はやかんから茶を飲むと、兵衛にも渡した。
兵衛は息をするのも忘れたかのように、喉を鳴らして飲みほした。

「先月の大井さんとの試合、見させてもろたんやけどな……ありゃすごいな。スカッとしたわ」

「そうか?」

「えーと、陸奥圓明流、弧月だっけ? 大井さんがぶつぶつ言ってたわ。いつか破るって」

「無理だな。万が一弧月を破った所で、次の技を食らうだけだ」

「へぇ、あの技の先にも技があるんか。オレにも教えてくれん?」

「無理だ。生まれた時からの修練があって、初めて可能な技だからな」

「オレだって、結構腕っ節には自信あんやけどなぁ……。まぁええわ。卯兵衛さんに、一度礼を言わなと思ってな。
大井さんは、結構いい所の出らしいけどかなりの荒らくれもんでなぁ。ここに来たのも親族から素行の悪さで厄介払い同然に放り込まれたんや。
大井さんの家はそれでええかもしれんけどなぁ……それの相手をさせられるこっちは大変やで。
で、この前の試合で日雇い百姓のお前さんに負けたのが相当応えたらしくってな、ずーっと道場に籠って剣振っとるんよ。
前みたいに威張り散らす事ものうなって、ええ薬になったわ」

「ふーん……」

「卯兵衛さん、ホンマは何者なんや?」

「ただの日本一強い男だよ」

「……そんな奴がなんでこんな所で池埋めとんねん」

「米と女が欲しいから」

「前もそんな事言うとったねぇ……。ミズホさんだっけ?」

「知ってるのか?」

「柏岡さんが後添い貰う時、祝いに般若寺村行ってな。見かけた事あんねん。
あの人、まだ嫁に行ってなかったんやなぁ……」

「オレが貰うけどな」

「はいはい、ごちそうさん」

そしてまた号令が掛って、二人は埋め立て作業に戻った。

埋め立て作業が終われば、今度は大塩と共に、大量の本を担いで売りに行く。
そんな日々が五日続いた。

* * *

天保八年二月六日早朝。

兵衛は連日の過酷な労働で泥のように眠っていたのだが……号令で起こされた。
いつもなら、もうちょっと寝ていられるのに何事か――と考える暇も無く、大きな窯を担がされた。

「……どこに行くんだ?」

「本町や」

町の名前で言われても、兵衛には土地勘がないのでピンと来ない。とりあえず列について行く。
皆大荷物を抱えてるが、やはり窯を一人で担いでいるのは、兵衛だけだった。

暫く歩いていると、やがて大きな屋敷が立ち並ぶ町にやって来た。

「卯兵衛は、ソレをこっちに置け」

言われた屋敷の庭に来ると、庭に大きなカマドがしつらえてあった。
その上に置くと、待ってましたとばかりに大量の米が投入されていく。

「米が……こんなに沢山……」
思わず立ちすくみ、ぼうっとしていると、米を運ぶ奥様方に「邪魔や」と押しのけられた。避ければ、また別の御婦人に「邪魔や」と押される。
そうやってようやく邪魔にならない場所を見つけて、大窯で行われる炊き出しの様子を見ていた。すると――。

「あら、おはようございます。卯兵衛さん」
たすきにほっかむり姿のミネが、庭に作られた水場で米を研いでいた。背中には赤ん坊が眠っている。

「……お前もかりだされてたのか」

「嫁ですから、こんな時は一番働かないとあきまへん」

「大変だな、武家の嫁は」

「百姓の嫁よりかは、マシですよ」
そう言って研いだ米を近づいて来た女に渡し、また新たに研ぎ始める。
春先とはいえ、早朝だ。手が真っ赤になっている。

「……代わろうか?」

「米研ぎなんか、男の仕事やなかですよ」

「でも、お前の手が……」

「こんなん慣れですよ。むしろ慣れてない卯兵衛さんがやったら、とたんに手があかんようになってまいますよ」

「……そうか」

「それに、もうこれで終わりですから」
その言葉と共に、近づいて来た女に米を渡し、前掛けで濡れた手を拭いた。
「あとは、焚き上がるのを待つだけやね。それまで休憩や」
そして、焚き火の近くにある庭の石に腰かけ、おんぶ紐を外し、赤ん坊を抱き直した。
兵衛も特にやる事がなさそうなので、隣に座り、カマドの周りに立てられるノボリを眺めていた。

