がしゅら 2

shibaigoya

その後、何故か時太郎の部屋の掃除を手伝わされて、そのまま一泊し、翌朝、出羽へ帰る事にした。

「陸奥さん、あの鬼は消されちゃったけど……今度来たら、もっといい絵を描いてやるよ!」

「ま、いつ来るかわんないけどな」

「だから懐に隠してるその絵は返してよ」

「ばれたか」

そう言って別れて――二十年近い年月が過ぎた。

 

***

 

「江戸見物ぅ……」
伊勢の海部屋から帰る途中、葉月が不満そうに、頬を膨らませて抗議する。
相変わらず江戸は人が一杯いて、そんな所歩くのだってめんどくせぇのに……その上行列並んでまで寺見たり団子食ったり……考えるだけでめんどくせぇ。

「……フン。親父殿なんてもう知らん! 一人で行く!」
葉月が駆けだした。追いかけるのもめんどくせぇ。どうせ角を曲がった先にある、まんじゅう屋の前で止まるだろう。
そう思って特に足も早めずに歩いて行くと……。

「や……やだ! 離せ!!」
葉月の叫び声が聞こえた。
でも、葉月には一応圓明流の技を仕込んでいる。いざとなった自力でなんとかなる。
そう思って特に足も早めずに歩いた。

「そう言わないでさ……ちょっとだけおじさんと一緒に来てよ、ね? ほら、美味しそうなお菓子だろぉ?」
「離せと言っておるだろ!」
うん、我が娘ながら完璧な雷だ。……威力は無いが。

「……お嬢ちゃん」
投げ飛ばされた男が、ぬっと腕を葉月に手を伸ばす。
その手がやけに黒く汚れていた。
「今の技……! 誰に習ったの!?」
「嫌ぁ! なんか汚い~~~!!」

「オレにだよ、時太郎」
顔を上げた時太郎は、相変わらず、この世の全てを見つくしてやろうってぐらいにギョロっとしていた。

 

***

 

時太郎に連れられて、近くの蕎麦屋に入った。
なじみの店なのか、席に着いた途端、そばが三つ出て来た。

「へぇ~、陸奥さんの娘かぁ、可愛いね。陸奥さんに似てないし」
「どういう意味だコラ」

時太郎はもう三十五のはずだ。それなのに落ち着いたどころか、ますます世間から浮いた格好をしていた。
ボサボサの頭。墨で汚れてるのは、もはや手だけではなく、顔や足まで真っ黒い。おまけに服も……。
ボロボロの服をまとった姿は、その日暮らしの左近と比べても清潔には見えない。
……まぁ、左近の服は少しでも汚れたりほつれたりしたら、すぐ葉月が洗ったり直したりしているからなのだが。

「お前の方こそどうなんだよ」
「居るよ。カミさんも子供も」
その割には、生活感がない。
「……いや。居た、か」

――もしかしたら、こいつも……
左近と同じように、妻に先立たれ……

「居た、けどまた居る」
「……どういう事だ?」
「カミさんに愛想尽かされちゃってさ~、子供三人、全員連れて出てった。っていうか、オレが追い出された。
んで今二人目。今のカミさんとも三人子供いる」
「……あたしが産まれた時ぐらいの親父殿の年なのに、六人も……?」
吃驚している葉月が面白いのか時太郎はニヤニヤと笑った。
「あぁ、なんせオレの絵から、豊作と子宝の神様が出て来た事もあっからな、御利益があったんだろう」
「えー? 本当に?」
左近はなんとなく殴りたくなったので、そのニヤニヤ顔にデコピンしてやった。

「で、なんでまた葉月に声かけてたんだ。三人目の嫁にってんなら、まだやらんぞ」
「オレは年増が好みなんでね、今の葉月ちゃんじゃまだ若すぎるよ。それに今のカミさんとも上手くやってるし。
まぁ、葉月ちゃんがお嫁にして欲しいってんなら仕方ないけど」
「絶対嫌!」
「つれねぇなぁ。まぁ冗談はさておき、実は絵の被写体を探してたんだよ」
「葉月を、絵に?」
思い出したのは、自分の絵を描かせてくれと言われた時のあの騒動。
「断る」
「なんで親父殿が断るんだ?」
葉月はキョトンとしていたが、左近が何を考えたか思い当たった時太郎はカラカラと笑った。
「大丈夫! 今回はちゃんと服着てていいんだ! 実はな、今、絵を頼まれてて……」

時太郎が頼まれたのは呉服屋の宣伝の絵で、母と女児が綺麗な服を着て窓辺に座ってる、というものらしい。

「別嬪な女は見つけたんだが、まだ夫もいないみたいでな……だから子供を探してたんだ」
「ふーん……どうだ、葉月」
「え?」
いきなり話を振られて、葉月は戸惑っているようだが――
「葉月ちゃん。綺麗なべべ、着たくない?」
「……でも……」

葉月はぎゅっと、自分の服を握りしめた。亡き母が縫ってくれたこの服が一番好きなのは変わりない。だが、ここで綺麗な服を着たいと言うと、母に失礼な気がして躊躇っているのだ。そんな葛藤を、察したのか左近は葉月の頭にポンと手を置いた。

「そんな事で、お前の母親は拗ねたりしねぇよ」
「うん……。着てみたい……綺麗な服」
「そっか、じゃぁ早速行くぞ!」

時太郎は素早く葉月の腕を引っ張った。葉月は炭だらけの腕に顔を顰めてはいるが、抵抗もせず引っ張られて行く。
左近は、めんどうだから此処で待っていようかと思ったが、葉月と時太郎に呼ばれ、渋々立ち上がり、後を追った。

 

***

 

