名もなき空 2

shibaigoya

ある夜、一人の男が京都を歩いていた。
ゴワゴワとした髪を無理やり縛りつけ、裾のすぼまった変わった袴をはき、腰に鍔の無い刀を差していた。

陸奥圓明流継承者、陸奥出海である。
彼は逞しい腕で上機嫌に腹を叩き「満腹、満腹」などと楽しそうに呟いている。
今夜は、上賀茂神社の祭だったのだ。祭も終わり、人通りも少なくなった橋の上をペタペタとはだしで歩いていた。
そしてふと足を止め、月を見上げ、先ほど聞いた噂を思い出した。

――月夜の晩に、橋の上にモノノケが出る。

「もしかして、武蔵坊弁慶でも蘇ってんのかねぇ」
誰に言うでもないようだが――独り言にしては声が大きい。

「でもまぁ、オレの先祖は、その弁慶に勝ったらしいぜ……いや、牛若丸にだったかな? ……どうだったっけ?」
まるで友にでも語りかけるように振り返る。その先には――背の高い人影があった。

「悪いが、この刀は一応家宝なんでね。記念に渡すって事はできないんだ」

人影は答えず、澄んだよく通る声で問いかけた。

「……おんしは、尊王か? 幕臣か?」
「どっちでもないねぇ」
「攘夷か? 開国か?」
「興味ない。でもまぁ、開国すりゃぁ海の向こうから強い奴が来てくれるっつーんなら、悪くねぇかもな」

突然真上から刀が降って来た。
出海の上機嫌な顔が、一瞬引っ込んで、後方へ飛びのくと、人影が橋に突き立った刀を抜こうとしてるのが見える。

「おいおい、いきなり危ねぇな」
「オレの刀を避けたんは……おんしが初めてじゃ」
「そうかい。でも確かに、普通の人間じゃぁ、避けられなかったんだろうなぁ」

人影が刀を引き抜くと、構えた。しかし――道場で習った剣術ならば、絶対にこんな構え方はさせないだろう。
腕を横に伸ばし、刃の切っ先が向こうを向いている。一体次にどんな攻撃が来るのか見当もつかなかった。

「……一応、聞いておこうか?」
「土井鉄蔵」
「いや……オレが襲われる理由だよ」
「尊王攘夷やないから」
「は?」

次の瞬間、土井鉄蔵と名乗った男が間合いを詰めて来た。

――上体が低い……足、かな?

上に避ける為に身構えた――が、次の瞬間、鉄蔵が視界から消えた。

――上!?

ただでさえ、背の高い男が自分の身長ほど飛び上がり、真上から真下へ振り下ろす。
その迫力は、隼が獲物を捕らえるようにも見えた。
とっさに体制を変えて、横へと逃げたが、肩に刃が掠めた。
しかし鉄蔵は勢いを止めず、着地の姿勢から立ちあがりつつ足を回して蹴って来た。
続いて、その回転を利用しての、刀。

――どこの、流派だよ!? って、オレも似たようなモンだな
出海はニィと笑って、踏み込んだ。
――似たような技は……オレも使う!
回し蹴りの後、軸足を使っての回し蹴り

鉄蔵は飛びのき、それを避けた。お互い息も乱れてはいない。

改めてお互いの顔を見る。そして……出海はぞっとした。

数年前、江戸で何人か内に鬼を飼う男を見た。
試衛館の沖田総司、土方歳三……そして、千葉道場の坂本龍馬。

だが、この男は――違う。これは、江戸の鬼を前にしたものとは種類が違う。
この男は、鬼を飼っていない。というか――何も、無い。

虚無。

意志も無く空っぽのまま、ただ目の前の人間を殺す為に動く。――自動傀儡。

そしてその目。
一度見たら、そらす事はできなかった。
全てを吸い込み、無限へと落とされる――恐怖。

出海は己より強いかもしれぬというツワモノと、何十代も掛けて戦ってきた一族だ。だから解る。
ただの人間か――獣や鬼を住まわせているモノか――。
この男はどちらでもない。

正体不明の……子供の頃怯えた、暗がりのような、恐怖。

『馬鹿だなぁ、出海。怖かったら取りあえず殴ってみろ。拳が当たればそこに何かいるんだ。怖がることない』
『当たんなかったら?』
『そこには何もいないんだ。怖がることはない』

