第四話 血判
それからしばらくは、ミズホの家で朝食を取って二人で源右衛門の屋敷へ行き、
仕事をして、ミズホの家に帰り、夕食と風呂を頂き、ミズホをからかって寝る生活を繰り返していた。
それなりに悪くはない生活なのだが、いかんせん源右衛門の自分への扱いが牛か馬かのようだ。
重い物を持って畑や町や役場を何往復もさせられ、休憩していると、源右衛門の孫――ではない、息子達に絡まれる。
一番上の長男は十一で、長女は九歳、その下が六歳で、さらにミズホの姉におぶさっている幼子がいる。
長男は特にやんちゃ盛りで、隙あらば木の枝を構え、兵衛を狙ってくる。
初めは適当に受け流してはいたのだが、避ければ避けるほどムキになってかかってくる。
子供の遊びとはいえ、陸奥の自分が負けてやるわけにはいかないが――。
「卯兵衛、覚悟ぉ~!」
――まぁ、今は『卯兵衛』だしな。
「やられたぁ~」
すっかりやられ方も板について来た。
でも最近はすぐにやられてやるせいか、倒れても「つまらん」と言ってべしべしと叩いてくる。
――どうしろと言うんだ。
これだから、子供は嫌いだ。
* * *
天保八年、一月六日。
源右衛門、伝七と一緒に、また米俵を担いで大阪へ向かう兵衛を見送って、
ミズホは姉の手伝いで屋敷の掃除をしていた。
「ミズホ、お茶淹れたから、休憩しぃや」
「はいはーい」
雑巾と桶を端によせ、姉が呼んだ居間へと行き、お茶をすする。
「楽しそうね」
「そら、うちが頑張れば頑張るほど綺麗になるんやで? 楽しいやん」
「そうやなくて、卯兵衛さんと一緒にいるのが」
「そうか? まぁ、おもろい男やで。アホで助平やけど」
「あら、見かけによらんねぇ。ウチらの前じゃキリッとしとんのに」
「昨日かて、隙あらば乳揉もうとすんねん」
「揉ませればええやん、夫婦やろ?」
ミズホの目が、一瞬気まずそうに泳いだ。
誤魔化すように茶を飲んで「まだ夫婦やあらへん」と慌てて言った。
「源右衛門さん言うたやん。刈り入れまで待たんと、結納させてくれへんやろ? せやから……」
「何を馬鹿正直に。同じ屋根の下に住まわしとんのや、公然的に夫婦ちゅうことやろ」
「でも……」
「ミズホ」
姉は、ミズホの手を両手で握り、じっと目を見た。
「姉ちゃんだけには、ホンマの事言うてや? 卯兵衛さんの事、ホンマに好いとんの? ホンマに夫婦になるつもりなん?」
「それは……」
答えられず思わず目をそらしたが、姉はじっと見つめたまま続けた。
「ウチな、ミズホと卯兵衛さん見て思うたんや、男女の仲やないなって。なんやオママゴトしてるみたいやわ」
「そ、そんな……」
「どうせ嫁に行くフリして、この村から出ようとしとんのやろ」
図星すぎて言葉が出なかった。
「気持ちは解るで。嫌な事いっぱいあったもんなぁ……。でもな、姉ちゃん、ミズホにホンマ幸せになって欲しいんや」
「う、ウチは幸せやで? 寝るとこもあるし、仕事もあるし、食べ物かてちゃぁんと毎日食べてるし……」
「源右衛門さんが結婚許したんは、卯兵衛さんが無宿やからやで? ミズホの事思うて言うたんちゃうねん! 無宿やったら持参金かて安上がりで済むからや。
ウチはな、ホンマはあんな何処の馬の骨とも知らん胡散臭い男に、ミズホをやりとうないねん!」
「胡散臭い?」
「親戚中、いや、村中皆言うとるで? 胡散臭いて。あんな男と一緒におったら、いつか酷い事されるで」
「そ、そんな人やあらへんよ? 第一ホンマに酷い事するつもりやったら、とっくにされてるやん」
ミズホは自分でそう口にしてから改めて気がついた。
米俵や酒樽を眉ひとつ動かさずにひょいと担げるほどの力の持ち主だ。
痩せぽちの女の腕で跳ね返せるわけがない。
「あの人は絶対に酷い事はせぇへんよ」
もう一度そう言った。
「そんなん、今は隠しとるだけかもしれんやん」
にべもなく言い返された。
「ミズホ、姉ちゃんの言う事よくお聞き。あの人に出ていってもらって、他に嫁に行きぃ。
河内の下島村に嫁探してる男がおるんやと。仕事熱心でええ人やて。
