第七話 乱魁
天保八年二月十八日。
大阪に足を踏み入れた男が居た。
「あまり変わってないですねぇ」
宇津木静区、年は二十九。
大塩平八郎が特に気を掛けている優秀な弟子で、大塩の莫大な援助を得て長崎へ留学していたのだが、この度の決起の連絡を受け、急遽大阪へと帰って来た。
宇津木は懐かしい風景を楽しむかのようにゆっくりと歩く。客を呼び込む商人たちの声。子供たちの駆け回る路地裏。
大阪城が逆さに映る掘を渡り、天満宮を通り過ぎ、行きついたのは大塩平八郎の屋敷。刻は夕刻だった。
女中に案内され、居間へと廊下を進む。中庭を見て思わず足を止めた。
勉強の合間、気分転換に縁側にすわり、鯉に餌をやっていたあの大池が、ない。
埋められた跡地には、三機の大砲が西日に照らされ黒々と光り、並んでいた。
――もうこの家は、懐かしい学び舎ではないのだ。
大砲を運んでいた、変わった道着姿の男と一瞬目が合う。
見慣れない顔だが、体格は良い。――新しい使用人だろうか。
「宇津木様……」
女中に促されて通された居間には、数十人の門下生が並んでいた。
そして、それを見渡すように上座に座っている、大塩平八郎。
その後ろには――大塩門徒を代表する人物の名と血が記された連判状が掲げられていた。
ごくりと息を飲み、宇津木は前に進み出て、頭を垂れた。
「大塩先生! 宇津木静区、ただ今長崎より帰りました!」
「うむ、ご苦労やったな」
宇津木が頭をあげる。大塩の、相変わらず細い目がそこにあった。
「お前が来てくれるとは、思わへんかった」
「先生からの手紙を拝見しまして、私が行かねばならぬと思いました」
「ふむ……。お前がいてくれると言うてくれるなら、こんなに心強い事はないな」
細い目が更に細くなる。 だがその満足そうな顔は、次の瞬間凍りついた。
「私しか、先生を止められぬと思ったからです」
「止める?」
「先生の考えは、間違っています」
刃がつきつけられたような緊張感が、赤く照らされた部屋を満たした。
「本当に民の事を思うのであれば、武力蜂起に巻き込んではなりません。そんな事をして、一番苦しむのは民でしょう?」
「お前は大阪から離れていた。だから知らんのやろ、大阪の現状を」
「そんなのは、どこも一緒です。それでも民はなんとか土を掘り、食い物を作ろうと必死に努力をしています」
「その努力を役人どもが蔑ろにするんや! 誰かが正さねばならん!」
「それは、役人同士の問題でしょう!」
大塩の咆哮に、宇津木が吠えた。それは、天と地の二つの魁の戦いだった。
「人には本分というものがあります。身分の上下が何故あるか……それは本来、強き者が弱き者を守るためのものです」
「せや。しかし……今はどうや。身分の上のもんが、下のもんを虐げてるだけやろうが!」
「そうです。だからこそ、分が低い者を戦わせてどうするんですか!
戦うのは私たち武士の役目でしょう?! 役人を正すのは役人でしょう?! 百姓や町人の役割ではありません!」
「戦わねば、日本は変わらぬ。変わらなければ誰も救えん」
「変えるのに、争いは必要ありません」
「なら、お前はどうやって変える?」
「では……城に嘆願書を出しましょう」
「それも、何度もした。だがな……告発してもその告発文受け取るのは、その告発文に名を書かれてる奴や!
意味がないんや!」
「では……役人たちの怠慢を、江戸に報告します」
「それを無視されたんや!」
「血を流した所で、ただいたずらに世を乱すだけです! 武力ではなく……声を挙げて行進するんです!」
「それでは、こいつらが大阪内で打ち首になってしまいや。
何故抗議したか、それによって何人が罰せられたか。 それが全国伝わらんのでは意味がない――犬死や。
残された最後の手段は武力蜂起しかあらへんのや! 武士だけではあかん。百姓や町人も怒り立ち上がるっちゅう事を見せなあかんねん!
