鬼産び ①

shibaigoya

序 なまけものの神様と、ちいさな巫女

出羽国のとある町はずれ。

雨の日の夜だった。
旅装束の男が、一晩の雨風を凌ぐ為、街道沿いの酒場に入った。
町のはずれにある酒場は人気はなく、自分の他には店主と女中が一人。
客が片手で数えるほど。

「すまんが、一晩雨宿りさせてくれ」

旅装束の男は席に着くと、早速酒を注文する。
出された酒をチビチビと飲みながら、店を見渡した。

客の入りに反してなかなか立派なつくりだ。
もっとも、客の入りが悪いのは今日は土砂降りの雨だから、というのもあるだろうが……。

「ごちそうさんよ」

一番奥に座って、飯を食っていた若い男……いや、まだ少年と言ってもいいだろう。
少年が立ち上がり、店の外へと向かっていく。

「お客さん、お代――」

女中が呼び止めようとしたのを店主が止めた。

「待て。ありゃぁきっと三吉さんだ」
「え? あぁ……」

三吉さん……? このあたりの有名人なのだろうか。
たしかに出で立ちは相当変わっていた。
襤褸同然の道着に、裾のすぼまった袴で裸足。
腰に鍔のない刀は差しているが武士という風情はなく、髷を結っていなかった。

「三吉さんってのは、どんな人なんだい?」

男の問いかけに、女中は笑って答えた。
「人っていうか、神様だす。山の上にある神社の」

店主もそれに付け足した。
「こっちゃ辺りに伝わる話で、山の上の神様がたまに若い男の姿で現れるんだす。
んでもって結構な量どご注文すんだども――お代は払わね。
けんど呼び止めねで一旦帰ってもらうンと、次の日の朝には、その何十倍もの薪や炭を置いてってくれるんだす」

「へー、よく来るのかい?」

「いんや、初めて見たです。オドもジッチャも見たって話は聞かん」

「……ならなんで三吉さんってわかるんだい?」

「この肌寒い土砂降りの雨の夜、傘も灯りもなぐ、あんな薄着で裸足だす。人がする格好じゃね」

「……なるほどねぇ」

あわよくば、自分も三吉さんとやらのフリをして、お代をチョロまかしてやろうかと思ったが、
一晩の酒代の為に、再び外に出てこの暗闇の悪路を颯爽と進むなんて命にかかわる。
全国津々浦々を旅を重ねた自分にも絶対に出来ない。いや、そんな自分だからこそ、その危険さが身にしみて解る。