下島村にいる源右衛門さんの従兄が仲人になってくれるから、まずはそこに行って面倒見てもらい。
ウチがコッソリ紹介状書いちゃる。大丈夫、源右衛門さんの文書は、みんなウチが代筆しとんのや。絶対バレへん」
「前の男も、ええ人言うたやん。そんでもウチが年増やから断られて他の若い女選んだんやろ?」
「あれは、まだ二十歳にもならん男やったやないか。今度の男は、ミズホよりも年上やし、年齢で女見る男やない」
「その前の『ええ人』は、持参金が少ない言うて、他の金持ちのお嬢さん選んだやろ?」
「今度の男は、金で女見る男やない! 実はな、その人一度、般若寺村に来た事あるっちゅうてな、ミズホの事覚えてて、話したら是非って言うてくれたんやて」
「その前の『ええ人』は、小さい頃からウチの事、好きや好きや、結婚しよう、結婚してくれとずーっと言うてて……
そんで持参金を持って遊女と駆け落ちして行方知れずや」
「今度の男は、そんな最低のクズやあらへん!」
「兵衛さんかて、そんな男やあらへんよ」
「あんな胡散臭い男、絶対にあかん!」
「姉ちゃん、ウチな、もう皆から『ええ人』言われてる男はコリゴリなんよ。皆から『胡散臭い』言われてる男なら、丁度ええ」
「ミズホ!」
「さて、まだ廊下の雑巾がけが途中やねん。デカイ家は、掃除もやりがいあるわぁ」
無理やり話を終わらせて、廊下へと駆けていく。
さっきまで、ミズホの目は図星をつかれて動揺しているだけだった。だが……最後に見せたあの目は――。
自分の言葉で妹に気がつかせてしまった。
「あかん。ウチはいつもそうや。いつも……裏目に出てまう」
残った姉は、じっとお茶を見るように下を向き、両手で顔を覆った。
* * *
大塩の屋敷に米を届けた後、勉強会への参加を促す源右衛門の誘いを断った。
「オレは馬鹿だから、難しい話はわからん」
そう言うと納得してくれたが、何故か釈然としなかった。
待っている間どうしようかと、中庭の縁側に座って空に浮かんだ凧を眺めていた。
服は、どうせ力仕事だからと、いつもの道着を着ていたのだが、家宝の刀はミズホに預けてきた。
やはり腰のあたりが落ち着かない。
「タコかぁ……」
なんとはなしに呟いてみた。
「蛸、食いたいなぁ……」
ちょっと海まで行ってタコでも捕まえてこようか。
ミズホは生ダコにどんな反応するだろうか。
自然と口の端がニイと上った。
すると……。
「卯兵衛さん!」
末次郎、幾代蔵、龍太郎の三人組が兵衛を取り囲んだ。
「……あら、卯兵衛さん。こんにちわぁ」
遅れて現れたのは大塩家の嫁、ミネだった。スヤスヤと眠る赤ん坊を抱いている。
「義父の話は、聞かないんですか?」
「性に合わん」
「そこにおるのも、お暇やないですか?」
「ああ、暇だ。暇すぎて、海まで行ってタコでも捕まえてこようかと思っていた」
「タコをどうしなさるんですか?」
「試してみたい事があってな」
「試す……?」
と、兵衛は空を見上げた。
ミネも釣られて見上げると、凧が浮かんでいるのが見えた。
「……磯臭くなりそうやね」
「問題無い」
「でも、大阪で蛸はあまり取れませんよ。明石か、伊勢まで行かないと……」
「……ちょっと行って帰って来れる距離ではないな」
「はい」
「お暇なら!」
末次郎が、キラキラとした目で見上げて行った。
「ぼくたちと、おつかい行きませんか!」
「おつかい?」
「酒を切らしてしまったんですよ」
と、ミネ。
「女中たちも今は家に帰してますし、私もこの子がいて身動きがとれまへんので、この子たちに行かせようって事になったみたいなんですが、
最近、町も物騒やさかい。この子たちだけではちょいと心配してたんですよ……卯兵衛さんが一緒に行ってくだはったら、安心なんやけど」
たしかに、この三人じゃ転んで酒を零しそうだ。
「わかった。その代わり何かくれ」
「え?」
「こいつらの用心棒に雇われるんだろ? そうだなぁ、米か蛸はないか?」
兵衛にとっては当然の申し出に、顔を顰める者が今までも何人かいた。
しかし、ここは商人の町、大阪。
「ああ、そうやねぇ。蛸はないけど、餅でよければ」
