第三話 洗心洞
翌日、兵衛が目を覚ますと、ミズホは既に炊事をしたりして忙しそうに動き回っていた。
「あら、おはようさん」
そう答えたミズホの息も白い。
「ちょうど今、熱ぅい芋汁が出来た所やねん。布団から出て待っててぇ」
「……ああ」
「あ、あと囲炉裏の傍に置いとる着物、着てぇな」
囲炉裏の横には、ミズホの父の物なのかよそ行きの着物があった。
「その道着姿も男っぽくて、うちは好きやねんけどな、やっぱり先生とこ行くなら、キッチリしとかんと」
「そうか」
囲炉裏の墨には、火がついている。着物も温かい。
着替える時に、寒い思いはしなかった。
「よくできた女房だよ、お前は」
「せやろ? ホンマ自分でも何で行き遅れとんのか、よう解らんわ」
「オレに会う為じゃないのか?」
「何言うとん。それならもうちょい早く来てくれても、よかったやん」
「すまない」
「なに謝っとんねん。……ほれ、出来たでぇ」
台所から鍋を持って来て、囲炉裏に引っかけ、芋汁をよそう。
「いっただっきまぁす!」
「……いただきます」
ふたりで手を合わせて、ゆっくりと食べ始めた。
* * *
大阪東町に洗心洞と呼ばれる、大きな私塾があった。
塾長、大塩平八郎の元に、近隣の藩からも門下生が集まり、下宿している武士の子供も何人もいる。
その下宿している子供に末次郎と幾代蔵、龍太郎がいた。
三人ともまだ十にも満たないが、親元を離れ、大塩に師事している。
幼年同士、同じ部屋に寝泊まりしているのもあって、三人はいつも一緒にいた。
三人が目を覚まし、井戸で顔を洗っていると――。
「おう、おはようさん、おチビ三人組」
「おはようございます! 八十次郎さん、英太郎さん!」
幼いながらも、姿勢を正し、二人の少年に挨拶をする。
河合八十次郎と、吉見英太郎。二人とも、大阪東町奉行所の与力の息子だ。
八十次郎は元服したばかり。英太郎はまだ元服はしていないのだが、三人にとっては一番歳の近い兄のような存在だった。
都会の若者らしい垢抜けた格好をしている二人は、歳の離れすぎた周りのくたびれた大人よりも、三人の憧れの的となっている。
「大塩先生は御在宅か?」
「はい! 今日は朝から門下生の皆さんが挨拶に来ています!」
「そか」
二人は、三人組をからかって、頭をポンポンと叩いて屋敷へと向かった。
その背中を見送って、叩かれた頭を嬉しそうにさすりながら、三人は顔を見合わせて笑った。
「……かぁっこいい~」
いつの時代も、『男児』が憧れる対象というものは同じなのだろう。
「英太郎さんはね! すっごい力持ちなんだよ!」
と、幾代蔵。
「ぼくと、末次郎が、二人合わせても動かなかった箱を、ひょいと持ち上げて運んでくれたんだよ!」
「八十次郎さんだって、凄い剣の使い手なんだぞ!」
と、龍太郎。
「この前、剣の稽古見せて貰ったんだ! 真剣で、藁人形を、えいって真っ二つにしたんだから!」
「まぁまぁ、二人ともやめろって」
末次郎は二人よりも少しだけ年上だったので、いつもこの手合いの話になると仲裁役になっていた。
「どっちがカッコイイかなんて、競っても仕方ないよ。いつか僕たちがあの二人みたいになるんだから!」
「ごめんくださぁい」
門の方から、また訪問客が現れた。
「おはようございます! 源右衛門さん、伝七さん!」
現れたのは柏岡家の親子だった。
「おうおう、チビちゃんたち、元気がええのう。ほれ、飴ちゃんやろうな」
源右衛門はいつもコッソリ飴をくれるので、三人は実の祖父のように懐いていた。
「卯兵衛! はよう来い!」
門の方を振り返り、声をかけてから屋敷へと向かった。
三人は飴の形にほっぺたを膨らませながら、どんな奴が来るのだろうと門を振り返った。
現れた男は、三人から見れば父親と同じぐらいの歳で、「おじさん」と呼んでもいいぐらいだった。
服装も、古臭く地味だったのだが……。
片腕で肩にのせた米俵を支え、もう片腕でもう一つ米俵抱えていた。
