陸奥天兵の章 園部秀雄編 6

shibaigoya

「それから、数日後。吉岡の喪が明けてすぐに、アタクシは佐竹先生の撃剣会に戻りました。
でもやっぱり、満足に子を育てる事ができなくて……。

千葉に巡業に来た時……おぎんを預けていた宿屋の女将さんが凄く可愛がってくれていたんですよ。
そしてある日、佐竹先生に言われました。

『剣を捨てるか、子を捨てるか、選べ』と。

陸奥と仕合うため一度捨てたこの子を、二度も捨てる事がどうしてできましょう。
しかし今まで薙刀の修行ばかりして、女らしい事などして来なかった私が剣を捨てて、どうやって生きて行けるのか……。
そう考えると、剣を捨てる事などできない。そう思って隣に寝ているおぎんの顔を覗き込んで……やっぱり手放す事はできない。

できない、できないと一晩、悩みました。

そして明け方にふと、思い立ったんです。
では、逆にアタクシはこの子の幸せの為に、何ができるのだろう。
この辛い旅に同行させて、娘らしい事にも触れられないまま娘盛りを過ごすのが、本当にこの子の為か?  優しい女将さんに女の嗜みを教わって娘らしく育った方が、この子が幸せになるんじゃないかって。

だから……私はおぎんを手放しました」

そこまで喋って、園部はふうと息をついて湯呑みに口をつけた。

「その後、おぎんさんは?」

「宿屋の女将さんが亡くなった後、アタクシを訪ねてきてくれたんですよ。
その時の第一声は今でも聞こえてきます。

『お母さん!』 って……。

自分を二度も捨てた女を、母と言ってくれたんです。
そこでやっと、アタクシは自分を許せました。

成長したおぎんは評判の美人でね。目元なんか本当、父親そっくりでした。
何をしているかと聞いたら、髪結いをしているって言っていました。
そのハサミさばきは、芸妓たちの間でもちょっとした噂になるほどだったんですって。
やっぱり、血筋でしょうね。武道から離れても刃物を持ってたなんて……。
旅に同行させなくて、本当によかったわ。

目元が父親そっくりと言いましたけど……。体が弱いのも似たのかしら。
……二十年前に、急病で倒れてそのまま……」

「そうですか……」

「おぎんを手放したすぐ後、撃剣会で剣舞の出場が来ると、どこかでアタクシが子を捨てたと噂があったんでしょう。
客席からよく通る声で、詩吟の要望があったんですよ。『棄児行!』と」

この身飢ゆるばこの子育たず この子捨てざるばこの身飢ゆ

「……踊りましたとも。するとたちまち評判が広まりました。
日下秀雄は、棄児行を泣きながら謡い舞う。鬼気迫る感情が胸を打つ。一見の価値あり、と。
もう何処へ行っても、アタクシの出場では『棄児』と声が掛かるようになっていました。

そんな身を削るような舞台をしても、やっぱり時代の流れには逆らえないのかしらね。
都会では見向きもされないし、田舎でさえ客の入りも少ない。

その上、ホラ……清との戦争が始まったでしょう? 娯楽なんてもう誰も求めなかったんですよ」

「ああ……」

「清との戦争といえば……実はアタクシ、兵士として志願したんですよ」

「えっ」

「もちろん女だからって理由で実現しませんでしたけど。……誰よりもお役に立つ自信はあったんですけどねぇ」

「……でしょうねぇ」

「でその後、神戸の光武館道場主、園部正利との縁談が上がったんですよ。
と言っても、当時園部は大山大将の秘書として戦争に行って、その後処理もありましたから未だ道場に帰ってもなかった頃です。

嫁に来いと言ったのは園部正利自身ではなく、お姑さんです。
アタクシだって吉岡との結婚は撃剣会の同志のためとはいっても嫌な結婚ではありませんでしたし、おぎんの事もありましたから再婚には躊躇していたんですよ。

でも佐竹先生が、まるで娘を諭すように「お前が結婚してくれれば、安心できる」なんて言うものだから……アタクシも覚悟を決めました。

アタクシが決意したら、話がトントン拍子で進んで……園部が帰宅したらすぐに結婚したんです。
もっとも、一番覚悟も何もなかったのは正利でしょうねぇ。
なにせ三年ぶりに我が家へ帰ってきたら、お姑さんが開口一番『今すぐ東京へ行って佐竹鑑柳斎の道場の日下秀雄と結婚して来い』ですもの」