こういう事に関しては、さほど抵抗はないようだった。
「じゃぁ二つだ」
「あら、三人のお供なんだから、三つにしときますよ」
「三つじゃ分けられん。四つにしてくれ」
「キリと縁起が悪い。六つにしときます」
数を減らされる事を負けると言うが、増やされる時は何と言うのだろう。
そんな事を思いながら、三人組に腕を引っ張られ、町へと向かった。
「……奇数じゃ分けられないって、兵衛さん所帯持ってはるのかしら? そんな風には見えないけど。確か柏岡さんとこで雇われてる言うてたねぇ」
般若寺村はミネの故郷でもある。一体誰の旦那なのだろう……と遠くなる背中を眺めながら思った。
* * *
大塩平八郎の屋敷の一室。
そこには二十数名の男たちがいた。皆一言も言葉を発さずに、皆大塩を見つめていた。
皆、目を見開くか、あるいはじっと伏せるか。
息をするのも忘れているかのような静寂が、長い間続いていた。
大塩の前には一枚の長い紙があった。
そこの端に自らの名を書き、懐刀を取りだした。
「わしはやれる事は全てやると決めた。飢えている者がおるなら、持てる者が分けて与えればええんや。
予定通り、炊き出し施行を行う。これに全ての財を投げ打つつもりや。蔵書も、なんならこの家も売ってもええ。
お前らも、わしを信じて米や金銀を出してくれた。礼を言う。頭を何度下げても足りん。
けどな……それで何人救える? この大阪に、日本に、何人の飢えてる者がおるんや……?
そして金持ちはどんだけおる? もし、その金持ちが……商人や、藩や、幕府が蔵に溜めこんでおる米を全部解放すれば……救えるんや。
全ての民を救うには、日本の意識を変えなきゃならんのや!
下級侍やからなんや! 町人やからなんや! 百姓やからなんや! そんなの関係なく不満を伝えられる世にせにゃいかんのや!
せやから……下級武士の、町人の、百姓のお前たちに、立ちあがってもらいたい。
道はわしが切り開く。お前らはついて来て、大声を出すだけでええ! ここからこの大阪天満から、風を吹かすんや! 義ヤ憤ナリ、維レ新ナリ!」
大塩は懐刀を抜き、自らの手の平に押し当てた。
「わしを……新しい日本を信じられるなら、続け!」
机がはじけ飛ぶかという程の大きな音を立てて、名の上から紅い手形が押された。
「さぁ、次に名を連ねるのは……誰や!」
スッと音も無く前に進み出た背の低い色黒の青年が、一度頭を下げ名を記すと、大塩の目を見つめたまま刃を手の平に押し付けた。
「大阪町奉行東組与力、大塩格之助。
……あなたとは血の繋がりはありませんが、志は受け継いでいるつもりです。……せやけど今日で、その血も繋がりましょう!」
大塩にも負けぬほどの大きな音を立て、養父の手形に指を重ねるように、紅い手形を押した。
その後に、同じく奉行所の与力たちが続く。
「おとう……」
吉見英太郎は、不安そうな顔で父親を見上げた。
それは、あの小さな三人組の前で見栄を張って得意げにしている少年とは全く違った、年相応の少年のものだった。
「お前はまだ元服も済ませとらん。やらんでええ」
父親は表情も変えず、英太郎を見返す事もせず、前に出て紅い手形を重ねた。
次に前に出たのは、いつも英太郎とつるんでいた、河合八十次郎。
「親父はどうした?」
大塩の問いに、八十次郎は真っすぐに見返して答えた。
「弟を連れて旅行へ行きました。暫くは帰らないと言うておりました。せやから嫡男の私が……」
筆を取ろうとした手を、大塩が遮った。
「武士の子なら、この連判の意味は……解っておるよな」
「はい」
「なら、お前はあかん」
八十次郎の目が、一瞬見開いた。
「しかし……」
「お前が名を連ねる事は許さん。親父が家にいないのなら、なおさらや」
戸惑う八十次郎を下げさせて、残った門下生――町人や、百姓たちを見渡した。
「この連判に名を書いたものは血を、命を賭けて貰うことになる。お前たちは、こういう事は馴染みないやろう。
日本を変えるっちゅうてもピンと来ないかもしれへん。せやけど……家族なら、どうや?