赤い着物を着て、髪も結った葉月を見て、左近は「七五三みてぇだな」と笑った。
葉月はふくれたが、時太郎が「お姫様みたいだねぇ」と褒めるとまんざらでも無さそうに口元が緩んだ。

しかし、絵に描かれるというのはどうすればいいのか解らない。突っ立ったままの葉月を呼ぶ女の声が聞こえた。
「葉月ちゃんだっけ? ほらこっちにおいで」

女は目元が少し葉月に似ていた。
なるほど、親子というには女は若いし、葉月も大きいが、年の離れた姉妹ぐらいには見える。
あとは時太郎の想像力と腕しだい。

「緊張しなくてもいいよ。あのオジサン、目ん玉ギョロギョロしてこっち見てるけど、気にしないで。さ、こっちで双六でもしようか」

女は慣れているのか、緊張する葉月を上手くあやして遊んでやっていた。
そして葉月も段々と自然に笑うようになった。

時太郎は息をしているのかどうかも解らないほど、二人の様子を見ている。
だが手元には何もない。

「……描かないのか?」
「描いてるさ、頭ん中で」
頭の中の白紙に、何度も線を引いては消し、引いては消し、納得のいく構図を探す。
そして、背景、表情、服の皺、指の動き……それを焼きつけて行く。

「紙が無駄になんなくていいよ」
それは、自分が相撲や剣術道場を覗いて、頭の中で仕合ってみるのと同じ事なんだろう、と左近は理解した。

葉月が双六で上がったらしい。嬉しそうに両手を上げた時、時太郎も「描けた!」と嬉しそうに笑った。

女はそんな時太郎を見てクスリと笑う。その顔が妙に優しげだった。
――まさか、こいつに気があんのか、あの女。
女の考えは左近には良く解らなかった。

「あ、そうだ陸奥さん。オレん家寄ってってよ」
時太郎の突然の申し出に、いの一番に浮かんだ言葉は――

「めんどくせぇ、とか言わないでよ? 前に言ったろ? 今度会うまでに、絵を描いてやるって」

 

***

 

葉月の着替えが終わって、連れられるまま時太郎の家に来てしまった。

「陸奥圓明流ってのは、一子相伝なんだろ? それに役に立つよーなもんだ!」
ニヤニヤと笑いながら、玄関を開け、「おーい」と呼びかけると、中から女と三人の子供が出て来た。

――なんだってまぁ、こんな男にこんな若くて美人が……
やっぱり女の考えは、左近には解らない。

「あら、珍しい。お知り合い?」
「あぁ、言った事があるだろう? 陸奥さんだ!」
「まぁ、作り話じゃなかったの!?」

一体どんな話をしたんだと思ったが、聞くのもめんどくさかった。

「んで、ホラあの絵! 陸奥さんに渡すって言ってたあの絵、出してくれ!」
「ありません」
「……は?」
キッパリと言う妻に、時太郎は「何でだ!!」と怒鳴った。
左近の知っている時太郎からは想像できない剣幕だったのだが、妻は慣れているのか、淡々と続けた。

「私のせいじゃありませんよ。あなたの管理が杜撰なんですよ。
そんな大事な物なら、箱か筒にしまっておけば良かったんです。
前の前の前の家ぐらいでは見かけましたけどね、今の家にはもうありません!
引越しのゴタゴタで捨てたか、誰かが持ってったんでしょうよ」
「マジかよー。あー……最高傑作だったのに……陸奥さんスマン! もう一度描く!
あと五年くれ。そしたらもっと良いの描いて、待ってるから!」
「また来るの、めんどくせぇよ」
「じゃぁ、あたしが取りに来る! その頃にはあたしが圓明流継承者だからな!」
「だめだ。陸奥さんじゃなきゃ」

ピシャリと言ったのは、時太郎だった。

「なんでだ? その絵は、圓明流の継承に関係するんだろ? だったらあたしにだって……」
「女には、ダメだ」
時太郎が真剣な顔で言った言葉。それは葉月が散々言われた言葉だ。
「なんで時太郎まで、そんな事を言う……。あたしだって陸奥の子だ……親父殿の子だ!」
そう言い捨てて、葉月は駆けだした。
「葉月ちゃん!」
あっという間に人ごみの中に入って見えなくなった。
「……ごめんよ、陸奥さん。怒らしちまったみてぇだ」
「いいんだ。アイツ誰に似たのか短気なんだ。すぐ怒るが、怒っても長続きしねぇ。
どうせこの先の団子屋の前で立ち止まってるだろうよ」
「そうかい。じゃぁ、陸奥さんまたな。絵、期待しててよ」
「ああ」

 

***

 

葉月はやはり、団子屋の前で、焼き上がって行く団子をじっと見ていた。
「葉月、行くぞ」
「うん……」
いつもは左近の前をちょこまかと小走りで走るのに、何故か今はトボトボと後ろをついて来る。
そんなに団子が欲しかったのか? と単純に考えてた左近だが、葉月がぽつりと呟いた言葉は違った。
「親父殿は、新しい女房が、欲しいか?」
「あ?」
「……時太郎は、新しい女房を貰っていた。仲良さそうにしていた……男も産まれてる」
「時太郎は前の嫁さんと離縁したから貰ったんだ。オレは離縁したわけじゃねぇ。それにあいつがまだ生きてたとしても、もう一度子作りなんてめんどくせぇ。オレの子はお前だけで十分だ」
「親父殿……」
「お前一人でもめんどくせぇのに、これ以上増えたらゾッとする」
「な、なんだと!」
いつも通りのふくれっ面で尻を蹴ってくる葉月を見て、やっぱりめんどくせぇなと思う左近だった。

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