「おおおお!」
恐怖を振り払うかのように、叫び、拳を突き出す。
鉄蔵は避けたが、間髪いれず二重の回し蹴り――旋を叩きこむ。
それもしゃがんで避けられた。そして刀を払う……が、それを返した足の踵で落とす。
鉄蔵はとっさに刀を離し、腕で顔面を防ごうとした――が、それよりも速く拳は鉄蔵を吹き飛ばした。

* * *

――同刻、江戸。とある料亭にて、坂本龍馬、勝海舟会食。

「勝先生、京都はどうじゃった? 襲われんかったかのう?」
「あぁ実は夜中、三人の男に襲われたよ」
「あちゃ~」
「しかし……岡田君が助けてくれたよ。一瞬で一人を叩き斬って、一喝。他の二人は逃げてった」
「……ほうか。襲ったのは……どこのどいつじゃろうな」
「さぁな、俺もそういう詮索はややこしゅうて好かんよ。所で龍さん。何で俺に岡田君を紹介したんだ?」
「岡田が、何かしましたかいのう?」
「いや……あの男は、人殺しに躊躇しなかったんだよ。
何も殺さんでもいいものを、積極的に殺そうとしてるように見えてな。
あれではまるで、目の前の人間を殺すように作られたカラクリ人形だよ。
それに話掛けても、人の話を聞いているのかいないのか解らん。それどころか、そこに居るのか居ないのかも解らん。
確かに腕が立つが……不安になってくるよ」
龍馬は海舟の杯に酒を足した。

「岡田は……雲一つない空なんです。でも、この日本のどこかに……海みたいな男がおるき。海は空に雲を作る」
「また、よく解らない例え話をするね」
「わしは馬鹿じゃき。先生が話すように解りやすい例えはできん。堪忍してくだされ。
とにかく、このままじゃ岡田が可哀そうじゃと思うて、雲一つない空に雲を浮かべてやりたくなったんじゃ」
「……つまり、その”海みたいな男”と”空みたいな岡田君”を会わせたくなった、ということか?」
「はは、流石先生、話が早い。その海みたいな男は、強い男を探しちょります。
岡田以蔵が先生の用心棒をしたと噂が広まれば、きっとその男が岡田の前に現れるんじゃなかろかと思ったんじゃ」

* * *

――再び、京都。

出海は感触を確かめるように、鉄蔵を殴った手を何度も握ったり開いたりした。
――よかった、拳が当たった。
まさか二十歳を過ぎてから、コレを試す事になろうとは思いもしなかった。
気を取り直し、横になったままの鉄蔵に声を掛けた。

「なぁ、あんたに聞きたいんだけど……岡田以蔵って男を探してるんだ、知らないか?」
鉄蔵は動かない。「おい」と呼びかけても返事もしない。
「まさか……あれだけで死んだわけじゃねぇだろ?」
出海は、恐る恐る近づき、その脈を取ろうと手を伸ばした。
「!!」

突然跳ね起きた鉄蔵は出海の首を絞めた。気道が押しつぶされ、空気が絞り出される。
出海は顔を歪め、どうにか腕を動かした。トン、と鉄蔵の胸に拳を当てた次の瞬間、再び鉄蔵は手を離し、膝をついた。
崩れた襟から見えた胸元に、拳の形の窪みができていた。

「もう、動くなよ? お前は怖すぎる。次は手加減できそうにない」
鉄蔵は出海を睨みつける。
手傷を負わせた人間は、その目を恐怖で見開くか、獣の様な目でなお隙を隠そうとするかのどちらかだった。
しかしこの男は、どちらでもない。ただ、痛みに耐えながら、空っぽの目で出海を見ていた。
出海は、また背中がぞくっと竦んだが、それを顔には出さずに、問いかけた。