追い詰められたネズミが、猫を殺す所を見せんと、あの連中は根が張った腰を動かさんのや!」
「それで守るべき民が、殺される事になってもですか?」
「皆、覚悟の上や」
大塩が、頭上の血判を指差した。
「……本当に、みなさんいいんですか?」
宇津木が、門下生を振り返った。
「宮脇さん、あなたは神主でしょう?」
「……神さんが米をくれるわけではあらへん」
「柏岡さん……あなたがいなくなったら、あなたの一族は……?」
源右衛門が宇津木を見返した。
「その一族の命を繋げるのなら……この老いぼれの命などくれてやるわ」
「西村さん……あなたの子供は、まだ小さかったでしょう?」
西村利三郎は俯いたまま答えた。
「飢えて死なせるよりかは、マシや」
「罰を受けるのは、あなた方だけではありません。家族だって……」
「民を動かすのは、民や」
大塩が、再び唸った。
「民の力を見せつければ……全国で同じように民が立ち上がる。そして日本が変わるんや。
身分の上下に関係なく、罰せられる事も無く、意見を言い合える世にな」
太陽が沈む直前の最後の足掻きのような光を放った。
炎の様な赤で部屋が染まり、ゆっくりと暗くなる。その間、誰も言葉を発さなかった。
やがて、隣の者、目の前の人間の顔も識別できぬほど暗くなると、大塩が行燈に火を灯した。
「……宇津木。お前は蔵の中におれ。一歩も外に出る事は許さん」
宇津木は大塩から目を逸らさなかった。
まっすぐに見つめたまま、何も言わず、黙って門下生に連れられて部屋を出て行った。
* * *
「相変わらず大塩先生は、頑固ですねぇ」
宇津木は、裏庭の書庫だった倉庫に、自分を連れて来た人物につぶやいた。
「吉見さん」
吉見九郎右衛門。 その後ろには平山助次郎と、息子の吉見英太郎。そして河合八十次郎がいた。
「……宇津木どのの話なら先生は耳を貸すと思ったんや。こんな事になってすまん」
「気になさらないで下さい。確かにここに来ようと思ったきっかけは吉見さんの知らせですが、ここに来たのは己の意志です。
もし自分が大阪にいたままでしたら今日と同じ事を言ったはずです。私は、吉見さんと同意見ですよ」
宇津木は自分の入る、真っ暗の闇の中を見詰めた。
「私は剣の腕はからっきしですが、それでも武士です。自分の師に、真っ向から反対の意見をぶつける覚悟をして来ました。
その覚悟は文にして、長崎から実家へと送っています。 ……私のできる全てをしました」
そして、自ら蔵の中へ入り扉を閉める。閉まる直前、吉見九郎右衛門たちに笑顔を向けた。
「……吉見さん、後はあなたの番です」
大きな音を立てた扉に、吉見と平山が閂をする。そして息子の英太郎と、その友人八十次郎を振り返った。
「英太郎、八十次郎。これを……奉行所に届けるんや。ここに今回の計画と連判の写しを書いとる。大塩先生を止めるには、もうこれしかあらへんのや」
戸惑う英太郎に手紙を無理やり握らせ、「急げ」と背中を押した。
それでもまだ状況を把握出来ない英太郎の腕を、八十次郎が引っ張り、駆けだした。
「二人とも、頼んだで!」
英太郎は、自分ももう引き返せない事を悟った。 ただ全力で、奉行所に向かって走るしかない。
息を切らし立ち止まった英太郎を、八十次郎が急かした。
「英太郎! はよせんか!」
「どちらが正しいんですか」
俯いたままの英太郎が呟いた。
「大塩先生と……宇津木さんの、どちらが正しいんですか?
八十次郎さんは、もう元服した大人やからわかりますよね? 親父さんの代わりに家を守ってる大人やから……わかりますよね?