そんな状態なのに、苦しい顔一つせず、足取りも真っすぐに屋敷に向かっている。
男は、三対の丸くした目に気づく事も無く、あるいは気づいた上で気にしていないのか、屋敷へと入って行った。
「……かぁっこいい~」
そう声に出した三人の口から、飴がこぼれ落ちた。
* * *
力仕事させられるのなら、道着のままでよかったじゃねぇか……と慣れない草鞋を脱ぎながら、兵衛は思った。
せっかくの着物が擦り切れたらもったいない。
――親父さんの形見だっつってたのになぁ……。悪い事したなぁ。
言われた所に米俵を置いて、肩の皺を引っ張って伸ばした。
そしてふと、違和感があった。いつも差している刀がないからか、どうも腰のあたりがフワフワとする。
刀は置いて行け、とミズホに言われたから預けて来たのだが……。
いや、刀を預ける事自体は別にかまわないのだが……どうも落ち着かなかった。
それにしても――と、運んで来た米俵を睨む。
――あのジジイ……人にやる米はないっつっといて、先生とやらに献上する米はあるのかよ……。
村からここまで一人で運んで来たのだ。少しくらい貰ったってかまわんだろう。
兵衛が米俵に手を伸ばしたその時――。
「あのう」
後ろから声をかけて来た女は、十六か七ぐらいだろう。まだ首の座っていない赤ん坊を抱きながら、少し戸惑った顔で兵衛を見ていた。
「門下生の方ですか?」
「いや……柏岡源右衛門の雇われ人だ」
「さいですか。あ、お米を持って来て下さったんやね! おおきにぃ」
「あ、ああ……」
兵衛の眉間に、深く皺が刻まれた。その様子を見て女はクスクスと笑う。
「あ、すみません。でもちょっとご不満そうやねぇ」
「まぁな。こんな重い物を担がされて、オレには一粒も口に入らないんだからな。まったくあのジジイ……」
「まぁ、正直なお方や」
「嘘はつかん」
「でも、いずれあなたの口に入ると思いますよ」
「何?」
「義父の大塩平八郎は、貧しい民たちへ炊き出し施行を計画しています。
柏岡さんは般若寺村の百姓代やからね。役人の目を掻い潜って、その日の為に米を取っといてくれたんですよ」
「そうだったのか。で、あんたは?」
「失礼しました。私、元は般若寺村の庄屋、橋本忠兵衛の娘で、大塩平八郎の息子、格之助の妻、ミネと申します。この子は息子の弓太郎です。
屋敷には門下生の皆様が大勢いらはるので……その、この子に乳をやりに、ここに来たのですが――」
「ああ、そうか。邪魔してすまないな」
見ず知らずの男がいるのに、乳を出すわけにもいかないだろう。
兵衛がミネの前を通り過ぎ、出ようとした時。
「あの、お名前は?」
「陸t――」
「卯兵衛~、どこにおるんやぁ」
源右衛門の声が聞こえた。
「卯兵衛さん、とおっしゃるんですね」
「……ああ」
――ああ、そうか……違和感は、これか。
陸奥を名乗らない自分、という違和感。
それは、ただ単に代々の家宝である刀が腰にないというだけでなく――源右衛門に卯兵衛などと呼ばれているからでもなく――。
――果たして、この日本で……『陸奥』を名乗る意味はあるのだろうか。
兵衛が陸奥を継いだ時からあった、漠然とした疑問が、この瞬間に形になったのだ。
雷電以上に血を滾らせる相手……あれから十年以上も日本中をさ迷っても、会う事は無かった。
* * *
源右衛門に付いて通された部屋には、大勢の門下生が集まっていた。
元服も済んでないような子供から、源右衛門のような老人まで、数十人も集まっている。
しばらくは門下生同士で挨拶をしあっていたのだが、やがて奥の襖が空き、男が現れた。
「あけましておめでとうございます、大塩先生」
皆が一斉に頭を下げたので、後ろの方ににいた兵衛にも、その姿が見えた。
――雷電――
兵衛は、あの時仕合った老力士を思い出した。
体つきからではない。もちろん、顔でもない。
身にまとう気……否、内に飼っているモノ。
大塩平八郎、この時四十五。