「……鉄蔵っつったっけな。何処の流派だ。まさか、不破ってわけ、ないよな?」
「ふわ? ほがな知らん。一応道場にゃ行ちょったが、我流じゃ」
「なるほどな」
「おんしこそ、見た事ない技じゃ……どこのモンじゃ」
「陸奥圓明流……」
「むつ……」
鉄蔵は何かを考えはじめ、そして「あー!」っと叫んだ。
「そしたら、おんしが出海かぁ!!」
「……陸奥圓明流を知ってる奴はチラホラいたが……名前まで知られてるのかよ。派手な事はやってないはずなんだがなぁ……」
「……と、いうと坂本さんと同じ?
じゃぁ開国論者で、けんど坂本さんは幕臣の勝と一緒で……でも坂本さんは幕臣じゃないし、それにあの頃は土佐勤王党におっちょった……。
でもこいつどっちでも無いっちゅうし、けんど開国論者? 坂本さんは尊王開国。でも昔は尊王攘夷……」
「お、おいどうした? 何をブツブツ言ってるんだ? それは日本語か?」
「オレも何語か、よう解らん」
「何がどうなってるんだ、お前は」
「自分でも解らん」
「まぁ、いいけどさ……。で、さっきも言ったけど、岡田以蔵を探してるんだが……」
「それは、オレじゃ」
「あ?」
「あ……しまった。土井鉄蔵って名乗ってるんじゃった」
「お前どうなってんだ、本当に」
「やはり、生かしてはおけんな」
「へ?」

突然、鉄蔵――もとい岡田以蔵が立ちあがった。
出海はとっさに身構えた次の瞬間――突然以蔵が倒れた。

「……へ?」
どうやら、出海の放った虎砲はかなり効いていたらしい。倒れる直前まで、それが表情に表れていなかったのだ。
「……本当に、なんなんだよもう……」

出海は夜空を見上げてため息をついた。ぽっかり浮かんだ雲が月を覆っていた。
「あーあ、お月さんが笠かぶってら」
海が空に作った雲は、やがて雨を呼ぶ――。

* * *

翌日、目を覚ました以蔵は、目の前に見えるのが天井だと気づくのに暫くかかった。遠くでは雨の音が聞こえる。

「気がついたかよ、“鉄蔵”」
視線を少し動かすと、出海が見えた。起き上がろうとした以蔵を、布団の上から手を置いて制した。
「……ここは善意で床を貸してくれた、じいさんの家だ。大立ち回りには向かないぜ“鉄蔵”」
「出海さん、お連れさんは起きましたか」
奥から、いかにも人のよさそうな老人がニコニコと出て来た。
「あぁ。じいさん、ありがとな」
「ええって、こんな年寄りしかおらん家に、若いもんがおるってだけでありがたい。……まるで息子たちが帰って来たようじゃ」
服の袖で涙を拭った老人は、またニコニコしながら言った。
「待ってな鉄蔵さん。じじいの作った握り飯でよかったら食べておくれ。……ばあさんが生きとったら、もっとええもん食わせられたんじゃが……」
「十分だって、じいさん」
出海は、老人が部屋を出てったのを確認して、呟くように説明した。

「じいさんは、息子が二人いたらしい。だけど――二か月前、二人とも辻斬りに遭った……らしい。
京都ってのはもっとのんびりした所だと思ってたけど、物騒だよな」
以蔵は何も答えなかった。

「なぁ、あんたに聞きたい事がいくつかある。何故オレの名前を知っていた?」
「……坂本龍馬」
「何?」

「坂本さんとオレは同郷じゃき。色々世話になっちゅう。自慢げに言い回っちょったわ。わしには凄い友達がおるって」
「なるほど、龍さんか……参ったぜ」
とは言いつつもまんざらでもなさそうだった。

「じゃぁ、次。なんでお前は偽名をつかって、あそこであんな真似をしてたんだ?」
「それは……」
以蔵の脳裏に、あの日の武市の顔が蘇った。
『岡田以蔵』『武市半平太』『土佐勤王党』の名は、死んでも出すなと。

「そ、尊王攘夷のため、じゃき……」
以蔵の中では、これだけ言うのが精いっぱいだった。
「その、尊王攘夷ってのはなんだい? 最近よく聞くけど、オレは馬鹿だからあまり解んねえんだ」
「それはな、侍が本来仕えるのは、藩でも幕府でもなく、天皇って事じゃ!
んでメリケンどもはこの日本を乗っ取ろうとしちゅう、悪もんなんじゃ! 悪もんから天皇を守るのが、土佐き――」
「……ん?」
「……そ、尊王攘夷じゃ!!」