「また、えらくロマンスの欠片もない結婚話ですねぇ」

「でも当時では当たり前でしょう?」

「まぁね、俺もそうでしたから。だから女遊びもしたくなるってもんですよ」

「……それは人によるとは思いますけど。現に園部は女遊びはしませんでしたし」

「女遊び『は』?」

「……神戸の道場主だから、弟子を山ほど抱えてて、客が来る度にやれ酒だのご馳走だの大宴会。
借金に借金を重ねて首が回る隙もありませんよ。家計簿をつけながら、なるほど姑さんが嫁を欲しがるわけだと思いました。
毎日取り立てが押しかけてきて寝る暇もありゃしない」

「園部秀雄も借金取りに大立ち回りとはいきませんか」

「当たり前です。金を借りておいて返さないで暴れるなんてどこのヤクザ者ですか。
……もっとも、あんな安っぽい刃物チラつかせて声を張り上げるだけのヒョロヒョロな男なんて怖いわけありませんけど」

「……よく離婚しませんでしたねぇ」

「まぁねぇ。結婚式まで面識ありませんでしたけど、園部正利の事は嫌いになりませんでしたしね。……結構可愛い所あるんですよ」

「へぇ、どんな?」

「ある日、『オレと勝負してみないか』と持ちかけられたんです。
それは武人としての仕合ですか? 夫婦としての試合ですか? と聞いたら、武人としての仕合だというので立ち会ったんですよ。
結果はいわずもがな、アタクシの勝ちなんですが、何度も挑んできて……二十ぐらい仕合ったかしら?
とうとう園部正利が言ったんですよ『夫婦として仕合ってくれ』と」

「結果は?」

「もちろん妻として夫に勝たせてあげました」

「……そんなんで旦那さんは喜んだんですか?」

「大満足してました」

『オレは夫だからお前に勝てるんだ。他の男じゃ絶対に勝てない。これほど気分のいい事はない』

「可愛いでしょ?」

「……やっぱりわかりません」

「とにかく、こうして夫と二人で道場を切りもりして武道の大会にも何度も出ました。
一度、堀田という若者と試合の時。審判の贔屓があって負けをくらってしまいましたけど」

「え?」

「……大会本部の連中、ほとんどアタクシに負けた事のある人たちなんですよ。
そして堀田さんは若くて顔もいい美少年でしたからね。園部秀雄に勝ったという触れ込みで売り出したかったんでしょうよ。
確かに技は速くて、強いには強かったですけど……」

「……ですけど?」

「同じ天才美形剣士という括りなら、吉岡五三郎のほうが速かったし、怖かったし……美形でしたッ!」

「それ、思い出補正ってやつじゃ……」

「五三郎さんほど綺麗な男の人はいなくてよ」

「でも、それじゃ園部氏は……?」

「正利さんは可愛いの」

「……やっぱりわかりません」

額をペンの尻で掻いて、加賀美はため息をつく。その様子を見て園部はクスクスと笑い、続けた。

「で、あとはもうご存知の通りですよ。女学校の薙刀講師をしたりしているうちに、いつの間にか薙刀範士なんて大層な称号を頂いてました」

「いつの間にかって……それ、武人としての最高峰の称号でしょう?」

「肩書きが凄くても、意味は無いんですよ。陸奥に勝たなければ最強とは言えない。
でも……本当にあの男ッ! 探しても探しても見つからない!
陸奥と仕合ったという男達を訪ねたり、訪ねられたりして、やっと尻尾を捕まえたと思ってもスルリと腕をすり抜けて……。
本当にアタクシの挑戦を受けないつもりなのかしら!」