兵衛はその細く釣り上った目から、その内に飼っているモノが何なのか探ろうとした。
「……見慣れぬ奴がおるなぁ」
兵衛の目を見返し、大塩が呟いた。
「頭を下げんか!」
源右衛門が兵衛の頭を掴み、無理やり下げさせた。
「えろうすんまへんなぁ。うちで雇うとるモンなんですが、力ばかりで礼儀ものうて……」
「ふむ……まぁ、ええやろ。今日は皆の者よう参ったな」
その後は新年の挨拶やらなにやらで、兵衛にとって実に退屈な時間だった。
これなら、外で待たされた方がマシだな……と欠伸を噛み殺しながら考えていた。
「――と、いうわけで、次の勉強会は六日やからな」
やっと終わったか。
源右衛門について、部屋から出ようとした時。
「おい」
大塩に呼び止められた。
「お前さん、名は?」
「陸――」
「卯兵衛と言いますねん」
源右衛門に肘で小突かれて遮られた。
「そうか、パッっとせぇへん名やなぁ。似合うとらんちゅうか……。まぁええか」
そした大塩は用件は終ったとばかりに机に向かって、文章を書き始めた。
「ほな、行くで卯兵衛」
そしてまた、部屋を出ようとした時、背中に貫くような視線を感じた。
真剣の切っ先か、鉄の矢尻……いや、弾丸。
それを避けるように身を捩り、振り返る。
……ニイっと笑った大塩と一瞬だけ目が合った。大塩は目を落とし再び硯に向かう。
「――次は六日やからな」
「はいぃ」
兵衛の代わりに、源右衛門が答えた。
* * *
「もうお帰りですかー?」
「お気をつけてぇー!」
小さな三人組に見送られて、皆心なしか頬も緩んで手を振って帰って行く。
そして、柏岡源右衛門、伝七親子の後ろにいる男に気づいた三人は、駆け寄って取り囲んだ。
小さな通せんぼうたちに、あからさまに眉間に皺を寄せる兵衛の眼力に、臆する事もなく見上げている。
「なんだ? お前たちは」
その問いを名を聞かれたと思ったのか、それぞれ「末次郎です」「幾代蔵です」「龍太郎です」と元気良く答えた。
「あ、あの……お名前は!?」
キラキラとした目で見つめられて、少し戸惑っている兵衛に代わって、源右衛門が言った。
「卯兵衛や」
「卯兵衛さん!!」
何をするという訳でもなく、兵衛を「卯兵衛さん、卯兵衛さん」と呼び続けている。
――ど、どうすりゃいいんだ、これ?
取りあえず頭を撫でてやると、きゃぁきゃぁと嬉しそうに叫んで中庭の方へ走って行ってしまった。
「おチビたちに気に入られたなぁ。いつの間に何したんや?」
「別に、何も……」
「何もせぇへんのに、好かれるかいな。まったくミズホの件といい、油断ならんやっちゃなぁ」
ニヤニヤとからかう源右衛門の後ろを、ムッとした表情で付いて行った。
* * *
「撫でられたー!」
「手がおっきかったー!」
小さな身に納まりきれない喜びを発散するかのように庭中を駆け回る三人組を呼びとめたのは――
「何しとんねん、お前ら」
父親と一緒に玄関から出て来た、見吉英太郎だった。
「英太郎さん!」
龍太郎を先頭に駆け寄って来て、いつものように期待に満ちた目で見上げた。
「英太郎さんは、米俵、持てますか?」
「……は? 米俵?」
ちなみにキログラム換算すると、一俵は六〇キロ程である。
まだ十六になったばかりの少年に、持ちあげられるわけがない。
「……持てないんですか?」
眉をハの字に垂らし、しょぼんとした顔を見せられ、つい見栄を張ってしまった。
「ま、まぁ、米俵ぐらい、ギリギリ持てるで?」
そして三人がまた目を輝かす。
「何俵ですか!?」
「三俵ぐらい持てますか!?」
「持てるか!」
思わず素で叫んだ。
「じゃぁ二俵ですか!?」
「なんでやねん! ギリ一俵いけるで? ギリな?」
その言葉に、三人の眉がまたハの字に下がった。
「へ? なしてそない顔するん?」
とてもガッカリして、ため息までつく三人の背中を、英太郎はなす術もなく見送るしかなかった。
「英太郎」