「さぁて、何人来るんやろね……大変そうやわぁ」

これが、大塩の言っていた炊き出し施行か、と思い当たる。

「大丈夫なのか? どっと押し寄せて、あっと言う間に食いつくされてしまうんじゃないか?」

「ああ、それなら大丈夫ですよ。あらかじめ近隣の村や町に引き換えの札を配布しとるんです。その札を持っている人やないと分けまへん」

「しかし……札がないのに無理にやってきたらどうすんだ?」

「その時は、卯兵衛さんの出番ですよ」

「ああ、なるほど」

庭は、祭りの準備のような活気で溢れていた。
日本中、飯がなく元気のない様子ばかり見て来た兵衛にとって新鮮に映る。悪くない風景だ。

「……般若寺村にも、札が配られました」
ミネがコソっと耳打ちする。
「来るみたいですよ、ミズホさん」

「本当か!?」

目を輝かす兵衛を見て、クスクスと笑った。

「……ホンマに好いとんのですね、ミズホさんの事」

「でなければ欲しがるかよ」
照れ隠しのように頭を掻いた。

「……羨ましい」
ミネのその呟きは小さすぎて、兵衛には聞こえなかったらしい。「ん?」と聞き返すとミネは薄く笑って答えた。

「前に、言うてらしたでしょ? 命を分けて貰ろたから、なんでもするって。どう言う意味ですの?」

「どうって、そのままの意味だ。腹が減って動けなくなっていた所を、飯をもらったんだ」

「それだけ?」

「ああ」

「……じゃぁ、私も……私もあなたに餅をあげました」

「あれは子守の報酬だろ?」

「では、今……握り飯でもお作りしましょうか。お米が余ってますし……」

一瞬、眉間に皺を寄せた兵衛から、ミネは目を逸らした。

「……知っているとは思うが、ミズホはお前と違って裕福ではない」

「……はい」

「自分一人で食うはずだった食料を、オレに分けてくれたんだ。
余り物ではない。自分の命を繋ぐ糧だったのに、迷うことなく差し出した。
余っている者が足りない者に差しだすのとは、わけが違う」

「そうですね。すみません、変な事言うてもうて……」

「……夫に不満でもあるのか?」

「不満なんて!」
ミネは口を塞いで辺りを見渡した。幸い周囲はガヤガヤと煩く、誰も庭の片隅にいる二人を気に止める者はいない。
赤ん坊はすこしムズムズと動いたが、すぐにまた寝始めた。

「……格之助様は素晴らしい方です。優しくて、真面目で……。百姓の娘やからと陰口を叩かれた私を、守って下さったりします。
私、お嫁に行ったのが、格之助様の所で、ホンマよかったと思うておりました。でも……
格之助様は……自身が大塩平八郎の実の子ではない事を悔やんでおります。
弓太郎が産まれた時も……自分の血が繋がった息子の誕生を喜ぶよりも……大塩平八郎の血を自分が繋げない事を嘆くのです」

「……それはお前のせいではないだろう」

「はい。ですが格之助様は……大塩平八郎の血と弓太郎の血を、繋げました」

「……どう言う意味だ?」
言葉とともに、赤ん坊を見ると――小さな手に包帯が巻かれていた。

「まだ首も座っていない赤子に、武士の子として命を賭けさせようとしとります。大塩家は――」
ミネの目は深く虚ろで、朝日に照らされても輝く事はなかった。
「修羅道に堕ちました」