「それに……あんな量を一人でぺロリと平らげた」

たしかに、あの少年が座っていた席に重ねられた丼や皿、茶碗の数は、
一人の人間の胃袋に収まるとは到底思えない。
もしかしたら、本当に神様だったのかもしれない。

「明日の朝が楽しみだすね」
「ああ、まったぐだ」

男も、翌朝どれほどの薪が入口置かれているのか少し楽しみにしていたのだが――
雨上がりの朝日はさえぎる物もなく、店を後にする男を出迎えた。

店主と女中の茫然とした顔をなるべく見ないようにそそくさと先を急ぐ。
今日中に山を越えて隣国へ向かおうと思ったのだが、その途中で足止めされた。

昨晩の土砂降りで崖が崩れ、道を塞いでいたのだ。
地元の大工や樵たちが退かそうとしていたが、ビクとも動かない。

「困ったねぇ。この辺りの生活もかかってるっつうのに……」

男も旅を進めるにはこの道を行くしかないので、泥や岩の運搬を手伝ったが、
一向に道が開ける気配もなく日が暮れていく。

「こりゃ、結構かかるかもしれね……下手したら、ふた月み月は……」
「冗談じゃね。雪さふってきちまうべ」
「……三吉さんに御頼みするしかね」

「三吉さん?」

また、三吉さんだ。

「ああ、この辺りの神様でな、言い伝えでは酒や食べ物を置いとぐと、一晩で道を作ってくれるって話もある」
「よし、じゃあ早速お供えすんべ!」

周辺の人々が次々に食べ物をお供えしていく。
旅装束の男は、ふと嫌な予感が過ったのだが、止めることまではせず、村人たちと一緒に三吉さんに向かって祈った。

そしてその日は村人の家に泊めてもらい、翌日再び崖崩れの現場までやってきた。

食糧が無くなっている以外は何も変わってなかった。

* * *

「三吉さんは、一体どうなってんだ!」
「メシ食うだけ食って、なんのご利益もね!」

三吉神社の神主は、憤る村人を宥めるのに必死だった。

「まぁまぁ、皆さん落ち着いて。三吉様も何かの考えがあっての事でしょう」

というか、何故素直に三吉さんのフリをする不届き者がいると考えないのだろうか。
神主は数カ月続く一連の事件の始めに一度そう言った事がある。

『神様の名を騙るなんて罰あたりな事、人がするわけねだろ!』

村人たちはとりつくしまもなく、神主に向かって「三吉さんに言っといてくれ!」と言うだけだった。

「やれやれ……三吉様に言えっつったってなぁ……」

神主が頭を抱えてため息をつくと、八つになった娘が寄ってきた。

「三吉様に言わないの? 本殿にいるじゃない」

「何度も言った。でも何も変わらんのだよ」

神主が娘に向き直ると、娘も姿勢を正し、こほんと咳払いをしてから言った。

「それは、父様が言う時は三吉様がいない時だから」

「……お前は三吉様がいるとか、いないとか、わかるのか?」

「もちろん。巫女だもの。父様は神主なのにわからないの?」

「……あぁ……父は神主失格かもしれん……」

神主が再び目線を落としため息をつくと、娘はこほんと咳払いをし、えへんと胸を張った。

「それじゃぁ私が代わりに言ってあげる! だから本殿の中にに入る許しを頂戴」

「それは……」

「ダメ?」

小首をかしげる娘につられて神主も首を傾けた。

「……三吉様がいる時に、父に教えてくれるっていうのはダメなのか?」

「多分ダメ。父様が入ったらいつも逃げて行くもの」

「え? 父は避けられてるのかい? 神主なのに?」

「お願い父様。許可だけ頂戴?
私なら小さいから、そーっと入れば気づかれないと思うの。そんで、ちゃんと捕まえてビシっと言ってあげる!」

「……三吉様は、猫か何かなのかい?」

「何を言ってるのよ。三吉様は鬼神でしょ?」

娘はコロコロと鈴が転がるような声で笑った。

* * *

神主の娘は、他の人には――たとえ母でも絶対に言わないという約束で本殿の中に入る許可を得た。
というより、まだ子供だから悪戯で入った――という事するという約束をした。
誰にもバレない限り父からはお咎めはしないらしい。

やはり神職者と神様以外が入ってはならない、という禁忌は曲げられないようだ。

娘は人目を掻い潜り、床下に潜り込み、目印のついた床板を探した。
『三吉様』がここから入り、出て行くのを何度も見ていた。実際自分が入るのは初めてだが。

音をたてないようにそっと持ち上げ、本殿の中を見渡した。

三吉様は――いた。
祭壇の前に大の字で仰向けで倒れ、眠っていた。

起こさないように、物音をたてないように、そっと這い上がると、ゆっくりと時間をかけて近づく。
そして、あと数歩という所までやってくると、娘は一度こほんと咳払いしてから勢いよく飛びあがり、男の腹の上に乗ってしがみついた。

「つかまえた!」

「……んあー?」

三吉様は十四、五歳の若者の姿をしていた。
襤褸同然の道着に足のすぼまった袴。汚れた裸足に鍔のない刀。

眠そうな目で娘を見て、めんどうくさそうに欠伸をして、再び夢の世界へ落ちようとして、目を大きく見開いた。
もっとも元々細い目をしているので、見開いたとしても普通の大きさになっただけなのだが。