「……もしや、まだ探しているんですか?」

「当然でしょう!? 直心影流薙刀術宗家、園部秀雄……体は衰えても、技は衰えておりません! アタクシはまだ生きています!」

「……」

園部秀雄。この時八十六歳。
メガネをかけてはいるが、背中も曲っておらず、声も考えもハッキリしている……とはいえ、この時代には珍しい程の高齢であるのは事実だ。

秀雄が仕合ったという陸奥は今、いくつなのだろうか。いやそれ以前に――。

そんな柄にもない感傷を隠すように、加賀美は再びペンを走らせる。

「そういえば園部さん、話に出てきたもう一人の陸奥が言っていた……『雷』の名を思い出すような男とは会えたんですか?」

「それが、誰のことなのかさっぱりなのよね。……もしかして、加賀美さんの方が心当たりがあるんじゃないですか?」

「いいえ。私が知っている男は雷を彷彿させるような名ではなかった。いや名は知りません。知っているのは姓だけ。陸奥ではないけれど……業の名は圓明流でした」

「どこで会ったの?」

「もちろん上海で。あの男は寡黙で、常に冷たい表情をしていた。……園部さんの語った陸奥とは対極の印象でしょう? 彼は……常に川島芳子の側にいた」

「田中陸軍少将……でしたっけ? 川島芳子女史の愛人」

「いいえ。田中少将のことではありませんよ。たしかに田中少将も彼女の側にいたし……あの男ももしかしたら愛人の一人だったのかもしれない。
でも、まあ……ハタから見れば、私も川島芳子の愛人の一人に見えたでしょうなぁ……。取材のために彼女の家で、彼女と同じ寝室で寝てたんですから」

「あらまぁ」

「でもベッドは別々ですよ。これでも我慢したんです。なんせ関東軍の少将の恋人だ。手を出したらどうなるか――。
解ります? 私みたいな男が、女が眠るベッドが隣にあるのに自制しなきゃいけないんです」

「さっぱりわかりません」

「魔性の女ってのは、ああいう女の事を言うんでしょうねぇ。
私がそういう状況だっていうのを知ってて誘惑してくるんですよ。これはもう人生最大苦行ですよ。
砂漠の遭難者の目の前でコップ一杯の水を砂の上に落とすぐらいの仕打ちです」

「砂漠の水ねぇ……それをどうやって我慢したんですか?」

「あの男の目を一度見たら、とても逆らうなんて出来ませんよ。
あの男が私を見て最初に言ったのが「川島芳子に指一本でも触れたら、殺していいと言われてる」ですよ? その男が不破です。
川島芳子の家には、川島芳子と、私と、不破……そして芳子が養女にしたがっていた女中がいたんですよ。

不破は田中少将の命で、私が川島芳子に手を出さないよう監視していました。
だが川島芳子も不破とは周知の仲らしくてね、不破は主が二人いる状況だったんでしょう。
たまに彼女がふざけて田中少将の命令と相反する命令を出すたび、不破は困った顔をしました。……でもまぁ、不破が表情を変えるのはその時ぐらいでしたが。

嘘か本当かわかりませんが、満州事変や上海事変は彼女らが不破に命令したとか……。彼女は面白おかしく語っていましたが、不破は一言も喋りませんでした。

でもまぁ、一つ屋根の下で暮らす仲です。川島芳子が女中と買い物に行っている間、留守をしていた不破に話しかけてみたんですよ。
でも返って来る言葉は「ああ」とか「いや」とか、そんな感じだったんでね……、もうちょっと話を盛り上げたくってつい聞いちゃったんですよ。

『あんたは川島芳子と寝た事はあるのかい?』って。

……次の瞬間、何故か数時間経っていて、いつの間にかベッドに寝かされて、川島芳子が私の腫れた瞼に氷嚢押し当ててました。
そしてケラケラと笑いながら言うんです。
『不破を怒らせるなんて、何を言ったんだい? あの男が感情的になるようなセリフを思いつくなんて流石作家先生だ。是非とも教えて欲しい』ってね。
もちろん、適当にはぐらかして教えませんでした。

なんていうか、嗅覚って奴ですかねぇ……。
不破の事は今は小説には書かない方がいいと感じました。
不破の話は、不破の話として書くべきだ、とね。

そして……小説にも書いた、あの事件。
川島芳子の女中が、無残にも悪漢に純潔を散らされて、服毒自殺をした事件が起こったんです。

犯人は注文取りのボーイ。たまたま誰もいない留守中にかの女中が対応して……その時に。
犯人は事件後すぐに行方をくらませてました。

芳子は酷く取り乱しました。
少女が純潔を自分の意志でなく失うことを嫌悪していました。
この世の中の悪という悪の中でも一番の悪だと、大声を上げ、暴れて、吐き捨てて……。