そして兵衛を振り返り、いつものようにニッコリと笑った。
まるで今までの話をしたのは別の人間だとでも言うように。

「私は大塩家の嫁です。私だけ助かろうなどと、おこがましい事でしたわ。忘れて下さい」

「しかし――」
何があったのかは知らない。だが目の前にいる女が助けを求めているのなら助けたい。
それは情のあるなしに関係は無い。

女が嘆いていると――幼い頃、夜中に垣間見た母の涙を思い出すから――。

「……忘れて下さい」

気丈な女というのは扱いにくい。それは産まれた時から解っている。
扱いにくいが――望んでいるものは、とても解りやすい。

「解った忘れる。しかし……もし何かあった時、オレの目の届くところに弓太郎がいたら、守ってやる」

ミネが目を見開いた。

「だから、何かくれ」

「私が持っとるもの……全部」

ゆっくりと、目が細くなり……笑う。

「この子に乳を与えて来ますね」

ミネの後ろ姿に、遠い昔――約束も交わしてやれなかった女を、ふと思い出した。

* * *

日も高くなってきた頃。

兵衛は一体どこにこんな多くの人間が居たのだろうと思っていた。
大阪中――いや、もしかしたら日本中から集まってきてるんじゃないのか? そんな気までしていた。

並んでいる者は、老若男女問わずボロを纏っていた。やせ細っているが、目だけはキラキラと輝かせ、行儀よく並んでいる。
しかし次から次に溢れてくる人は庭に入り切らず、とうとう兵衛も隅っこに立っているのも「邪魔や」と言われるようになってしまった。

――ミズホは来ているんだろうか。

邪魔にならなそうな所に移動しつつ、キョロキョロと列を探す。すると――

「……兵衛さ~~~~ん!」

呼んだのは――。

「卯兵衛さぁ~~~ん!!」

末次郎・幾代蔵・龍太郎の三人組だった。

眉間に皺を寄せて振り返ると、三人揃って腹に頭突きする勢いで飛びついて来たが、どうにか踏ん張って耐えた。

「お前らこんな所で何してるんだ」

「お手伝いです!」

「ならオレに構わず手伝ってろよ」

「今やってる所です!」
「卯兵衛さんが暇そうにしているので、遊んであげろと言われました!」

――ちくしょう、押しつけやがって。

「というわけで、遊びましょう!」

「遊び……」
と、いってもこの人ごみでは、そんなウロチョロさせるわけにもいかないし、普通の子供がする遊びも知らない。

「……何をするんだ?」
聞いてみた。
今は特にする事もなさそうだし、子供に慣れておこうかと思ったからだ。

「じゃぁ、鬼ごっこ!」
「ダメだ」

「チャンバラ!」
「断る」

「すもう!」
「却下。この人ごみの中では無理だろ。普通に考えろ」

「じゃー……なにしようか……」
「うーん……」
「うーん……」

三人が揃って一丁前に腕組みをして眉間に皺を寄せている。仕草だけで本当に考えているのか怪しいものだ。
しかし兵衛も同じ仕草と表情をしている事に、兵衛だけは気づいていなかった。

「あー!」
末次郎が何かを思いついたらしい。

「影踏みー!」
「あー、こんだけ人がいれば、影いっぱいあるもんねー!」
「だーかーら、人ごみの中でウロチョロするような遊びはだめだ!」
早くも心が折れそうだ。

ブッと息が吹き出す音が、どこからともなく聞こえた。
周りの人が……老若男女、武家町人、身分年齢に関係なく、顔を逸らして肩を震わせている。

天を見上げ、心底誰かの助けが欲しいと、空高く上った太陽に産まれて初めて祈った。

「兵衛さーん!」

……一瞬幻かと思った。人を掻きわけて、手を振りながら近づいてくるミズホがいた。
多分、川で助けた時のミズホもこんな気分だったに違いない。

――神様とやら恩に着る。今度から真面目にお参りに行こう。

「兵衛さん、色々な意味で目立っとるから見つけやすいわぁ」

「……色々って?」

兵衛の疑問には答えずに、ミズホは三人組に目線を合わせるためにしゃがんだ。

「兵衛さんと遊んでくれとったんねー、おおきにな」

三人は照れてもじもじしていた。
「あの……どちらさまですか?」

「ああ、ウチは般若寺村のミズホちゅうて――」

「オレの女房だ」

「……子供相手に何対抗しとんの」
肘で腹をつつかれた。
「それにまだ夫婦やあらへん」

そしてまた三人に向き直る。
「お坊ちゃん方は、大塩先生のお弟子さんなん?」

三人は、ピンと手を伸ばし、気をつけの姿勢を取る。
全身に力が入り過ぎて固まってしまっていたが、元気に返事をする。

「そうです!」
「この炊き出しのお手伝いしているんです!」

「あらあら、じゃぁこのオジちゃんと遊んでてええの?」

「オジ……?」
兵衛の呟きは誰の耳にも届いていなかったらしい。

「卯兵衛さんと遊ぶのが、今の仕事なんです!」

「あー、そうなんやぁ」
ニイっと笑い、兵衛を見上げて来た。……なんとなく、目を逸らした。

「でも、こんな人が多かったら遊びづらいやろ?」
「……はい」
「ぼくたちが、こういう遊びしようって誘っても、卯兵衛さんダメダメばっかりなんです」
「そっかー。そりゃつまらんなぁ」