家族が飢える事のない、重税に苦しみ泣く事もない世の中を作る為に命を賭けられるっちゅうなら……、名と血を示せ」
* * *
「ここが、天満様ですよー!」
「ですよー!」
酒を買って帰るだけなのに、いつのまにか大阪見物をしていた。
というのも、兵衛が大阪に来るのが初めてで、まだゆっくりと見回ってないと言ったから、この三人が勝手に案内し始めたのだ。
「そうか。で……酒屋はどこだ?」
「酒屋?」
三人揃ってきょとんと首をかしげた。
「いや、だから……お前らは酒を買うおつかいに出されたんだろ?」
「あっ! そうだったー!」
「そうだったー!」
何故か楽しそうにきゃはきゃはと笑いながら、今まで歩いた道を逆方向にかけ出したので、慌てて追いかけた。
――オレがこいつら位の頃は、もうちょっとしっかりしていた気がするぞ?
それとも、それは陸奥だからだろうか。はたまたあの母の子だからだろうか。
これが一般的な幼子というものだろうか。
――子供が産まれたら大変そうだな。
自分の子供というのも、あまり想像できない。というより今まであまり意識した事はなかった。
もちろん陸奥の技を継承させる為には、子を成さなければならない。
跡継ぎとしての『子』というのはなんとなく考えた事はあるが、こういった生き物としての『子供』というのは不思議な気がしてならない。
――しかし、果たしてこの日本で子供に技を継承させる意味はあるのだろうか。
今日、帰ったらまたミズホが飯を作ってくれるだろう。それを食ったり、風呂に入ったり、ミズホをからかったり……。
次の日も源右衛門にコキ使われ、それに不満を感じつつ日々を過ごし――春が来て、田植えを手伝い、夏を過ごし、秋に刈りいれる。
――それも悪くない。
「こらこら、どこへ行く」
兵衛は、三人の襟を掴んで止めた。
「どこまで走るんだ。ここが酒屋じゃないのか?」
「そうでーす!」
三人は相変わらず笑いながら、酒屋へと入って行く。
ミネが心配していたのも解る。やれやれとため息をつきながら、酒を買う三人を見守っていると……。
「元気のええ子たちやねぇ。年の近い男が三人もおったら、おとうちゃんも大変やろ?」
「いや、父親というわけでは……」
突然声をかけられて戸惑った。が……。
――いつの間にか、このくらいの子なら、いてもおかしくない歳になっていたか……。
それ以上に、動揺を含んだ衝撃を受けてしまった。
三人がヨタヨタと酒瓶を持って歩き出したので、慌ててまた追いかけた。
この三人に持たせるのは色々と不安だったので、自分が持とうとしたのだが……。
「きゃー!」
早速、酒を持っていた幾代蔵が転んだ。
兵衛は幾代蔵を抱えると、そのまま手を伸ばして滑り込み、落ちてくる酒瓶を上に向けた手の平で受け止めた。
「おお~!」
三人組含め、周囲の人々が思わず拍手を送ったが、兵衛は暫く動けないでいた。
なんだか、どっと疲れたのだ。
「お前ら、頼むから……せめてチョコマカしないでくれ」
「はーい!」
返事だけはとても素晴らしい。そしてまた笑いながら走りだす。
「言ってるそばから……」
これだから、子供は嫌いだ。
* * *
兵衛が三人組と一緒に大塩の屋敷へ戻って来た頃、丁度大塩の勉強会も終わったようだ。
「卯兵衛、待たせたなぁ」
源右衛門と伝七が縁側に出て来て、声をかける。
「その手……」
二人は、左手に包帯を巻いていたのだ。いや……二人だけでは無い。門下生の二十数名の殆どが、その手に包帯を巻いていた。
「……なんでもなか」
源右衛門は「いずれ話す」とだけ言って、詳しくは語ろうとしなかった。
その時……。
「おう、卯兵衛。そこに居たか――」
大塩平八郎が源右衛門たちの後ろに立っていた。
「お前と話したいと思うてたんや。ちょいとこっちに来てみぃ」
そう言って背中を向けると、廊下を歩き、道場へと向かう。
――一分の隙もない。
兵衛は無意識に、大塩の間合いにうかつに入らぬよう、距離を取ってそれに続いた。
「先生……?」
源右衛門の呼びかけに、大塩はニイとわらって答えた。
「柏岡。この馬の骨は、ただの馬やあらへん。馬車馬にするにはもったいないで」