そしてついにその狂気が川島芳子自身に向けられたのを止めた不破に縋って叫んだんです。
『犯人を探しだして殺して来い』と。

髪を振り乱し、涙で真っ赤な目を見開いて、芳子は不破の腕に爪を立てました。
それを不破は眉ひとつ動かさず、身動ぎもせず、ただ受け止めていた。

不破は静かな声で一言『命令か?』と問うと、芳子は掠れる声で『命令だ』と怒鳴ったんです。

不破は冷たく低い鉄のような声で『わかった』とだけ言って、去って行きました。
それ以来、私が川島芳子の取材を終える日まで……不破は帰って来ませんでした。

それ以降、私は川島芳子とも会うこともありませんでした。
ご存知の通り、彼女は戦争の後、中国で処刑されました。
私の描いた架空の物語が、彼女の諜報活動の自白の証拠だなんて、荒唐無稽な裁判でね。

でも私は川島芳子が死んだなんて思えないんですよ。
彼女の側には――不破がいたんですから。

私は不破を探しました。不破がいればその側に必ず川島芳子が居る筈だと思って。
だけどもう中国に渡る事は難しいでしょう? 外地から引き上げてきた知人を辿って、どうやら不破は日本に帰ったという噂を聞きました。
そして、探しながら作家活動を続けるうちに……仲間から奇妙な噂を聞いたんです。
『圓明流』という流派がある。千年前に発祥した無手の古流武術で……何人もの武人が戦いを挑んだが、無敗である。
だから私は連載小説のテーマに『勝負』を持ってきたんですよ。圓明流と戦ったという人々と会って、話を聞いて……。

でも……やはり不破ではない。
みなが戦ったという『圓明流』というのは、陸奥でした。皆、不破など知らないと言うんです。……あなたもそうでしたね」

「……ええ。アタクシ、結構物覚えは良い方ですけど……やっぱり不破圓明流なんて、聞いたことありません」

「そうですか……」

「あなたは、不破に会ってどうしたいんですか?」

「そうですねぇ……。川島芳子が生きているのか、死んでしまったのかを確かめた後、もう一度あの質問をしてやりますよ。
『あんたは川島芳子と寝たことはあるのかい?』 ってね。……その答えを聞いたら今度は不破の物語を書いてやります」

加賀美がニイっと笑ったその時、柱時計が刻を告げた。

「あら、もうこんな時間ですね」

「え……まだこんな時間ですか?」

加賀美にとっては、物凄く長い時間を掛けたと思ったのに、二時間も経っていない。
けれど園部にとっては、もうすぐ乗らなくてはいけない列車の時刻が迫っていた。

挨拶もそこそこに慌てて身支度をしながら園部は、加賀美に話しかけた。

「ねぇ、加賀美さん。一ついいかしら?」

「何でしょう」

「よく物語であるでしょう? 人生の最後に、本当に会いたい人が会いに来るって場面が。
……アタクシを迎えに来るのは、誰だと思います?
アタクシの人生を客席でずっと見守っていた美しい男かしら。アタクシのすぐ隣で共に歩みつづけた可愛い人かしら。
技が業となるまでに磨き続けたアタクシを舞台袖で待ち構えてるのは――あなたなら誰にするかしら?」

加賀美が答えようとした瞬間、園部の迎えが来てしまい、結局答える事はできなかった。
一人残った加賀美は、ふと膳の上を見渡し、酒以外が空になっているのを見て、呆れ顔でため息をついた。

「……どうやら餅七個食ったっていうのは、本当らしいなあの婆さん」
もちろん、誰にも聞かれてないと思っての独り言だった。

* * *

その後、加賀美は新聞に園部秀雄の小説を書き、好評を得た。
しかしそれに不満を漏らす人物が一人。園部自身だ。

「……加賀美さんの小説で、堀田さんにアタクシが負けたとあるのは嘘です。一度でも負けてたら……この年まで生きてるわけがないでしょう!?」

それを人づてに聞いた加賀美はカラカラと笑った。

「何をおっしゃいますか。これは小説ですよ? 本当のことなんか書かれてるわけないじゃないですか」

そして机の奥にしまっていたボツ原稿を取り出した。
連載の小説では、流石にまだ生きている彼女の最期の描写を書くわけにはいかない。

――アタクシを迎えに来るのは、誰だと思います?

園部秀雄はきっと、ある朝目が覚めて、窓越しに男の姿を見かけるのだ。
そして……「お待ちしておりました」と満ちたりた顔で笑うに違いない。

加賀美は使われる事のなかった原稿をゴミ箱に丸めて捨て、新しい小説を書くために机に向かった。

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