――オレが悪いのかよ

「じゃぁ、お姉ちゃんが知っとる遊び、しようか」

――自分はお姉ちゃんかよ

「どんなのですかー?」

「三人は仲良しさんなんやろ?」

「はい!」

「なら、どんだけ仲良しさんか、試しちゃる」

真ん中にいた末次郎の手を取り、両手の掌の上にそこらへんに落ちていた石を置いた。
そして、それを包むように幾代蔵と龍太郎にそれぞれ手を握らせた。

「今から、絶対石を落としたらあかんよ?」

「はーい!」
ぎゅっと三人が手を繋ぐ。

「んで、お姉ちゃんたちも、同じように握ってる」
ミズホが石を真ん中にして手を握って来たので、指と指の間に、自分の指を絡めた。
一瞬、びっくりしたようにコチラを向いたが、また三人組に向き直って続けた。

「先に石を落としたら、負けやで」

「はーい」

「そんでな……自分の足の間から空を見てみぃ」

三人組が一斉に前屈した。

「だんだん、空に落ちそうなるやろ?」

「ほんとだー!」

「こわーい!」

ふと、小さい頃の同じ体験を思い出した。
もっとも兵衛は前屈ではなく、逆立ちだったのだが。
逆さに映る空と大地。天へと落ちる感覚――。

「ほれほれ。しっかり手を繋いでないと、落ちてまうでー」
ミズホがそう言いながら、三人の腰のあたりを指でツンツンとつつく。その度に、三人はきゃぁきゃぁ言いながら、手をしっかり握り合っていた。

しばらくからかって、三人がこの遊びに夢中になっている事が解ると、ミズホは兵衛の手を引いて少し離れた庭の石に腰かけた。

「可愛ええねぇ……」

「……そうか?」

「兵衛さんが、あん位の頃、どんな子やったんやろ」

「……よく怪我してたな。骨折なんてしょっちゅうだ」

「やんちゃやったんねぇ」

その言葉を聞き、兵衛に緊張が走った。
「いや……修練だ」

多分……自分はミズホが思っているような人間ではない。

「あら、やっぱりどこかで修行してはったんやね。凄い力やもんねぇ……どこの道場なん? やっぱりお江戸?」

「いや……オレの家に代々伝わる――一子相伝の――人殺しの技だ」

「え……」

「オレの子が産まれたら……人殺しの技と業を、受け継がせなくてはならない」

「どうして……?」

「どんな武器にも、技にも負けない最強の人間であるために……遠い昔に、人の道を捨てた修羅の一族だ」

無意識に手の力を抜き、繋いだ手を離そうとしていた。
石がこぼれ落ち――る前に、ミズホが握り返した。

「嘘や」

「本当だ。現にオレは人を――」

「人の道を捨てた男に……女が惚れると思うか? 抱かれてもいいなんて言うと思うか?」
真っすぐに、兵衛を見た。
「あんたが思うとるほどウチは弱ないで」

その視線が痛くて、目を逸らした。
だが、ミズホは痛いぐらいに手を握った。手の平の柔らかい部分に石が食いこむ。
兵衛が痛いと思うのだ。ミズホだって痛いに違いない。だが、ミズホは力を緩めなかった。

「あんたが修羅なら、ウチは般若や」
ミズホの笑顔の下には、自分を捨てた男への恨みと怒り、嫉妬で渦巻く般若の面が隠れている……。
最近まで、捨てられた頃の様子を夢にまで見ていて……でも――最後に見たのは――兵衛が来る前だ。

