陸奥天兵の章 園部秀雄編 2

shibaigoya

明治二年三月。東北の村に、少女が生まれた。
名付けられた名は――たりた。

「また女かよ……」
父親が呟いたのも、ある意味無理はない。この日下家には、すでに七人の子がいたが、うち女が五人もいたのだから。
女はもう沢山、もう足りた。そういう意味で祖母につけられた。

でも、そう名付けられた少女の胸の内はどうだったろう。

栗毛の馬が野原を駆ける。その上に馬具もなく跨っているのは十歳ほどの少女。
「見ろ。まぁた日下さんとこの、たりただよ……」
まるで男児……否、男児以上のやんちゃっぷりは、すっかり村の日常風景だった。

たりたが野原を一周して帰ってきた時、妹が迎えに来ているのが見えた。

「どうした、あや?」

ちなみに妹の名の由来は、また女を産んだ母が“あやまった”からだ。

「父ちゃんが、もうすぐ帰ってくるよ」
「いけね……もうそんな時間か。急いで馬を返さにゃ……あや、うしろにお乗り」
「うん!」

一旦降りて、妹の尻を押し上げ乗せると、たりたはヒョイと飛び乗り、馬の腹を蹴って走りだした。
しかし、その走り方は、先ほどまでのただ速く走るものではなく、後ろの妹が振り落とされないように、なるべく揺れないように上手く馬を操っていた。

「お姉ちゃんのお馬はいい子だね」
「そうか?」
「うん! 他の男の子のお馬はすぐ暴れるもん! あたし、怖いからすぐ降りるんだ」

――もう男の操る馬に乗った事あるのかよ……。

自分とは違い、無茶なヤンチャをしない妹が村の少年たちの人気が高いのは知っていたが……。

「でも、お姉ちゃんのお馬は怖くないから、だーいすきー!」

今のところ、余計な心配はしなくても大丈夫そうだ。

――でもまぁ変な事しそうな奴は、ボッコボコにするけどね。

たりたが妹を可愛がるのは歳が近いからのもあるが……名付けられた由来が似てるせいもあったのかもしれない。
女に生まれたから、こんな名前をつけられた。

家へと戻ると、厩へと回る。
するとそこに、血相を変えた母の姿があった。

「たりた……また馬を勝手に持ちだしたね」

「うん」

「お願いだから、もう少し女らしくしとくれよ」

「なんで?」

「だって、お前は女なんだよ? いくら男の真似事したって……」

「……女はもういらないから、こんな名前つけたくせに」

「たりた……」

「あや、おいで」

妹が馬から降りるのを受け止め、そのまま母を振り返らずに妹の手を引いて家へと向かった。

* * *

家に入ると、すぐさま父に呼ばれた。そして唐突に奉公に出される事を告げられた。
その理由やら心構えやらを長々と説かれたが、要は口減らしだ。
女の内職で得られる収入など、たかが知れているが、その内職ですら得意でない男勝りのたりたを、これ以上家に置いておけないのだ。

――女でなければ……。

父や兄たちを手伝う事もできただろう。チマチマと縫い物をするより兄たちのする仕事の方が楽しそうだった。
だが女だから男の仕事をさせてくれない。それは奉公先でも同じだった。

任される仕事は子守。子守自体は、たりたも妹のあやで経験している。
だが、まだ幼く料理も掃除も不得意なたりたは、毎日毎日背中に赤子を縛りつけられ、一銭の小遣いと共に外に放り出されるだけなのだ。

子供を背負ったままでは、遊びまわることもままならない。
神社の境内に座り、小遣いで買った飴を舐めながら、チャンバラごっこをする同年代の少年たちをぼうっと眺めていた。

――ふん、あんな面なんか食らっちゃってさ!

――そのくらい避けろよ

――あーあ、もうちょっと踏み込めば一本とれただろ!?