オレらがやろうとしてる事……正しいんですよね!?」
「そんなん、解るかぁ!」
正義というものは明確な定義があるわけではなく、ただ己の信じたものを正義だと思い込むしかないものなのかもしれない。
「ただ……オレは親父みたいに逃げへん」
八十次郎は、再び奉行所へと向き直り、しっかりと一歩、また一歩と踏み出した。
英太郎も拳で目を拭うと、それに続いた。
* * *
空が白み始めた頃、兵衛は目を覚ました。
今日は、大塩が言っていた決起の日だ。
昨日の夕方、来訪者があったようだが……一瞬、目があったきり見ていない。
大塩も柏岡も来訪者の事は何も言わず、夜通し酒盛りをしていた。
兵衛も酒を勧められたが、苦手だと断った。それでも無理やり飲ませようとするので……一口。
それ以降は覚えていない。こうやって布団に戻っているので、自分の足で歩いてここまで来たにちがいないが。
屋敷も静かだ。皆酔いつぶれて眠っているのだろう。
兵衛は起き上がると庭に出て、井戸の水で顔を洗った。すると――。
「卯兵衛さん……か?」
門下生の青年、瀬田斉之助がヨロヨロと門をくぐって来た。
肩を押さえていて……袖が赤く染まっている。
「……どうしたんだ?」
「大塩先生は……?」
「さぁ、まだ起きてないようだが」
「起して下さい……計画が、バレた」
「何?」
瀬田が兵衛に体を預けるように倒れ込んだ。
「……オレと小泉が奉行所で泊り番だったんや……したら二人して呼ばれてな……小泉が斬られた!
向こうはオレと小泉が連判してる事も知っとった! 誰かが……密告したんや!」
この知らせは、すぐに屋敷中に広まり、一同の眠りも酔いも覚ました。
「先生……どうしましょう」
「挙兵の予定は、夕刻です……。あちらもそれまでに体制を整えるでしょう」
腕を組み、目を伏せて考えていた大塩は、ゆっくりと目を開けて見渡した。
「挙兵の準備をはじめる。今から一刻半で……人を集めろ!」
「はい!」
「一刻半後、屋敷に火をかけ、集まった人数で、大砲を持って奉行所へ行く! 例えわし一人でも、やるからな!」
一同は一斉に動き出した。 各々の家人や部下、村の男たちを集めに部屋を飛び出す。
「卯兵衛! お前は、屋敷中の使用人たちを叩き起こして来い。男はここに来させて……女は逃がせ」
「……わかった」
兵衛はまず自分が寝泊まりしていた部屋に戻った。
共に埋め立て作業や大砲を運んだ人夫たちの布団をはぎ取っていく。
「なにすんねん、卯兵衛さん……」
まだ寝ぼけている者もいたが、目を擦りながら兵衛の顔を見て……皆「ひっ」と声をあげた。
「……目を覚ませ。戦が始まる」
「う、卯兵衛さん……あんた、なんちゅう顔してるんや……」
その顔はまるで祭りが始まる前の様な……歓喜の笑顔。だがその目は獣のようにギラギラと光っていた。
「早く庭へ出ろ。屋敷に火をかけるらしいからな」
口元がニイと上るのを見て、男たちは逃げるように飛び出した。
――ああ、そうだ。
兵衛は何か思い出したように、自分が寝ていた布団の下に手を突っ込んだ。
――燃えてしまったら、大変だ。
いや後から思えば、思い出したのではない。呼ばれた気がしたのだ。
布団の下の……ミズホの父の着物に。
――結局、袖は通さなかったな。
この時はなんともなしに「思い出してよかった」と着物を懐へと突っ込んで、隣の部屋の人夫たちを起こしに向かった。
* * *
ミズホはいつものように、朝の支度をしていた。
いつもなら小鳥の声だけが聞こえる静かな朝に、鼻歌を歌いながら芋を煮るのだが……。
今日はなんだか騒がしい。女の泣き声まで聞こえる。それも一人、二人ではない。
一体何があったのかと外に出ると――。村の集会場の方へ続々と人が集まって行くのが見えた。
「なにがあったん?」
朝の支度をほっぽり出して、道行く人に尋ねた。
「大塩先生が――決起するんや!」
「……なんやて?」
男たちは皆、鍬や鎌を持って広場へ向かう。 そしてそこには、柏岡源右衛門が熱弁をふるっていた。
「大塩先生は、今まで散々わしらのために尽力をつくしてくれたやないか! こんどはわしらが恩返しをするんや!