「せやから、あんたが修羅だろうと、鬼だろうと、天狗だろうと、怖ないねん。それとも……般若じゃ不足か?」

兵衛は天を見上げた。

幼い頃、さかさまに見て、落ちると恐れた空。
陸奥を継いだ日、母と見上げた、青い空。

そして、初めての女と別れた日、一人で見上げた、紅い空。

「不足など――」

――この女なら、きっと――

「寸毫もない」

――共に堕ちてくれる。

手の平の石ごと、ミズホの手を強く握りしめた。

「あー!」
三人組の悲鳴が聞こえた。

「どないしたの!?」
ミズホが慌てて声をかける。

「石落としちゃった……」
「だって末次郎が、ぎゅって握るから、石が痛いんだもん」
「幾代蔵が、怖がってたから……」

しょんぼりする三人組に、ミズホが笑いかける。
「そかー。残念やな~。仲良しさん勝負はお姉ちゃん達の勝ちや」
ニイっと笑い、握りあった手の間からコロリと石を落とした。

「次は、負けません!」
「石が無かったら、絶対勝ってたもんね!」

フグのように頬を膨らませ、本気で悔しがる三人組を見て、兵衛もプッと吹き出した。

――ああ、子供が可愛いっていうのは、こういう時か。

「兵衛さん……」
ミズホが握っている手と反対側の手で、くいくいと袖を引っ張った。

視線の方向が、何やら騒がしい。

「許可は取っているのか?!」

「ああ、この屋敷の持ち主には全員許可を得ておるわ」

大塩平八郎と、役人が言い争っていた。

「ちゃうわ! ちゃんと城を通しているのかと聞いておるんや!」

「何を言うか。本来は城でやらにゃいかん事を、わしがやっとるんや! 咎められる謂われはあらへんやろ!?」

「こんなに人を集めて……何を企んでおるんや」

「企む……? ほざけ! この旗の文字が読めんか!?」

大塩が指差した旗に書かれた文字……『救民』

「わしは、目の前で困っている民を救いたいだけや! お前らには見えんのか!? 飢えで細って、子に乳もやれん女が! ただ死を待つだけの老人が!
こいつらが助けを求めた時……お前ら役人はどうしたんや!? 江戸に献上する米を増やしたい言うて、己らの見栄の為に追い払ったやろうが!」

「あのままでは暴動が起きていた!」

「お前らが蔵に溜めこんでる米を、ひと握りでも与えれば……暴動など起きん!」

「そんな事したら、キリないわ!!」
役人は、侮蔑を込めた目で、炊き出しに並んだ民たちを見渡した。

「こいつらに、そんな事してみろ。とたんに蔵がからっぽになってまうわ。米が欲しいなら、汗水流して働けばええやろ」

「働いて米を増やしたら……お前らが、その分増税したんやろが」

「大塩……こんな事をしても、こいつらは侍やない。義理も恩も感じひん……」
役人はニイと笑って、背を向けた。
「一刻だけ待ってやる。それまでに退散させんと、残った奴全員逮捕すんねんな」

大塩は、役人が去ると一同を振り返り、吼えた。

「……各々方、聞いたか!? これが役人や! あんなんが上に居る限り……お前らは飢える一方や! 今の日本では、誰一人救えんのや!
あんだけ言われて悔しないか!? 悔しかったら……今日の米の味を……忘れてくれるな」

細い目の奥にいる鬼の正体が――見えた。

それは遙か昔……六百年前、奥州の鬼神と呼ばれた陸奥が、心優しき大将に垣間見た鬼。
あるいは三百年前、雨を呼ぶ龍神と称された陸奥が、尾張の大うつけに垣間見た鬼。

男をたたかいへと誘う鬼――魁。

ゆっくりと――兵衛の中の修羅がその咆哮に応えようとした時――。
ミズホがぐっと腕を掴んだ。

「あの人が、大塩平八郎なん?」

「ああ……」

ミズホの顔――それは、ミズホの姉が兵衛を見る目とよく似ていた。やはり姉妹だ。

――やっぱり笑った顔のほうが、いい。

「頭のええ人は、何を言うてるのか、ようわからんわ」
大塩の言葉が響かないのは、ミズホが女だからというわけではないだろう。
現に周囲の民たちは……女も男も、皆大塩の言葉に心酔し、身を震わせている。
だが……修羅である兵衛を恐れないと言ったミズホが、恐怖に震えていた。