「あなた、三吉様?」

「そういうお前は、座敷童か何かかよ?」

「違うわ。私は三吉様の巫女なのよ! 覚えておいてね」

「ん、んー、あぁ」

歯切れの悪い返事は、寝起きだからというわけでもないだろう。
娘を腹の上に乗せたまま上半身を起こすと、ひょいと持ち上げ、隣へ置くように座らせた。

「で、その巫女さんが何の御用で?」

「うん、あのね……」
こほんと咳払いして続けた。

「三吉様、そろそろお働きなさい!」

「……は?」

「氏子たちが困っています。食べ物をお供えしたのに、食べるだけ食べて何もしてくれない、と。
そろそろ、そのお力を示さないと、みな信仰と感謝の心を忘れてしまいます。
そして困るのは三吉様、あなた自身ですよ?」

「んー」

男はポリポリと頭を掻いて何も答えようとしなかったので、娘はずいと近づいて、小さな手で男の頬をペチリと挟み目線を合わせた。

「なぜ働かないのですか?」

「……めんどうくせぇ」

「あきれた! そんな神様聞いたことありません!」

「別に神様じゃねぇよ」

「じゃぁ何?」

男はにぃっと笑い、わざと怖がらせるように低い声で言った。

「鬼だ」

「うん、知ってる」

娘のケロリとした態度にいささか拍子抜けしたようだ。
娘は特に気にせず続ける。

「三吉様は鬼。それくらい知ってます!
でもこうして立派なお社にお住まいして、人々からの信仰を集めているのですから、今はもう立派な神様です!」

「そろそろ普通の鬼に戻りたいんだよ」

「ダメです!」

「……なんでお前がそんな事言う」

「あなたの巫女だからです! そしていずれ神職に就き、生涯あなたにお仕えするんです!
その時に、あなたがただの鬼に戻っているのなら……私は誰にお仕えするんですか!?
何のために私が勉強をしてると思ってるんですか!?」

「知らねえよ。他の神様に仕えりゃいいだろ。オレには関係ねぇな」

男が再び仰向けに寝転がると、娘はまた腹の上に乗っかった。
「……あのなぁ、そういうのはあと十年ぐらいしたら、してくれるとありがた……」

ポロポロと大粒の涙を流していた。

「か、関係なくないもん……。三吉様は、私の神様だもん……。み、みよししゃみゃの……」

「ま、待て。おい泣くな……」

「みよししゃまの……びゃかぁあああああ!!」

「大声出すんじゃねぇ、馬鹿! 黙れこのガキ、おとなしく……」

「誰かいるの!?」

女の声が聞こえ、本堂の扉が開かれた。
――開いたのは、娘の母。神主の妻だ。

「……あの子の声が聞こえた気がしたんだけど……気のせいだったかしら」

人の気配すらしない本殿を見渡して再び扉が閉めた。
祭壇の後ろには、男が娘の口を掴むように塞いで様子を窺っていたが、やがて女の気配が消えると、娘を掴んでいた力を緩め、ほうっと息をついた。