源右衛門と伝七は大塩の意図が読めず、首をかしげながら、その後ろに続いて道場へと向かった。
そしてその更に後ろを、小さな影がチョコチョコと続いていた。
* * *
道場には、大塩の門下生である武士たちが数名いた。
入るなり、兵衛を見定めるように、一斉に目を向けた。
そして道場の外からは柏岡親子を始め百姓や町人たちが、一体何が始まるのだろうと、見守っている。
しかし兵衛は、ただ大塩だけを見ていた。
大塩はゆっくりと道場の中心まで来て兵衛を振り返った。
「お前さん、得物はなんや?」
「――無手」
兵衛はおもむろに構えた。
「ほう……おもろいのう。こっちは剣も槍もあるんや。それに対して無手でやる気か?」
「ああ。なんなら真剣でもかまわんぞ」
大塩はニイと笑い、後ろに控えていた門下生に向かって言った。
「誰か、こいつと試合う奴はおらんか!」
「はい!」
腹の底から声を出し、立ち上がったのは、背が高く浅黒い肌の、二〇代半ば程の痩せた男だった。
眉が濃く、鼻が高いのが印象的だった。そして、この男もまた左手に包帯を巻いていた。
「大井正一郎、お相手いたす」
兵衛の口に、ニイと笑みがこぼれた。
典型的な、血の気の多い気質の男だ。
大井が前に出ると、大塩は壁に背を預けて腕を組んだ。
シン……と水を打ったような静寂が道場全体を包んだ。
ゴクリ、と誰かが息を飲む音さえも聞こえてきそうだ。
実際に息を飲んだ者がいる。柏岡源右衛門だ。
源右衛門は、大井正一郎がどれだけ血の気の多い男で、喧嘩早いか知っていたし、その腕も確かである事も知っていた。
――頼むから、卯兵衛に怪我させんでくださいよぉ?
せっかくの男手……しかも文字通りの十人力の男。怪我して動けなくなったら大損だ。
永遠に続くかと思った静寂を裂くように、大井の叫びが響いた。
真っすぐに兵衛の喉を突く。たとえ木刀でも、防具もない状態では、場合によっては大怪我では済まない。
源右衛門は――周りの者はみな目を瞑った。
……大塩を除いて。
――勝負アリやな。
兵衛は木刀を体を反るように避け、右手を床につけ、大井の顎を蹴り上げた。
後ろに吹き飛び昏倒する大井に、近くにいた者たちがあっけに取られつつも駆け寄り介抱した。
「奥の部屋で寝かせてやりぃ」
大塩は再び兵衛を、その細く鋭い目で見た。
「おもろい男じゃのう。どうや、わしの下につかんか?」
「断る。オレは柏岡に雇われている身だ。柏岡以外に使われるつもりはない」
「柏岡にどんだけ恩があるんや?」
「特に恩はない」
「ないんかい! なら何でそこまで……」
「稲刈りまで手伝ったら米と女を貰う約束をした」
「米と……女?」
突然、大塩が腹を抱えて、大声で笑い出した。
「じゃぁ、わしはその三倍の米に女も三人つけようか。そうやなぁ……一人は京都の島原で太夫しとった女や」
「米はともかく、アイツ以外の女では意味が無い。アイツが貰えないなら柏岡に雇われる理由も無い」
「そんなにええ女か」
「命を分けてもらったからな。アイツが望む事の為ならば、なんだってする」
「ほーう」
大塩のただでさえ細い目が、更に細くなった。
「で」
今度は兵衛が大塩を睨んだ。
「オレとアンタの門下生を仕合わせて、何をしようとしたんだ?」
「そりゃ……卯兵衛。お前の力量を見るためや」
「ならもっと見せてやろうか? 剣でも槍でも……大砲でもいいぜ」
「ほう?」
ピクリと大塩の薄い眉が動いた。
「この前来た時もそうだった……匂うんだ。火薬の匂いがな。何に使う気だ?」
「……刻が来たら」
「刻……?」
「お前さん相手には使わん」
大塩は門下生を向き直った。
「誰か、こいつと試合たいやつはおらんか!?」
誰も動かない。大塩は無理もないとニイと笑い「卯兵衛」と再び呼びかけようとした時――。
「八十次郎さん!!」
子供の三重唱が響いた。
道場の入口から、キラキラとした三対の目が、河合八十次郎の極限まで開かれた目と重なった。
「八十次郎さんなら、勝てますよね!」
「真剣で、エイッって、藁人形真っ二つに出来るんですもんね!」
――藁と人はちゃうやろ!!