一部始終を聞いていた父親がニイと笑った。
「お前、米俵を持てるんか。すごいやん。よし、今度お前に槍持してもらうわ」
「え……」
今度は笑う父親の背中を、見つめるしかなかった。
「おとう、ギリやで? ギリやからな?」
父親は聞いてるのか聞いてないのか、笑うだけだった。
* * *
その後、大阪の町で醤油だの酒だのを買って、それを全部担がされ、柏岡邸へ届けた後、ミズホのもとへ帰って来た。
「お帰りぃ! 飯も風呂も準備出来とるでー。どっちする?」
源右衛門への不満が沸々と湧いていたが、それを吹き飛ばす笑顔だった。
「お前」
「残念やけど、それは選択肢にあらへん」
ペチンと額を叩かれた。
「……なんや、疲れた顔してぇ。風呂入りぃ、な?」
押されるように、風呂場に行かされる。
服を脱ぐと、やはり肩のあたりに皺や汚れができてしまっていた。
「すまない。借りた服を汚してしまった」
外で薪を焚いているミズホに向かって声をかける。
「そんなん気にせんでええよぉ」
「しかし……お前の父親の形見なんだろう?」
「そんなん、元々女の一人暮らしやさかい。売りに出されるのがオチやし、売ったとしても流行遅れの古着じゃ二束三文にもならんわ。
着物かて箪笥の肥やしになるより、着てもろた方が喜ぶやろ? 着物も兵衛さんおおきにって言うとるわ」
「着物が喋るのか」
「そやでー」
「そうか」
兵衛は丁寧に畳んでから、なんとなく手を合わせてから、風呂へと入る。
音で湯船に浸かったのを確認したのだろう、ミズホが湯加減を聞いて来たので「調度良い」と答えた。
「そんで大塩先生はどうやった?」
「ああ、あれは――」
大塩の目を、思い出す。兵衛の背中を貫いたあの視線。
「――鬼、だな」
「ふぅん、まぁ、確かに、お奉行さんの頃は鬼の大塩とか言われてたらしいで? それも同僚から。
不正は一切許さんから、例え同僚だろうとドンドン告発しとったんだと。そのお陰で大阪の民にはえらい人気やけどね」
兵衛が抱いた印象は、違う。
正義の為と旗を振るう男には見えなかった。
自分と同じ――己の為に……ただこの世で一番である為に技を練る自分と同じような……。
兵衛の持つ、陸奥である執着と同じような、ある種の執着心。そんな物を垣間見た。
その執着の対象がなんなのか、まだ兵衛には形が見えなかったのだが。
「胡散臭いな」
「せやろ? ここ一年ぐらいで、門下生がぐっと増えたんやと。なんや嫌な予感すんねん」
「それもカンか?」
「カンや」
ミズホのカンは、概ね正しいと思った。ただ全員が全員、大塩を正義の人と見ているとは限らないだろう。
人より、鬼や獣じみた凶気に敏感だとはいえ、初対面の自分がそれに気づいたのだから、何年も一緒にいる門下生が全員それに気づかないというのもおかしい。
それとも狂ったのは自分の感性なのか? この日本にもう自分以外に鬼はいないと思ったから、雷電に似たあの男に鬼を無理やり見出そうとしているのだろうか。
湯船に浸かりながら考えていると、のぼせてきた。
上るとミズホが「もうええの?」と声をかけてきたので、「ああ」と答えた。
「お前も入るだろう? 今度はオレが焚いてやろう」
「ウチはええよ残り湯で。せっかく入ったのに湯冷めしてまう」
「気にするな」
用意された道着は、綺麗に洗濯されて、ほつれも直っていた。
着替えて、申し訳なさそうにしているミズホの手から、竹筒を奪うように取った。
「いいから入れ。ここの家主はお前だろ? 本当はお前から入るべきだ」
「……もう、すんまへんなぁ」
と、ミズホが入って行くので、それを見計らって薪を火にくべた。
炎を見ながらまた大塩の事を思い出す。
――次は六日やで
六日にまた源右衛門について行こうかと思案していると、ミズホが風呂に入る気配がしたので、何かを思い出したかのように立ちあがって窓から中を見た。
「体も流そうか?」
「いらんわ!」
杓子が良い音を立てて兵衛の額に当たった。