「どうしてコソコソ隠れるの? あの人は私の母様よ。神職にもついていて、三吉様にお仕えしてるのよ?」

「……それは……」

「それから父様からも逃げてるでしょ? 父様ったら自分が神主失格なんじゃないかって思ってるの。姿ぐらい見せてあげたら?」

「あー、ほら……オレは……子供にしか見えないんだ。大人に見られると……神通力が無くなっちまうんだよ」

「そうだったの!」
そして娘は、何かを思いついてくすくすと笑った。

「なーんだ、やっぱり神様なんじゃない。神通力を無くしたくないんでしょう? 鬼に戻りたいなんて嘘ばっか!」

「あ」

男はポリポリと頭を掻き、何かを諦めたようにため息をついた。

「……お嬢ちゃん、名前は?」

娘はこほんと咳払いをして答えた。
「音はむつき、字は睦まじの月」

「睦月か……良い名だな」

「はい! この名は母様がつけてくださいました! それで三吉様は……えーと、人の姿してる時は、何とお呼びすればいいかしら?」

「んー?」

「もし、そのお姿を大人に見られても、すぐに別の名前で呼べば『三吉様』が見られた事にならないでしょう?」

「なるほど、言霊っつーやつか」

「何とお呼びしましょう?」

「陸奥……か、左近。好きなほうでいいぜ」

陸奥左近と名乗った男がにいっと笑う。

「では……」
睦月はこほんと咳払いして、鈴のような声で名を呼んだ。

「――さこん」

その時、左近の血がザワと音をたてたのは、巫女の持つ言霊の力のせいか――それとも――。

* * *

それから数カ月がたった。
相変わらず、めんどうくさがりの三吉様は、食べるだけ食べて何もしない。

睦月も村人が神社に文句を言いに来るたびに、本殿にこっそり入り込み、左近に「働いてください」と懇願した。
だが左近はそのたびに「めんどうくせぇ」と横になるだけだった。

「みんな、あなたを頼りにしてるんですよ! 無碍にしては罰が当たります!」
「誰が神様に罰を当てるってんだよ」
「……誰かしら?」

そもそも、神様は罰を受けるものなんだろうか……。

眉間に皺を寄せて考え込む睦月を見て、また今日も上手くはぐらかしてやった、と思っていた。
そして視線を上に向け祭壇の上の鬼の面へと視線を移す。

――ったく、村人が大量にメシを供えてたから、何事かと思えば、アンタへの供物だってよ。
どーせ、アンタは食えないんだから、腐る前にオレが食ってやったんだ。
だからアンタは安心して、サッサと村人にご利益返してしてやれよ。

「あ!」
睦月が何かを思いついたのか、こほんと咳払いしてから続けた。

「私です!」

「何が?」

「三吉様に罰を当てられるのは私です! なんてったって三吉様の巫女なんですからね!」

「……はぁ?」

「さぁ、お働きなさい! お働きなさい! めっ!」
そう言って、ペチンペチンと左近の尻を叩いた。

「イテッ! イテッ!」
いや、実際にはたいして痛くはないのだが、なんというか、体というより心の柔らかい部分を叩かれているような――。
左近が普通の人として生まれていたなら『良心を直接叩かれているみたいだ』と例えただろう。

「やめろ、このガキ……」

左近が睦月を捕まえようとしたが、睦月はクスクスと笑いながらひょいとよけた。

「クソ、チョコマカと……」

さすがに寝たままでは捕まえられぬと思ったので、起き上がり、キャハキャハと笑いながら逃げる睦月を追いかけた。
社の中央にある大黒柱をぐるぐると右回りにまわり始めたので、左近は左から回ってみた。

