おまけ

shibaigoya

夜明け

 兵衛が実家に戻ると、葉月が仁王立ちで待ちかまえていた。

「あたしは米を持ってこいと言ったよな?」

「……はい」
兵衛は土間で正座し下を向いていた。

「お前が持ってきたのは、米じゃなくて、嫁だ!!」

「あら、お義母さん、上手い上手ーい!」

ニコニコと拍手するミズホだが、葉月に睨まれて隣の兵衛と同じようにしゅんと小さくなって下を向いた。

「米はどうした! 米は!」

「途中まではあったんだ」

「じゃぁ、どうしてなくなったんだ?」

「……分けたり、……食べたり」

「で、あたしの分が無く

くなったのか」

「気がついたら、無くなってて……」

「……美味しかったのか?」

「最高だった」

「馬鹿息子が」

普段は堂々とキリっとしている夫が小さくなっているのが居たたまれなくなって、ミズホは思わず口を挟んだ。

「まぁまぁお義母さん、ウチの名前、ミズホといいますねん」

「それがどうした」

「水穂……つまりウチ、お米ですわ!」

「お前を食えるのは、兵衛だけだ!」

「あらやだ、お義母さんったら……」

「この米は道中で独り占めで食った」

「兵衛さんも何言うてはるの!?」

「……美味しかったのか?」

「最高だ」

「馬鹿息子が! えぇい、もう一度米を持って来ぉい!」

兵衛を家の外に蹴り飛ばし、ピシャリと戸を閉めた。

「あ……あの……」
残されたミズホが、おずおずと葉月に話しかける。

「ウチも……出て行った方がええですか……?」

「ん? ここにおればいいだろ。お前がおれば、あの馬鹿息子もフラフラ道草食わずに真っすぐ帰って来るだろ」

「ここに居てええんですか?」

「そんな土間なんかに居るな。上がれ。さぁ、陸奥の嫁は厳しいぞ! 徹底的にしごいてやるからな! まずはその気取った上方言葉を直してもらう」

「はい。認めて貰えるよう、がんばります!」

「認めてもらうって……何を言ってるんだお前は」

「え?」

「あたしが全てを賭けて育て上げた男だぞ? 兵衛は。その兵衛が選んだ女だ。修羅の嫁、修羅の母となるのに、不足は寸毫も無かろうよ」

「お……お母様ぁああああ!」

大げさなまでに目を潤ませて、抱きつこうとしたミズホを葉月はひょいと避けた。

「さて、夕飯でも作ってもらおうかのう。天下の台所、大阪の味がどんなものか楽しみじゃ」

「はいっ」

数日後、米俵を抱えて戻って来た兵衛が見たのは、腹を抱えて笑い合う二人だった。

「それで兵衛の小さい頃はな~」
「兵衛さんが大阪に居た時に~」

暫く二人で笑っていて兵衛が帰って来た事にさえ気づかなかった。

――母者が二人になった気がする……。

なんとなく、早く男が産まれてほしいと思った兵衛だった。
これで第一子が女だったりしたら、きっと恐ろしい事になる。

* * *

大塩平八郎の起こした風が全国に吹き荒れる。
大塩の言葉は武士階級に不満を持つ百姓や町人たちの手によって全国へと伝えられ、民を奮い立たせた。

そして――ついに朝廷が、全国の神社に豊作祈願の祈祷をするように命じた。
加えて幕府がその費用を捻出するように命じ、幕府はそれに応じた。
それは江戸の世が始まる時、幕府によって奪われた朝廷の権威が戻る兆しだった。

くすぶっていた火種が導火線を辿るように、民たちの武士に対する不信感が徐々に高まり――爆発する。

* * *

江戸の試衛館という道場に一心不乱に木刀を振る少年が居た。

「おいおい、刀で畑は耕せねぇぞー」

武士の子たちが、遠巻きに指差して笑っている。

「笑いたきゃ笑え。でもオレは――侍になる」

「農民が侍になれっかよぉ!」

「なる! 生まれに関係なく侍になれる世を作る! お前らみたいな武士の魂を忘れた武士に、この日本を任せられんわ!」

「でかい口叩きやがって!」

「口がでかいのは、生まれつきだ!」

少年が固めた握りこぶしを振り挙げた。
思わず腰を抜かした武士の子たちを睨みながら、その拳を口に入れ、噛みしめた。

* * *

白む空の下に広がる海。
朝靄の向こうに、巨大な船影が見える。

「……向こうの船はすごいなぁ」

白髪混じりの髪をポリポリと掻きながら、男は隣に座る少年をチラリと見た。
最近は生意気な事も言い始めたが、大きな目をキラキラとさせて船を眺めている様子は幼い頃と何も変わらない。

「どうだ、アレに勝てると思うか?」

「勝負したいのは船とじゃないよ……アレに乗って行く先にいる奴らだ」

男は息子の言葉にニイっと笑った。

こいつが見ているのは、目の前にあるモノではない――この海の遙か先にある、世界だ。名前に込めた思いの通りに育ってくれた。

「どうやって乗るつもりだ?」

「うーん……まず、船長の用心棒にでもしてもらうかなぁ……」

「奪うんじゃないのかよ」

「だって船を操縦する奴が必要だろ?」

ちゃっかりしてるのは母親譲りだろうか。

「その為には陸奥を継がんとな、出海」

「わかってるよ」

不貞腐れるようにプイとそっぽ向く。
その仕草が自分の妻に似ていたので、男は息子の頭に手を置き、抵抗するのも構わずグシャグシャと撫でた。

「いい加減、子供扱いすんのやめろよ、馬鹿親父!!」

同じ頃――岸壁に立つ青年が居た。

「ちゃちゃちゃ……すごいぜよ。黒船かぁ……あれが一つでええから、わしのもんにならんかのぅ」

海の霧が晴れてきて、黒い船体が露わになる。
海の下で目を覚まそうとしているらしい太陽の腕が、天へと伸び始めた。

夜明けまで、あと少し。
明治元年まで、あと十五年。

日本で初めて、全ての民で選んだ政治家が現れる百年前の出来事。

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