思わず素の叫びが出かかった。口に出さなかった分、やはり吉見英太郎よりかは大人と言う事だろうか。
八十次郎は、周りの大人を見渡した。
皆、目を逸らした。
――お、大塩先生まで!!
「……勝てないんですか?」
三人組が、しょんぼりと眉をハの字に下げた。
子供の憧れる『英雄』と言うモノは、いつも孤独だ。
「よ、よし……オレが相手や!」
ガクガクと震えだしそうな足を無理やり立たせて、木刀を兵衛に向けて構えた。
「八十次郎さん! 八十次郎さん!」
元気に声援を送る三人組の声だけが響いていた。
八十次郎は兵衛の目を見た。
――負けてくれとは言わんから……せめて手加減してなぁ……?
目は口ほどに物を言うとあるように、その思いは、声は出てないがしっかりと兵衛に伝わった。
兵衛は、フッ……と笑いながら、その思いを受け止め、目で答えた。
幼き子供たちの期待を背負う、若き英雄。
困難に立ち向かう姿のその先に、求められているのは勝利。
兵衛も良い歳だ。八十次郎の十年以上も長く生きていて、それが解らないわけではない。
――悪いが、オレは子供が嫌いでなぁ……
目は口ほどに物を言うとあるように、その思いは、声は出てないがしっかりと八十次郎に伝わった。
そして、八十次郎が絶望を感じるより早く、拳が顔面を貫いた。
「ようやった! ようやった、八十次郎!」
「おとうがここにおったなら、きっと立派な息子だと言うで!」
涙を溢れさせて、八十次郎の勇士を称える大人たちをよそに、三人組は兵衛を取り囲んで「すごいすごい」とぐるぐる回っていた。
兵衛は嫌われる為に勝ったのに、何故さらに好かれてるのか理解できず、眉間に深く皺を寄せて腕を組んでいた。
「凄い男がおったもんですなぁ、柏岡さん」
源右衛門に声をかけた青年は、弓削村の百姓、西村利三郎だ。彼も左手に包帯を巻いていた。
「で、あの男が欲しがってる女ちゅうのは、だれですか?」
「ミズホや。わしの後添いの妹の……」
「ふぇっ!?」
その声は、二人のさらに後ろにいた、赤ん坊を抱いたミネのものだ。
ばつが悪そうに口を押さえてから、声につられて振り返った人々ににっこりと笑って、そそくさと屋敷に戻って行く。
「ミズホさんを、ねぇ……」
ミネの呟きは誰の耳にも届かなかった。
* * *
いつものように、町で買い出しした荷物を、柏岡の屋敷まで担いで来て、縁側に座って一息をついていると、ミズホの姉が茶を出して来た。
だがその顔はいつもと違って固く強張っていた。兵衛は訝しんだが、表情には出さずに、いつものように受け取った。
「卯兵衛さん」
いつもより、重い声だ。
「ミズホは、迷惑かけとりませんか?」
「迷惑どころか……逆に申し訳ないぐらいに良くしてくれる」
「……あの子は、ホンマにええ子なんよ。どんな時でも笑って、弱音ひとつ吐かんのや。せやから……」
ぐっと、えりを掴まれ、目を合わさせられた。
「あの子を泣かす事は絶対に許さへんで」
「そんな恐ろしい顔するなよ。綺麗な顔がもったいねぇ」
「何を……」
「やっぱり姉妹だな。ミズホに似てるよあんたの顔。だから、あんたもいつも笑ってたらいい」
「うちは真面目な話をしとんのや!」
「オレだって真面目にそう思ってる」
そして兵衛は茶を飲み干すと、立ち上がり、去ろうとする。
「まだ話は終わっとらん!」
「今のオレが何言っても、あんた納得しねぇだろ。話がどうどう巡りになるだけだ」
ヒラヒラと後ろを振り返らずに手を振って、ミズホの家に向かって行く。
「だが、これだけは信じてくれ。オレもあいつが泣いている姿は見たくない」
「ホンマやな? 一滴でも涙流させてみい! 絶対に許さへんで! 例えミズホが許しても……ウチは絶対に許さへんからな!」
ミズホの姉の声が、兵衛の背中を槍のように突き刺す。