「捕まえた!」
「きゃー!」

肩を掴まれた睦月は楽しそうな笑顔だが、ぜぇぜぇと息が上がっていた。

「さぁ、どうしてくれようかねぇ? 可愛いお嬢ちゃん」

睦月がいつものように、こほんと一つ咳払いをした。
いや、二つ、三つ……こほん、こほん、こほっ、けほっ、こほっ、ごほっごぼっげっおぇっ

「お、おい……!?」

咳で肺の空気を出しきった後は、ひゅぅひゅぅと喉の奥がなっている。

左近が思わず抱き上げると、その首にしがみ付き、ゆっくりと呼吸をしようとしていたので、それを促すように無意識に呼吸に合わせて背中を撫でていた。

「も、もう大丈夫です……」

「……よく、こうなるのか?」

「いいえ久しぶりです。……油断しました」

「そうか……」

顔色も戻って来たので床へ降ろしてやると座り込んだが、左近の顔を笑顔で見上げた。

「私は、やっぱりあなたの巫女です。その手のおかげで楽になりました」

「オレの手で……?」

「はい。三吉様の手は、母様の手よりも暖かいし、父様の手よりも大きいです」

「この手が……か」
左近が笑ったのは、自嘲からだった。

――この手は、人を殺すための手なのにな……。

「三吉様、私はもう戻りますね」

「大丈夫なのかよ?」

「はい! 私が次来る時までには、ちゃんとお働きくださいね。解りましたか? ――さこん」

鈴のような声で、名を呼ばれると……
「あ、あぁ……考えておく」
何故か逆らえなかった。

睦月が社の扉を開けようとするので、左近は祭壇の後ろへ身を隠す。いつもの動作だ。
だが――今回はいつもと違った。

「か……母様……」

睦月の母が、冷たい表情で見下ろしていた。

「数か月前から本殿に人がいる形跡があったから賊か何かが住み着いたのかと思いましたが……お前だったのですね」

「はい」

「私はお前の望む事は可能な事ならば、なんでもしたはずです。
そしてやって良い事と、悪い事もきちんと教えたはずです。
お前がした事は、どっちですか?」

「……悪い事です。神様のお住まいに勝手に上がりこむのは、悪い事です」

「お前は悪い事だと解ってやったのですね」

「……はい」

「ならば、罰を受けなさい」

「はい……」

左近は祭壇の陰から、母に手を引かれていく睦月の後ろ姿を見ていた。
どんな罰を受けるのかは知らないが……それは多分自分のせいで、睦月は自分を庇ったのだ。

――あのガキが勝手にやった事だろ? オレは別に頼んじゃいねぇし。

頭を掻きながら祭壇に背を預けると、祀られている神具を飾る鈴がリィンと響き、先ほどの睦月の声を思い出させた。

『――さこん』

――あーぁ、本当に面倒くせぇなぁ……。

ポリポリと頭を掻きながら、そっと本殿から抜け出した。

* * *

左近は賑わう参拝客に紛れ、こっそり裏に回り、社務所を窓から覗くと、睦月の母親と父親らしき神主がいた。

「……お前はあの子に厳しすぎやしないかい?」

「あなたが甘やかしているだけです。私はあの子を普通の子となんら変わらないよう、育てているだけです」

「あの子は、普通の子としてではなく、巫女として三吉様と話をするために本殿に入ったんだ」

「いつまでも巫女でいられるわけないでしょう!? あの子だって、いずれ大人になるんです。どこかへ嫁に行くのです!
その時に、普通の女として躾られてなければ、相手の家にも迷惑でしょう!?」

母親が声を荒げている。左近には少し苛々しすぎだと思えたが、神主は優しくその肩を抱いた。

「あの子の体が弱いのは……お前のせいではないよ」

「私はあの子の人生が、普通の女として、幸せなものにしてあげたいだけです!」

――睦月は、ここにはいなさそうだな。

左近は会話を興味無さそうに聞き流し、さっさと窓から離れると、社の裏へと回り、小さな小屋を一つ一つ覗いてみた。
そして、うす暗い倉庫の中に、睦月が閉じ込められているのを見つけた。

といっても縛られていたり傷めつけられている様子はなく、小さな窓から入る光の真ん中に、ちょこんと座っていた。
なのですぐ左近が覗いた事に気がついた。

「まぁ心配してくれたんですね」

「……あんな咳き込み方を目の前でされちゃ、いくらオレが鬼でも、心配するなって方が無理ってもんだろ?」

「大丈夫。いきなり動いたり興奮したりしなければ、ああいう風にはなりません。
これでもこの体と八年間つきあってるんですからね! どこまでが平気で、どこからが無理かはよくわかってます。
……先程は、本当に油断しただけです。三吉様といると、とても楽しいから……体の事も、忘れてしまうんです」

「楽しい?」

「三吉様は面白い方です。いいえ、三吉様が人の形を模した、〝左近どの”が面白い方なんですね」

「……よくわかんねぇけど、褒めてんのか?」

「はい」

「じゃぁ、ありがとよ」

「ほら、おもしろい」

睦月がコロコロと笑うのを、左近は首をかしげて見ていた。

「……んで、これからお前はどうする? ここから出たいのなら、出してやるが?」

「罰として夕飯まで、ここに入っていろと言われたので、そうしてます」

「……本殿にいたのはオレで、お前じゃないだろ」

「いいえ、私もいました。それにあなたは三吉様なのですから本殿にいるのは当然でしょう?」

「ん、んー」
左近はポリポリと頭を掻いた。
その時、人の気配を感じ、振り向くと睦月の父である神主が、こちらにむかって来るのが見えたので、急いで社の屋根に登って身を隠した。