お前ら、あの炊き出しの飯の味を忘れたわけやないやろ!?」
男たちが、農具を振り上げて、鬨の声をあげる。
――なんやの……コレ。
「わしについて来い!」
源右衛門の号令に……村中の男がつき従い、進んで行く。
「みんな、どこ行くんや! そっちは畑やないで!?」
ミズホの声に振り返るものは居ない。
慌てて男の一人を掴もうとすると、誰かに止められた。
「お姉ちゃん……みんな、鍬や鎌持って、どこに行くんや?」
姉はミズホの腕を掴んだまま、硬い表情のまま、動かなかった。
「もう、これ以上……我慢できんのやて」
姉が、言葉と共に一粒涙をこぼした。
「百姓には、百姓の戦い方があんやろ。武士の真似事したって……」
「役所は、さらに米の取り立てを釣り上げたんや」
一粒、二粒……涙は更に増えて行く。
「取り立てが増えたら……その分がんばって畑耕して、増やせばええんちゃうの?!」
「ミズホかて、わかっとるやろ? うちらが頑張っても、土地が痩せてたら増やしようあらへん」
「そんなん、やってみんとわからへんやろ? 今年はちゃんとお天道様が照ってくれる!
土やって、冬の間に橋本さんや柏岡さんが調べて見つけた新しい方法、散々試したやん! 絶対肥えとるよ! 信じようや!」
ミズホの声が震えていた。喉が裂けても構わないというように、小さく見える男たちに向かって叫んだ。
「鍬や鎌は畑耕す道具やろ? 畑耕して食べ物作って命を繋ぐ道具やろ!? 人や物を傷つける道具ちゃうねん!
人を生かす為のもん作る百姓が、人殺してどないすんねん!」
「ミズホ」
振り返ったミズホの顔を見て、姉は一瞬手を緩めた。
泣き顔では無い――憤怒。
「大塩に言われたからって、なんやねん……金持ちが、貧乏人の足元見やがって……」
姉が怯んだ隙に腕を振り払い、ミズホは自分の家へと向かって走る。
そして小屋から鍬を取りだし――畑へと向かい、天へと振り上げた。
「百姓……なめんなやぁぁあああ!」
般若の顔で振り下ろした鍬は、霜がすっかり溶けた新しい土に、深々と突き刺さった。
* * *
屋敷にもう人は残っていないかと、回っていた兵衛は、廊下の隅に蹲る三つの小さな影を見つけた。
――男を集めて、女を逃がせと言われたが……
子供は、どうすればいいのだろう。
「卯兵衛さん……みなさん、何をするんですか?」
「みなさん怖い顔して……ぼくたちが何言っても、聞いてくれないんです」
「ぼくたちは、何をすればいいんですか?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を見せられたら、こう言うしかなかった。
「遠くへ逃げろ」
「ぼくたちは武士の子です!」
「父から先生のお役に立てと言われて来たんです!」
「逃げるわけにはいきません!」
「お前らでは役に立たん!」
兵衛は片腕で幾代蔵を、もう片腕で龍太郎を担ぐと、屋敷の外へと向かう。 末次郎はその後を慌ててついてきた。
玄関を出て門をくぐると、投げるように放り出して、門を閉めた。
「開けてください!」
と門を叩く三人に、扉越しに言った。
「……お前ら、仲がいいんだろ? 炊き出しの時『今度は負けない』と言ってたじゃねぇか。
三人で一緒に手を繋いでどこか遠くへ逃げろ。今度は絶対何があっても手を離すなよ。離したら――負けだ」
それを聞いて、末次郎は門を叩くのをやめ、まだ門を叩き続けてる幾代蔵の右手を、龍太郎の左手を、ぎゅっと掴んだ。
「二人とも、行こう……」
末次郎は二人よりも少しだけ年上だから……。二人よりも少しだけ大人の言う事の意味は解る。だから――。