イライラとした感情が、顔にも現れてたのだろう。
ガキ大将の少年が、たりたに詰め寄った。

「なんだよ、さっきからブツクサ言いながら睨みやがって!」

「お前らがあんまりヘタクソだからさ」

「何ぃ!? 女のくせに、オレらより強いつもりなのかよ!」

「ああ、実際強いと思うぜ?」

「女のくせに男みたいな言葉使いやがって! そこまで言うなら勝負だ!」

と、木刀を差し出したので、ニイと笑ってそれを受け取った。
しかしその途端、赤子が火がついたように泣き出した。耳元で泣き叫ばれれば、さすがに無視はできない。

「あー、もうなんだ? しっこか!?」

慌てて降ろし、おしめを確認すれば、案の定べっちょりと催していた。
たりたはガキ大将を振り返り「ちょっと待ってろ」と言った。

「すぐ、おしめ替えるからそれから正々堂々勝ぶ――」

たりたの言葉は、少年たちの笑い声で掻き消された。

「女なんだから、そうやってずーっと子守してろよ」
そう言って笑いながら神社の階段を駆け降りていく。

「……なんだよ……」

誰もいなくなった境内に、赤ん坊の泣き声が酷く耳障りに聞こえた。

「なんで、だよ……」

勝手に溢れてくる涙を拭いながら、汚れたおしめを洗う。

「なんでオレ……こんな事してんだよぉ……」

おしめを洗う自分が、急に情けなくなった。
だが泣いている理由はそれだけではない事は、自分でも分かっている。

家族から離れ、遠い地でたった一人きり。
自分を構ってくれる者は誰もいない。

その寂しさを――たりたは女に生まれたせいにした。
膨らみ始める胸のせいにした。

何故、自分は女なのだ。男に生まれていれば、こんな惨めで寂しい思いはしなかったのに。
そんな禅問答のような事を思い、何度も反復させているとチクチクと胃が痛んできた。

初めは数秒じっとしてれば収まった。
だが今日もまた子守だと思うと、次第に布団から出ようとする度に痛くなり、ついには布団から起き上がれなくなって、療養として暇を出された。
つまりクビだ。

しかし療養といっても戻されるのは貧しい実家。
一人増えれば食い扶持が減る。だからそこそこ回復すれば、また奉公に出される事になった。

十三歳となったたりたが奉公先の旅館でやる事は、客に出す料理を作ること。客がいなければ野良仕事だ。
それでも、あの子守奉公の頃と比べればマシに思えた。
料理を作る時は女将さんや板前さんが教えてくれる。野良仕事に出れば周りの人達との会話だってできた。
そして同じ年頃の女中仲間と寝食を共にする。誰かが常にそばにいて、少なくとも寂しい気持ちは紛れていた。

だが二年後のある日。無意識に女である事に目を反らしていたたりたに、反らす事ができない事実が起きた。
女将や他の女中たちに「おめでとう」と言われながら、汚れた下帯を一人で洗っていると――あの子守の奉公で、赤ん坊のおしめを洗った時と重なった。
あのガキ大将の声が、まるですぐそこにいるかのように、すぐ近くで聞こえた。

『女なんだから、ずーっとそうしてろよ!』

喉がゴツゴツと痛んできたが、唇を噛んで声が漏れるのも耐えた。
溢れた涙を拳で握り、立ち上がると男の声が聞こえた。

「おい、たりた」

それは旅館の近くにある商家の、放蕩で有名なドラ息子。

「お前、やっぱ女だったんじゃねぇか」

「……だから、なんだよ」

「この後に及んで、まぁだ認めねぇのかよ」

じゃぁ認めさせてやるよ、とたりたの肩を掴んだ。
とっさに、近づいて来る顔を両手で押しのける。しかしすぐに両手首を捕らえられ、そのまま押し倒された。
体格の差、力の差。いくら男勝りと呼ばれても、純粋な力比べで本物の男に敵うはずはない。