「兵衛さん。絶対に、帰って来てや」

「ああ」

――だから、お前は笑って待っててくれ。その為ならば――

「どさくさに紛れて、ケツ触るなや!」

脇腹痛みぐらい、どうって事はない。

* * *

炊き出しから引き上げる途中、河合八十次郎と、吉見英太郎は、ともに一つの大窯を運んでいた。
前方には一人で大窯を担ぐ兵衛と、その後ろをチョコマカとついていく三人組。

「……すっかり、卯兵衛さんに取られたな」

「まぁ、ウザったかったから、ちょうどええわ」
フン、と虚勢を張っている英太郎が面白かったので、笑った。

「……そう言えば、八十次郎さん。お父上から連絡はあったんですか?」

八十次郎は、静かに首を横に振った。
「かれこれ一ヶ月も連絡があらへん。便りがないのが元気の証拠とはいうけどな……せめてどこに行ったのかぐらい知らせてくれんかのう」

そして、父が旅立つ前に言った言葉を思い出す。

――大塩先生がこれから何をするのか、よう見とるんやで。それでお前が判断しろ。

あれは、どういう意味だったのだろうか……。

そして同じ頃――。
集まった民たちを先導して帰らせていた吉見英太郎の父、九右衛門は、同じく帰らせる作業を終えた平山助次郎という門下生に声をかけた。
二人は同じ東町奉行所の同心で、同僚でもある。

「吉見さん、お疲れさんです」

「ああ」

なんとなく上の空の吉見を訝しんでいると、吉見が重々しく口を開いた。

「……お前、今回の大塩先生の言い分、どう思う?」

「どうって……」

「うちらは武士や。古来より君主の為に戦って、命をかけるのが仕事や。でも百姓や町人は……ちゃうんやないか?」

「え……?」

ザァっと音を立てて、風が吹き始めた。

* * *

炊き出し施行の数日後。

般若寺村で、ミズホは一人で朝食を取っていた。

「いっただっきまーす」
一人でも明るく振る舞うのは、そうしてないと心の中の般若に負けてしまいそうになるから。
そう思って無理やり声を出していた。――いままでは。

ミズホの横には、兵衛の刀。そして壁には世界地図。

こうしていれば、いつでも兵衛の事を思い出せる。然と、声も明るくなるのだ。

――兵衛さん、今頃なにしてはるんやろ……。

子供たちと仲良くしているだろうか。人の分まで食ってないだろうか。……まさか、町の女にチョッカイ出したりしてないだろうか……。

――ま、そん時は……
チラリと、兵衛の刀を見た。
――コレで、ちょん切ったる。

丁度その頃、大塩の屋敷内を忙しそうに歩きまわる女中の尻を無意識に目で追っていた兵衛が、朝の空気のせいかヒヤっとしたものを下腹部に感じて蹲った。
そんな事はミズホが知る由も無い。

食べ終わり、いつものように仕事を貰いに柏岡の屋敷へ向かう。
すると――。

「ミズホさん。お久しぶりです」

「あらっ、おミネちゃん! えろう久しぶりやなぁ!」
大塩家に嫁いだはずの、般若寺村の庄屋の娘ミネが、赤ん坊を抱いて歩いていた。

「どうしたん? ……まさか、離縁された!?」

「ミズホさんと一緒にせんといて下さい」

「アホッ、うちは破談は何回もされとるが、離縁された事はないわ!」
こんな台詞、せめて胸を張って言わないとやりきれない。
「で、何しとんの?」

「大塩の家は最近忙しそうやさかい。乳飲み子がおるには少々都合が悪ぅなって来たんで、しばらく実家でゆっくりさせて頂こうかと」
そう言って視線を落とし、赤ん坊を抱きしめた。

「ねぇ、ウチにも抱かせてもろていい?」

「ええ……どうぞ」

しばらく「可愛ええねぇ」と言ってあやしていたミズホだが……。
「どうしたん? この傷」
左の掌に切り傷を見つけた。

「……この前、不注意で怪我してしまって……刃物を握ってしまったんですよ」

「え? ハイハイもでけへんのに、どうやって――」
思わず赤ん坊から目線をあげて、ミネを見た。
一瞬その目が、ドス黒く濁った気がして――追及が出来なかった。
きっと百姓の自分では、計り知れない事情があるのだろう。