睦月は突然左近の顔が見えなくなったので、一瞬不安げな顔をしたが、すぐに父の声が聞こえたのでその理由を理解した。

「大丈夫か? 暗くて怖くないか?」

「平気です。三吉様が会いに来て下さいました」

「え? どこ?」
父は思わず中を覗いたが、当然睦月以外の姿は見えなかった。

「父様が来たので、逃げてしまいました」

「……やっぱり、父は神主失格なのかい?」

「そんな事はありません。三吉様は大人に見られたくないそうです。父様だから逃げてるわけじゃありません!」

「そうか……所で、三吉様には氏子たちの事は伝えられたのかい?」

「はい。でも三吉様はとても怠け者です。何度も言ってるのにちっともお働きしてくださらないので、さっきお尻を引っぱたいてやりました!」

「神様の尻をかい!? そんな事して、お怒りにならなかったのかい!?」

「大丈夫です! なんたって私は三吉様の巫女ですからね!」

左近は頭を掻いて、そっとその場を離れた。
親子の会話はしばらくかかりそうだし、睦月が辛い罰を受けているわけではない事がわかれば、ここにはもう用はなかった。

社の屋根を伝い、反対側から降りて参道を戻る参拝客に紛れた。
すると地元の民たちらしき者の会話が聞こえた。

「まったぐ、本当に三吉様には困ったもんだ。いくらご奉納した所で、なぁんも良ぐしてくれね」

「やっぱ、アレかね。力、勝負を司る神様なのに、生まれた娘があんな病弱な子じゃ、三吉様も愛想がついたんじゃねか?」

「ンだなぁ、病弱な巫女や、ほんたら子を産んだオガやオドが、なんぼ祈ってもなぁ」

左近は噂話をしていた村人を追い抜かし、鳥居をくぐり抜け、町の中を歩き、峠に向かった。
数ヶ月前の土砂降りの雨で崖が崩れ、道がふさがって以来、毎日三吉様へのお供えがあるので、それをいつものように失敬しようとしたのだが、その日は様子が違った。