「や!」

だが何度も男相手に喧嘩している。男の弱点など――幼少期から知っていた。

「め!」

上から押さえつける力は、横からの力に弱い。
だから、強い力で地面に押し付けられていた手首を……そのまま頭の上までずらした。

「ろ!」

すると男の重心が上半身ごと前方にずれるので、がら空きの下半身に細い膝を力の限り叩きこんだ。

「……よな」

横でのたうち回る男を冷ややかに睨みながら、たりたは立ち上がり、急いで距離を取る。
そして十分距離を取ってから振り返って、べーっと舌を出した。

「指一本でも触ってみろ……舌噛み切って殺してやる!」

「死んでやるじゃ……ないのかよ……」

男の呟きはか細すぎて、たりたの所までは届かなかったようだ。

* * *

「あら、どうなさいました? 加賀美さん」

「いえ……ちょっとヒュンとしただけです」

加賀美はペンの尻で額を掻いて、ふうと息を吐いた。
老婦人は眼鏡の奥の目を細め、ニコニコと人のよさそうな笑みをたたえたまま言った。

「この話も書きますか?」

「物語上、必要とあらば……ですけどね」

「あら何かご不満でも?」

「ドラマ性の問題ですよ。反撃できなかった方が物語の登場人物としては深みが増しますし、男に負けないよう武芸を志す動機として非常に解りやすい」

「アタクシには男の助平心を満たす挿話が欲しいとしか思えませんけど」

「エロティシズムと言って下さいよ」

「外来語はわかりません。明治生まれなもんでねぇ。あぁ……目がショボショボ……」

「こんな時ばかり老人ぶらないで下さい。それに私だって明治生まれです」

「エロティシズムか江戸に沈むか知りませんけど……そうやって、川島女史も物語の中で辱めたのかしら?」

加賀美の作品『男装の麗人』の中で、主人公の少女は養父に“恐ろしいこと”をされた。
それが原因で男のように短く髪を切り、生涯男装を貫く事に決めたのだ。

「辱められたのは、満里子という架空の少女です」

加賀美はペンを持ち直し、園部に向き直る。

「さ、続きをお願いします」

* * *

たりたは今日あった事を誰にも言わなかった。
言うのが恥ずかしかったのだ。男にされた行為が、ではなく自分が女として見られていた事が、だ。

女は要らないから、こんな名前をつけられたのに。
女は要らないから、こんな遠くに奉公に出された。
女だから捨てられた。女だからこんな思いをする。女だから――あんな事をされそうになったのだ。

男だったらよかったのに。
だけど体はどんどん女になって行く。

「痛ぇ……」

それは下腹部ではなく、胃の痛み。
痛みのせいで食事も睡眠もままならなくなった頃、また療養のために暇を出された。
またクビになったのだ。

しかし、今度は重症だった。
貧しい家では良くなるどころか、どんどん悪化し、とうとう骨と皮ばかりとなってしまった。
もうこの少女が幼い頃、馬に跨って走りまわっていたとは誰も思わないだろう。

医者は静かに首を横に振り、年は越せないかもしれないと告げた。

十一月某日。
妹のあやは、たりたを抱き起こすと、背骨の浮き出た青白い背中を湯で湿らせた手ぬぐいで丁寧に拭いた。

「お姉ちゃん、熱くない?」

「ああ、大丈夫……。丁度いい……。あったけぇよ……」

「そう」
あやは少し言いづらそうに口の中でモゴモゴと言ってから、続ける。

「お姉ちゃん、あのね……私、嫁に行くの」

「どこに?」

あやの告げた相手の名は幼なじみで、小さい頃、あやにチョッカイ出しては散々たりたに泣かされていた少年だった。

「そう……あやは女の子らしくて可愛いもんな……きっと大事にされるよ」

「でも、頼りないのよ」

「そうか?」

家に戻ったたりたが数年ぶりに会ったその少年は、幼い頃の鼻垂れ小僧の面影は今やすっかり潜め、逞しい百姓の青年となっていた。

「……お姉ちゃんが、一番かっこいいもん」

「あや……」

「お姉ちゃんの方が乗馬も上手いし、お姉ちゃんの方がチャンバラ強いもん!
お姉ちゃんの方が重い物持ちあげられるし、水切りだってお姉ちゃんの方が遠くに飛ばせるもん!」

「子供の頃、だろ?」

「今だってそうだよ! 元気になったお姉ちゃんなら……あいつなんか目じゃないよ!」

「無理だよ……だって……」

だって自分は女だから。
言いかけた言葉に気がついて愕然とした。
女だから男には敵わないと、いつからか認めていた事に気がついた。

それはいつからだろうか。

あの男にあっさり押し倒された時だろうか。
それとも自分が持ちあげられなかった水の入った桶を、旅館に泊まっていた青年に持ってもらった時だろうか。
それとも自分をからかった少年たちを追いかけて、追いつけなかった時だろうか。