「行くって、どこへ?」
「高槻に。ぼくの家に一緒に帰ろう。そしたら、ぼくの父上がなんとかしてくれるよ」
大阪の町からだいたい五里。子供の足ではかなりの距離だ。
末次郎も家から大塩の屋敷まで、去年父に連れられて来た一度しか歩いていない。わかるのは方向だけ。
だが二人の手を引っ張って、走り出した。
「末次郎、手……痛い……」
「我慢しろよっ! 負けたくないだろ!?」
子供一人が駆けて行くのなら、誰も気に留めなかっただろう。
しかし三人が手を繋ぎ合って駆けて行くので、大阪の町人たちは何事かとその小さな背中を見送った。
* * *
兵衛は眉間に皺をよせたまま、屋敷へと戻る。
――はたして、あいつらはちゃんと解ってくれたんだろうか。
やはり自分が、どこか安全な所へ連れて行くべきだったのだろうか。しかしそれでは時間が――。
頭を掻くのに腕をあげると、懐に入れた着物がもぞりと動いた。
なんとなく「大丈夫や」と、ミズホの声が聞こえた気がした。
改めて屋敷に残っている人間を探し、裏庭へと行く。
すると――書庫の扉が開いていた。
「あなたでは話になりません。大塩先生ともう一度、話をさせてください!」
「問答無用!」
男の叫び声。続いて、血まみれの男が飛び出してきた。
それは昨日の夕方、一瞬だけ目があったあの来訪者だ。
再び目が合う。それは昨日と同じ――死を覚悟した目だ。
「そこの方、大塩先生に伝えてくれないか!? 命を――」
駆け寄って来た次の瞬間――。
「かけなくとも――」
背中から貫かれた槍の切っ先が兵衛の腹の三寸ほど前で止まった。
男が倒れると、槍の使い手が見えた。
「……大井、正一郎」
「卯兵衛……これや……」
返り血を全身に浴びた大井は、産まれたばかりの獣に似ていた。
「これが、人殺しの技なんやな……」
震えているのは、初めて人を殺めた恐怖か、それとも――。
「これで、オレもお前と同じ場所に――」
「違う」
兵衛は無意識に、服越しに懐の着物を握っていた。
「オレは……戦いの果てに殺し合いになっても構わないと思っている。相手が死んでも、己が死んでも、覚悟の上だ」
ミズホの声が頭に響く。
「だが、この男は戦おうとしていなかった。腕だって十分お前の方が強かっただろう。なのに何で話ぐらい聞いてやらなかったんだ。
死の覚悟を決めた男が、命の際に放とうとした言葉を、何で聞いてやらなかった」
――人の道を外した男に、女が惚れると思うか?
「オレは修羅だが、お前は外道だ」
大井の目が見開かれた。
「オレは、お前とは――違う」
「黙れぇ!」
大井が槍を突く。しかし兵衛はそれを避けると、柄を掴み引っ張る。
体勢が崩れた大井の頭に、回し蹴りを食らわせた。
「お前相手に本気にはならん。少し眠ってろ」
そして名も知らぬ男の躯を、仰向けにさせ手を組ませる。
人の気配で振り返れば、細い目が兵衛と合った。
「大塩……お前が大井に命じたのか」
大塩は答えずに背を向け、廊下を戻る。
「来い、人が集まってきた」
兵衛は男に向かって手を合わせると、大塩の後に続いた。
* * *
天保八年二月一九日辰の刻。
火の手の上った大塩平八郎の屋敷から、三機の大砲が、塀を倒して現れ――大阪天満に火薬の匂いが立ちこめた。
「大塩門下、二十余名、救民のため立ちあがる! この天下の全ての民。富める者も、貧する者も聞くがええ!
政治に当たる器でない者が、この国では国を治めとる! 民が困窮するような政治が行われれば、国は滅びる!
今こそ天誅を食らわせろ! 自らの手でこの国を変えろ! お前たちには――民にはその力があるっちゅう事を、思い知らせてやれ!