男たちの活気の溢れる掛け声が聞こえる。

「せーのっ!」

縄を巻きつけて引っ張る男たちの先頭にいたのは、見慣れない大男。体格からして、力士だろうか。
ぎぃっと、縄の軋む音と共に折れた大木が動き、人々の歓声が響いた。

「さぁーっすが! 江戸の力士は頼りんなんなぁ!」

「あんたのお陰で、道が戻る目処が立った! ひょっとして、三吉さんの化身か?」

「いやいや、三吉さん以上だろ! 三吉さんの代わりに神様になってくれね?」

どっと湧きあがる笑い声の中、左近は力士に近づき、目の前に立った。

「……なんだ?」

村人たちも、見慣れない男の出現に顔を見合わせた。
しかし左近は周りの人物など眼中にないかのように力士だけを見上げて言った。

「あんた、強いのか?」

「ああ、江戸で一番だ!」
答えたのは力士自身ではないが、訛がここの土地の者ではないので、この力士の付き人だろうか。

「江戸で一番ってのは、この世で何番目だ?」

「そりゃぁ、一番だ」

「へぇ……じゃぁ……あの世にかの世、地獄極楽、高天原に黄泉国。全てを含めた――浮世なら?」

左近のニイっと笑った顔を、恐れたのは力士だけだった。
他の者にはただの生意気な態度としか映らなかったらしい。

「何が言いたいんだ? この若造は」

「別に。ただ三吉さんの代わりになってくれるってんなら、相当強いんだろうなぁ、と思ってな。
それこそ――三吉さんよりもな」

「はっ! あんな物臭神様なんか、このお相撲さんがひと捻りだ!」
「んだんだ! あの三吉神社の名前を、このお相撲さんの名前に代えてやろう!」

力士は、首をぶんぶんと横に振っていたのだが、それに気付く者はいないらしい。

「……じゃぁ力比べしてみてくれよ。三吉さんと」

「おお、良い考えだなぁ」
力士の付き人の目が山吹色に妖しく光る。興業としての利益を計算している目だ。

「神様となんてどうやって戦わせんだ?」

「巫女さんに呼び出してもらえばいいだろ?」

左近の提案に、村人たちは顔を見合わせた。

「あの娘に出来るかねぇ……」

「出来るさ。なんてったって、三吉さんの巫女なんだからな」

左近がまたニイっと笑うと、村人たちもまた苛立ちが増したようだ。

「そこまで言うなら、呼び出してもらおう!」
「んだんだ! 呼び出せなけりゃ、巫女には向いてねって事だしな!」
「そうすりゃ、他の神主さんに来てもらって、お相撲さん祀ってもらう事も出来んしな!」

村人たちは勇んで神社へと向かい、その後ろをニヤニヤと力士の付き人がついていく。
当の力士は真っ青な顔で頭を抱え、一言この若造に文句を言ってやろうと振り返ったが、その姿はもうなく、仕方なく神社へと向かう一団の後を追った。

* * *

数日後。
太平山三吉神社里宮境内に、土俵が設えられた。

土俵のすぐ横には江戸から来た力士が下を向いて、神主のお祓いの祝詞に合わせて踊る、巫女の鈴の音を聞いていた。

「かけまくも かしこき いざなぎのおおかみ」

八つほどの幼い少女だが、その儚げな容姿は、成長すれば神の御使いに相応しい美しい女となるだろう。

「もろもろの まがごと つみ けがれをあらんをば はらいたまえ きよめたまえ」

いや、その祓いの舞は既に神々しいものだった。
ひょっとして、この小さな巫女自身が神の化身なのではないか。そんな気にもなってきた。
神は直接見られる事を嫌うというので、力士は思わず下を向いていたのだ。

しかし力士が下を向いていたのはそれだけが理由ではない。
流されるままに神様と力比べをすることになってしまったが、そんな畏れ多い事を自分がしてもよいのか……という一種の恐怖と緊張もあった。

確かに自分はそれなりには強い――とは思う。
だが、江戸で一番などと付き人兼興行主の戯言に過ぎない。

こんな田舎なら江戸の事を知る者もいないだろうと大げさに吹聴しているだけだ。
事実、力士は幕内にも入っていない、十両だ。
小さな部屋の地方巡業の宣伝にすぎない。

「かしこみ かしこみも もうす」

お祓いの祝詞が終わってしまった。
これから、この神社の主である三吉様を呼ぶ儀式が始ってしまう。

――本当に現れたら……どうしよう。

力士は真っ青な顔を隠すように、ひたすら下を向いていた。
すると――。

「けほっ けほっ ごほっ」

幼い巫女が咳き込み、座り込んでしまった。

「あーあ、咳した……」
「せっかぐ祓ったのに、穢れちまう」

村人たちの話声が聞こえる。
神は穢れを嫌う。穢れとは単に汚れている事だけではない。

気枯れ――病や怪我……そして死。
気力が枯れている事をさすのだ。

病弱な巫女。
村人たちがその力を疑うのには十分だった。

村人たちの話は小声でも、そのザワザワとした雰囲気は、当然幼い巫女や神主にも伝わっていた。
巫女の母親は思わず娘を止めようとしたが――夫である神主に止められた。

「……続けなさい。途中だよ」

「……はい」

巫女は再び立ち上がり、御幣を振った。
足が震えているのは――先ほどの咳き込みだけのせいではないだろう。

「かけまくも かしこき みよしのおおかみの みまえに」「けほっ」

緊張の為か、咳き込みやすくなったようだ。

――このぶんじゃぁ、三吉さんはいらっしゃらねなぁ。

――だがら、こんた病弱な娘など、よそにやればよかったのに。

村人たちの声は、力士にははっきり聞こえていた。
自分の立場や感情からすれば、三吉様など出てこない方がありがたい。
だが……。

――あの子、あんなに頑張ってんじゃないですか。あの姿のどこが穢れてるってんですか……咳き込みぐらい大目に見て下さいよ。

「かしこみ かしこみ もうす」

祝詞が終わると、ザワザワとした人の声がシン……と水を打ったように静まり返った。

それを奇妙に思った力士が顔を上げた時――土俵のど真ん中に古ぼけた鬼の面を被った男が肘枕で横になっていた。
いつからそこに居たのだろう。他の者も、みな巫女の祝詞と舞に注目していたせいか、気付いていなかったようだ。