チャプチャプと、妹が手ぬぐいを濡らす音がおしめを洗っていた時の水の音と重なった。

「お姉ちゃんより、かっこいい男なんかいないもん! だから……だから……」

手ぬぐいを持つ妹の手を、たりたはぐっと引いて、薄くなった胸に抱きしめた。

「だから……元気になってよお!!」

近所でも評判の美しい娘となった妹の体は、たりたの体の痛みも柔らかく温かく包み込む。
たりたの頬をツウっと流れた雫は、しがみつく妹の頭を撫でる手に垂れた。

「たりた……」

母の声が聞こえ、妹はたりたから離れた。
襖の開く音が聞こえたが、たりたは着物を直して振り返ろうとはしなかった。

「これを、お食べ」

これが何を指すのか確認もせず、「何食もべれないよ。胃が痛いんだ」と、ぶっきらぼうに答えた。

「でも食べないと……死んじゃうよ」

「死んだって別に構わないだろ?」

「なんでそんな事ばかり言うの、この子は!」

「じゃぁなんで、こんな名前つけたんだ! 女はもう要らないから、こんな名前つけたくせに!」

「ごめん……ごめんねぇ、たりた。母さんが弱いから、他の名前、つけてあげられなくて……」

母の涙声を聞きたくなくて、耳を塞いだ。
だけどそれだけで何も聞こえなくなるわけではなかった。

「でもねぇ……名前じゃないんだよ。
要らないのは、たりたじゃないんだ……。たりたは、要るんだよ!
母さんにも、祖母様にも、父様にも、兄様たちにも、姉様たちにも、あやにも、たりたは要るんだ!
女だからだとか、男だからだとか、そんな事じゃない……たりただから、要るんだよ!」

頬がぐしゃぐしゃになっても、鼻水が垂れてきても、耳を塞いだままのたりたの目の前に差し出されたのは、大きな餅だった。
全部で十もある。

「……今年、うちで取れた一番の米でつくった餅だ」

「そんな米どこに……」

「確かに、今年も収穫は少なかったよ。
兄様たちが一生懸命耕して、姉様たちが暑い日差しの中植えて、台風の中父様と母が必死に守って、秋にやっと刈り入れて……
そんな苦労しても、ほとんどお国に納めなきゃいけないから……これっぽっちしか作れなかったんだよ。
でもね、あやと祖母様がお前の為に作ったんだよ! お前に食わせるために皆で作ったんだ!
そんな餅を作らせたお前が……要らないわけないだろ!」

自分の家が、餅を作れるほど裕福ではない事ぐらい分かっている。おそらく、残った米を全て使ったのだろう。
頬を流れる雫は顎を通ってポタポタと垂れた。口からは嗚咽のような息遣いしか出ない。
しかし、たりたは震える手で餅を掴み、涙と泣声ごと頬張った。

そして、たりたは七個の餅を食べ、ぐっすりと眠ると、十日ほどで床から起き上がり、春には野原を駆けまわるまで回復した。

* * *

「……回復しちゃったんですか」

「でなければ、アナタの目の前に居るアタクシはなんだって言うんですか?」

困惑の表情をする加賀美を睨みつけ、園部はマグロの刺身を一切れ口に入れた。

「……胃痛なのに、よく七個も食べられましたね。しかもかなり大きかったんでしょう?」

「どうせ死ぬなら痛い痛いと言いながら死ぬより、美味い美味いって言いながら死んでみたいじゃない。……何? またドグラマグラ性がどうの?」

「ドラマ性です。……こんな話、現実味がなさすぎる」

「事実は小説より奇なり、でしょ?」

「……まあ、そうですね。でも現実に起こった話に現実味がないのは面白いですけど、現実じゃない話に現実味がないのは面白いとは限りません」

「アタクシの話は事実でしてよ?」

「私の書く話は小説です。どうせなら村の美青年でも出てきてロマンスの一つぐらいして、やっと女である自覚をするとか……」

「あー、アタクシは明治生まれだから、外来語には弱くてねぇ……。
ロマンスだかマロン酢だか知りませんけど、村の男は小さい頃に全員泣かしてやったんですよ。恐れられこそすれ、焦がれられる事などありませんよ」

「外来語、解ってるでしょ。実は」

「川島女史の話が話題になったのは……現実味のある“物語”だったから、って事かしら?」

法廷に証拠として提出され、なおかつ決定打となった程に。

「……私が書いたのは満里子という架空の女の話です。さぁ、続けましょう」

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