だが兵衛は歩みを止める事も、遅くすることもせず、振り返りもせずにただ歩いた。
* * *
ミズホの家に帰れば、いつものようにミズホが待っていた。
兵衛が持ってきた餅を焼き、共に「いただきます」と手を合わせてから食べた。
「んー、おいしいなぁ。やっぱお餅があると、正月って気分になるわぁ……しかもこんなに沢山」
「いや、もっと貰うべきだった……子供のお守は苦手だ」
「あら、そうなん? 兵衛さん子供に懐かれるやん。お姉ちゃんの子らともいつも遊んどるし」
「遊んでるわけではない。絡んでくるから適当にあしらってるだけだ。それにオレは子供は嫌いだ」
「なんで?」
「何を考えてるのかサッパリわからん」
「そんなん兵衛さんも同じやん」
「え?」
「なにをキョトンとしとんねん。兵衛さんは子供が嫌いなんじゃのうて、子供の扱い方を知らんだけや。それにそう言う人に限って自分に子供が出来たら――」
ミズホがいきなり口をつぐんだ。喉に餅でも詰まらせたのかと思ったが、そうではなく、少し下を向いて……目が沈んでいるように見えた。
いつもと様子が違うので、「何かあったのか?」と声をかけようとしたのだが、その前にミズホが口を開いた。
「……兵衛さん、もしかしてうちのお姉ちゃんに、何か言われた?」
「ん?」
「いつもと様子がちゃうし……」
「そうか? お前もいつもと様子が違うぞ」
自分では、特に意識して変ったことはしていないはずだった。それはミズホもそうだったらしい。ハッとして顔を上げ、どこか遠くを見るように呟いた。
「……お姉ちゃんは心配性やねん。いつも自分より人の事ばっか考えておるんよ。柏岡の爺さんに嫁いだ時もそうや。
好きおうてた男がおったのに、お父ちゃんの面目が立つとか、ウチが飢えずに済むとか言うて……これが一番丸く収まる形やって柏岡に行ったんや。
せやから、ウチの縁談に関しては、ウチやお父ちゃんなんかよりも煩いねん。お姉ちゃんが何か気に障る事言うてたら、堪忍してなぁ」
「いや……気に障るような事は言われてない」
「そか、ならええねんけど」
ミズホは伸びる餅と格闘しながら、またポツリと呟いた。
「……兵衛さんは、お国に待ってる人おらんの?」
「いる」
一瞬、ミズホの動きが止まった。
「……母者がな、オレが米を持って帰るのを待っている」
「そ、そか……お母さんか……」
「一人身じゃなければ、夫になれなんて承諾するわけないだろ」
「せやからフリやって! って、別にそんなつもりで聞いたわけじゃのうて……その、えーと……なんていうか……なんで一人身やの?」
今まで、情を交わした女が居なかったわけではない。
一晩限りだった女もいれば、添い遂げたいと言ってくれた女もいた。
追いかけてくる女もいれば、逆に自分がちょっかい出しても相手にもしなかった女もいた。
そして結局は、みな出自のしっかりとした相手に貰われて行く。兵衛もそれが相手にとって幸せだろうと思っていた。
「……お前と同じだ。今まで縁がなかっただけだ」
「そう……そうやねんな。嫌やわウチ、変な事聞いてもうて……堪忍な?」
「謝らなくてもいい」
「なんやろ……そんな事聞きたいわけじゃないねん……おかしいな」
「なら、無理に今喋ろうとしなくていい。どうせ刈り入れまで一緒にいるんだ」
「……そやな、刈り入れまでな」
そしてミズホは、また餅を齧り、下を向いている。
兵衛は、自分の分の餅を飲みこむと、ミズホの横に音も無く近づいた。
「うわっ近いな! ビックリするわぁ」
「……餅、もういいのか?」
ミズホの分の餅が、一つ残っていた。
「あ、ああ。ウチはもうお腹いっぱいやさかい。兵衛さん食べてええよ」
ミズホが皿を兵衛に向かって差し出す。
「じゃぁ、遠慮なく」と伸ばした兵衛の腕は、皿の上を通り過ぎた。
「それは一文字違いで餅ちゃうわ!」
とても良い音が兵衛の頬から鳴った。