「ふぁ~……あ? 終わった?」

その鬼の面は神社の本殿に祀られている物だが、そんなことは当然力士は知らない。が――。
その服装と声は知っていた。

――……この間の若造じゃねぇか……。

そして、それはあの場にいた数人の村人にも解ったらしい。

「な……なんだべ、オメは!」

「なんだって、呼び出しといてそりゃねぇだろ?」

鬼の面の男は、めんどうくさそうに立ち上がると、腕や足を伸ばし、体中の関節をブラブラとほぐし、力士へと視線を向けた。

「じゃ、はやく上がってこいよ」

――ああ、そういう事か。

この若者の意図が読めた。
健気な巫女の為に、一肌脱ぐつもりなのだろう。

この巫女の力は本物だ。
だから本当に三吉様を呼び出せるのだ。
疑いを向けた村人たちにそう示したいのだろう。

だが……。

――神ではないのなら……存分に戦える。

力士は階級こそ十両だがそれは実力のせいではない。
幕内に定員があるせいだ。

相撲は今や興業だ。
実力の他に、知名度だって必要だ。

勝負の神に勝ったとあれば――たちまち名は広まるだろう。
たとえそれが神の名を騙った若造でも、だ。

力士はにいっと笑い、土俵に上がった。
面を被った男が、どんな表情をしているかは知らないが、そう緊張しているわけでもない事は立ち方で解る。

「……オレに勝てたら、この神社の神様にしてやんぜ。その方が里の奴も喜ぶだろうし?」

「負けてくれるのか?」

「お前がオレより強いなら、な」

単純に体格だけを見れば、力士の方が断然有利だろう。
だが対峙し、互いが拳を土俵につけた時に力士には解った。

――こいつ……タダものじゃない……

ぞくりと、背が震えた。
ふくれあがる気が、若者の体を何倍も大きく見せる。

だが――それに怖気づくほど、力士もまた弱くはなかった。

お互いの気が最高潮に達した時、どちらかともなく間合いをつめ――。

岩か、鉄……あるいは金剛がぶつかりあった音を立て、互いに組み合ったままピクリとも動かない。
面の下の顔は今、どんな表情をしているのだろうか。
奥歯を噛みしめて踏ん張っているのか、あるいは痛みに耐えているのか。

いやきっと――力士と同じようにニイと笑っているのだろう。

「お前ぐらいの体格じゃぁ、普通は吹っ飛ぶんだがな」

「土俵の外まで?」

「いや……あの世まで、なッ!」

力士は、若者の袴の帯を掴みぐっと持ち上げると、そのまま頭から土俵に叩きつけようとした。
しかし若者は片手をついて頭を守ると、そのまま跳ね上がり、足で力士の頭を刈った。

「アンタに恨みはねぇけどよ……なんか虫の居所悪くてさぁ!」

ぐらりと倒れかけた力士の腕を取ると、そのまま背負い投げをした。

――折られ……

力士の体重すべてが、肘にかかる。
骨が折れた音とともに、頭から落下し――側頭部への衝撃で、力士の意識は白く染まった。

倒れたまま動かない力士と、面の下でめんどうくさそうに欠伸をする若者。
土俵の回りの人々は、みな息を飲んだまま動かなかったのだが、ついに誰かが叫んだ。

「オメさ……何モンだ!?」

「だから、お前らが呼んだんだろうが」

若者は伸びている力士ごと、土俵の回りにいた村人を見下ろして宣言した。

「オレは――三吉霊神みよしのおおかみ。そこのちっちゃい巫女さんに呼ばれた、力と勝負の鬼神様だ!」

視線の先の一番奥にいる小さな巫女に、面の下の顔はにいっと笑った。

0