ミネが愛想笑いすると、その目が隠れた。
ミズホの恐怖が赤ん坊にも伝わったのか、突然泣きだした。

「あぁ、ごめんなぁ。やっぱお母ちゃんの抱っこがええよな?」
誤魔化すようにあやしながら、ミネへと返す。
「そうだ、おミネちゃん。……その、兵衛さんは……どうなん?」

「兵衛?」

「えっ? あ……。そや、卯兵衛って呼ばれてるんやったね」

「ああ、卯兵衛さん」

「うん……。何か言うてへんかった?」

ミズホがえへへと笑う。
その笑顔が能天気すぎるように見えて、少し意地悪してもバチは当たらないと思った。

「別に何も」

「何もかい!!」

実際はミネが般若寺村へ向かう時、兵衛に何か言付はないかと尋ねたのだが……。
『別に何も』
『ええんですか? ミズホさんに伝えたい事とかないですか?』
『そりゃあるさ。でもオレが戻ったら直接言えばいい事だ』

――絶対教えてあげまへん。

ションボリと柏岡の屋敷に向かうミズホの背中に、ミネはチロリと舌を出した。

* * *

兵衛が井戸で顔を洗っていると、大塩平八郎が廊下を歩いているのが見えたので呼びとめた。

「なんや」

「……本当に米を貰えるんだろうな」

先日の炊き出しで、全ての米を使ったはずだ。この家にはもう米はない。
だが大塩は「大丈夫や」とニイっと笑った。

「柏岡の三倍の米を貰えるんだろ? そんな米、どこにあるんだ」

大塩が「あそこや」と指差した先は――大阪城の天守が見えた。

「……城?」

「刻が来たら……あそこへ攻める」

「本気か?」

「大砲を何に使うかと、聞いたやろ? その刻の為や」

「……何の為に?」

「民の為や。あそこにおる奴は、みんな自分の保身しか考えん腐った奴らや。
あんなんが上にいる限り……何も変わらん。変えるには戦わんとあかん。
世界地図を前にして話しただろう? 亜米利加ちゅう国」

「ああ」

「あそこはな、流れ者が王になっちょる」

「……は?」

「民が投票で決めた人間が王になる。今は流れ者があんなデカイ国を治めておるんや。
……今頃は、また投票の時期やからな、また別の者やろうな。農民の息子か、商人の息子か……」

「どういう事だよ」

「あと仏蘭西。あそこは五十年も前に、民たちが決起して城に攻め込んで、王を引きずり降ろしたんや。んで投票で決めた人間を王に据えた。
英吉利だってそうや。あそこに王はおるが政をしておるのは百年も前から王やない。やっぱり投票で決まった人間や。
世界ではもう王を決めるのは血やのうて……民衆なんや」

「ふーん。で……あんたは、民衆の王になるつもりなのかよ。その為に炊き出しをしたのか?」

「民の救済の為や。他に理由はあらへん」
大塩の細い目が――大阪城を睨んだ。

「せやけど、わしが王になれば……もっと民を救えるかもなぁ。お前さんにだって食いきれんぐらいの米を支払う事もできるんやで」

「オレは、あまり政はわからんが……お前に協力しないと米を貰えんのか?」

「柏岡の命で、わしに使われてんやろ? せやから柏岡との約束の米と女も貰えんぞ」

「それは困るな」

本当はこんな約束など守る必要はないのだ。
柏岡の屋敷からここまで運んだ米を、一掴み失敬してミズホを連れて行く事だってできた。その機会は何度もあった。

それでも、そうしなかったのは、大塩の中に住んでいるモノの正体を知りたかったから。
そして正体を知った今……兵衛は大塩から離れられなかった。

大塩の中の獣の咆哮が――修羅の血を呼び起こそうとしていた。
否――もう既に、起きていた。

「で、その刻はいつなんだ?」

「十九日。奉行所に腐った奴が二人揃う。そいつらの首と一緒に、あの城へ直訴文を投げ込むんや。
それで城が蔵を解放するなら、そんでええ。……だが、それでも閉ざしたままならば――」
この血を滾らせる事ができるなら、喜んで戦火を飲みこもう。

春の風が嵐となって吹き荒れる刻――日本に日没が訪れる。

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