義ヤ憤ナリ、維レ新ナリ! 新しい日本を見たい奴は――わしに続け!」
大塩の列はたちまち三百人に膨れ上がった。
豪商たちの家を襲い、米や金銀を奪い、ばら撒きながら練り歩く。
やがて奉行所に掛る橋にやって来ると、大塩の合図で砲撃が始まった。
しかし相手も武士。泰平の世とはいえ、武術の訓練を受けて来た者たちだ。
「怯むな! 相手はただの百姓だ!」
馬上から叫ぶのは跡部良弼。大塩の告発文にも名を書かれた奉行所の与力だ。
「……何が、起こってるんだ?」
奉行所の武士たちが次々に跳ね飛ばされていく。
砲弾のせいではない。ただ一人の男が先頭で舞っていた。
それは大塩の憤怒が具現化したかのような、鬼の姿をしていた。
その気配に、跡部の馬が驚き、落馬した。
「跡部殿!」
「わしの事はええ、隊列を乱すな!」
指揮官の負傷に、ますます現場は混乱する。
大塩たちは分隊し、大阪中を火の海にした。
その炎の中逃げる人々は鬼を見た。それは大塩平八郎の事だ――と、言われているが――。
「……やっぱりもの足りねぇな。誰かオレを本気にさせてくれ」
その鬼の呟きを聞いた者は、誰もいない。
そして奉行所側にも援軍が来る。
鉄砲の名手、坂本鉉之助は、大塩党を鼓舞するように踊る鬼に狙いを定めた。
笠に大塩側の猟師が放った弾が当たったが、怯まず、引き金を引いた。
狙いは正確なはずだった。 だが鬼はそれを避けた。流れ弾が別の者に当たった。
「梅田さん!?」
誰かの叫び声で振り返った兵衛は、自分の後ろで人が倒れているのを見て、止まった。
額が貫かれているのは――連判に名を連ねていた浪人だ。
ここは戦場で、彼は武士。覚悟は出来ていたろう。しかし――。
「……し、死んでる……」
百姓たちは、初めて目の当たりにした『戦死』に恐怖に囚われた。
一人が耐えきれず逃げ出すと、もう止まらない。
我先にと、怪我人ですら押しのけ、散り散りに逃げる。 そこに奉行所側が攻めてくる。
兵衛はただ……立ちつくした。
――なんだ、コレは……。
改めて、周りを見渡せば町が燃えている。 大塩が守るといっていた民たちが怪我をし、倒れている。
――コレが、大塩が命を賭けてやりたかった事なのか?
「出来る限り、生け捕りにするんや! 冷静になれ! 抵抗せんものは攻撃すんな!」
もしかしたら相手方にいるかもしれぬと思ったツワモノは、いない。
いや――腕の立つものはいたかもしれないが、本気を出せる相手ではない。
自分が求めていたのはコレではない。
――オレは、一体何をしたかったんだ……?
自分の後ろを勇ましい声を挙げてついてきたはずの百姓たちが逃げていく後ろ姿に、スゥっと冷めていくのを感じた。
いくら自分が奮闘しても、後ろに立つ者がこれでは……城を攻め落とすなど、できるはずはない。
組み伏せられ、縄をかけられても、抵抗する気力すら失っていた。
「……くだらねぇ」
その呟きが己に向かって発せられた物と勘違いした奉行の与力が、兵衛の頬を殴った。
――腹減ったし……はやく、帰りてぇな……。
奉行所に引っ立てられた兵衛は懐の着物を取り上げられた。
他に武器も無く、なんでこんなものを大事に抱えていたのか、役人たちは首を傾げた。
「で、お前はどこの誰や?」
「そんなの、オレが知りてぇよ」
「ふざけるなや!」
そこに、また新たな捕縛者が現れた。
「……卯兵衛さん……?」
柏岡伝七とその家族。そして源右衛門の妻と子供たちだった。
「あんた、ここで何しとん!? あの子置いて、何しとんの!?
約束したやろ、あの子泣かしたら、絶対許さんて……。
あんたが、ここに居ると知ったら……あの子泣くやろが!」
「……ミズホに似た顔で泣くなよ」
般若寺村百姓代、柏岡伝七――自宅にて捕らわる。抵抗はしなかった。
同様に屋敷にいた柏岡家の者も捕らわる。源右衛門は未だ見つからず。
般若寺村農間日雇い、卯兵衛。現場にて逮捕。 家族は――。
「いない? ……女房もいないのか?」
「ああ」
――まだ、な。
* * *
同刻。炎に包まれた大阪の町を見下ろす二人の少年が居た。
河合八十次郎と、吉見英太郎だ。
「正しい事をしたんですよね、オレたち」
英太郎の問いに、八十次郎は答えなかった。否、答えられなかった。
「オレたちが、やらんかったら……もっと被害が増えてたんですよね!?」
八十次郎は無言で、手に持った袋から一掴み取り出した。光を反射して輝くのは――銀。
「……先生は、こんだけの銀があれば……何人救ったやろうな……」
「八十次郎さん……」
「オレたちは、こんだけの銀の為に……何人……」
震える手で、銀を袋に戻した。
「民の為に仲間を裏切ったオレ達に渡す銀があんのに……なしてコレを、直接民の為に使わへんかったんやろうな……」
そして高々と振り上げると、渾身の力で叩き落とした。
「くだらんわ、ドアホォ!!!」
ガラスが砕ける時に似た音をたて、八十次郎と英太郎の足もとに銀が散らばった。