「そうかよ。立派なもんだな」
「なら、おんしも尊王攘夷の同志に……」
「興味ねえな」
「……おんしも勝や坂本さんと同じ、開国派かよ」
「オレはどれでもねぇよ。ただ強い奴と仕合いたい大馬鹿だから」
「嘘じゃ! 今の世、思想も持たずに生きていけるわけなかろう!」
「生きるのに必要なのは思想じゃねぇよ」
「何じゃ!?」
「美味い飯だ!」
もの凄い大真面目な顔で言い切る出海に、珍しく饒舌だった以蔵の口が止まった。

「……おんしは、馬鹿じゃのう」
「先にそう言ってる」
「おんし程の腕……何故世の中に役立てようとせんのじゃ」
「なら逆に聞くが、何故世の中に役立てようとするんだ?」
「それは……」
後が続かなかった。

何故、自分は尊王攘夷の為に、土佐勤王党の為に、武市半平太の為に剣を振るおうとした?

『おまんは本当に阿呆じゃ。刀ばっかふりまわしとらんで、少しは勉強せえ』
父親にそう言われ、半ば放り込まれるように入れられた塾に武市はいた。
『おまんは本当に阿呆じゃ。わしの言っちゅう事、半分も解っちょらんな。
……だが腕は立つ。そこは認める。この道場にはもうおまんに敵う奴はおらん
どうじゃ? わしと一緒に江戸に行かんか? 江戸に行けば、おまんの相手になる奴もいるじゃろう』

武市は自分の剣術を認めてくれた。それが嬉しかった。
だから江戸について行った。しかし……江戸にも強い奴はいなかった。いや、いたかもしれないが、以蔵は出会ってなかった。

『まったく。吉田東洋先生は頭の固い老人じゃ。このままじゃ土佐は悪くなる一方じゃ』
そう、だから――。自分を認めてくれた人の為に……。その人の望みを、夢を、叶える為に――。

「恩人の、為……」
「……そうかよ。『世の中の役に立つ』とか、『恩人の為』とか言う割にゃぁ、なんか荒々しい太刀筋だったな。
もっとこんな所じゃない、高い所に行きたい。そんな感じだったんだがなぁ……」

確かに――坂本龍馬が『岡田以蔵を貸してくれ』と来た時、武市以外にも自分を認めてくれる人がいると思えて嬉しかった。
しかも有名人の用心棒だ。もっと多くの人に認めて貰えるかもしれない。そう思った。そう願った。
――それが……間違いじゃったんかのう。

武市に対する恩も感謝も忘れたわけじゃない。ただ……もっと名を上げたい。
この単純な願いが、何故その恩に仇なすことになるのか。

「じゃぁさ、尊王攘夷に傾倒してる“岡田以蔵”は、なんで勝の護衛なんかやってたんだろうねぇ」
「……え?」
「いや、だって勝は佐幕開国だろ? 尊王攘夷とは正反対。
首を取るならいざ知らず、護衛なんてするわけない。馬鹿でもそれぐらい解る」

沈黙が雨の音で満たされて行く。雨音に混じって廊下を歩く足音が聞こえた。
足音の主が障子をあけると、大量の握り飯が積まれたお盆を持った家主の老人だった。

「出海さんは、ぎょうさん食べはるから……鉄蔵さんも同じぐらい食べはると思うて、ぎょうさん作ってきましたよ」
ニコニコ顔で握り飯とお茶を出海と以蔵に握らせた。
「遠慮せずに食べて下さいよ」
「いただきまーす」
出海は見てて気持ちいいぐらいの早さで握り飯を平らげて行く。
「ほら、鉄蔵さん。早く食べないと出海さんに全部食べられてしまいますよ?」

以蔵はおそるおそる握り飯に口をつけた。もしかしたら、この老人の息子を斬ったのは自分かもしれない。
ゆっくりと噛みしめ、喉を鳴らして飲み込んだ。
「ん、どうした鉄蔵。傷が痛むのかよ」
出海は米粒を頬にくっつけて、両手に握り飯を掴みながら不思議そうに以蔵を見た。
空っぽの底なし孔のような目から、とめどなく涙が溢れているが、以蔵はそれを拭おうともしなかった。

「……陸奥。オレと……また仕合ってくれ」
「晴れたらな。それから、お前が名を明かせるようになったら」
「え?」
「当たり前だろ。オレは陸奥として名を賭けて戦うんだ。それなのに相手が偽名だったり、名無しだったりしたら意味ないだろ。だからそれまで約束もしないぜ」

雨音が沈黙を深めた。
今は梅雨。晴れるのにはしばらくかかりそうだった。

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