III, Calamity Jane – 疫病神ジェーン –
西に向かう雷にビリーがついてきて数ヵ月。
山を越え、アリゾナ州のある町に着いたとき、ビリーが農場でカウボーイの仕事を見つけた。
「へへへ、どう? イケてんだろ?」
カウボーイの衣装を得意げに見せびらかすビリーを見て、雷はもうビリーが悪さする事もないだろうと安心して再び旅立とうと思っていた。
「アズマ……オレ、農場のおやっさんに色々聞いたんだ。どうやら西に行っても海を横断する船はないみてぇだよ」
「え? そうなの? まいったなぁ……。ここまできて東に戻るのもなぁ……」
だが、雷の顔はちっとも深刻そうには見えなかった。それがビリーにはすごく不思議に思えた。
「アズマ……お前、本当に帰りたいの?」
「え?」
「なんで帰ろうと思ってるわけ?」
「来たくて来た所じゃないから……なんとなく?」
「なんだよそれ。アズマの母ちゃんは生きてるんだろ? すごく心配してると思うぜ?」
「……日本には帰りたいけど、家に帰りたいわけじゃないし」
家族の話題を出すと雷が一瞬不機嫌な顔になるのは分かっていた。
だが、ビリーはあえて引き合いに出したのだ。
「ビリーだって家出してるんだろ?」
「オレはお袋が死んだからさ。兄貴はとっくに独り立ちして、連絡もよこさないし」
「……親父さんは?」
「本当の父親は戦争で行方不明。新しい親父とは、毎日殴り合いの喧嘩してたよ。
……アズマんとこはさ、親父も、お袋も、兄貴も……ずっと一緒だったんだろ?」
「ずっとってわけじゃないさ、兄貴もオレもフラフラしてたし」
「でも帰る家はあるんだろ? そこに親父もお袋もいるんだろ?」
ビリーはなるべく明るく笑いかけた。
しかし雷がどんな顔をしているかは見えなかった。話の途中で顔をそらしたから。
「オレは、そこから逃げてきたんだよ」
「大丈夫だよ。許してくれると思うぜ。家族だろ? ……まぁ、二発ぐらいは覚悟しとかなきゃいけないと思うけど」
「親父と、兄さんから一発づつ……って事?」
一瞬、雷がブルリと身を震わせたかと思うと、真っ青な顔でカタカタと小刻みに震えだした。
「……そんなに怖いの?」
「怖い」
「じゃぁ、オレと一緒に農場やらねぇ?
アメリカ一の農場作ればさ、きっとアズマの名前が日本にも届く。
遠くから名を届けるぐらいなら、拳は飛んでこないぜ」
「農場……? なんで農場?」
「まぁ、オレの夢ってやつ?」
「夢……?」
「アズマには、ないの? 自分が死んでからも永遠に……名を世界に残すようなさ!」
「オレの、夢……? オレの名を残す……?」
その時、雷の視界が突然明るくなった。
今日は天気が悪いから、太陽のせいではない。
だが――確実に、世界が輝いた。
夢や名という単語は呪いの言葉だった。
だが……ビリーが問うたのは、一族の夢や名の事ではない。
雷という、イチ個人の夢と名だ。
「……わからない。でも、欲しい」
「ん? 何を?」
「夢が欲しい……! オレだけの、夢が欲しい!」
「じゃぁ、見つけに行こうぜ! それまでオレの夢につきあえよ!
オレの初仕事! 夢への第一歩! モンタナまで幌馬車飛ばすんだ!」
「モンタナまで、どのくらい?」
「飛ばしに飛ばして、夏までにはって所かな」
そう言ったビリーの背後にある窓の外には粉雪がちらついていた。
「ずいぶん大きな第一歩だね」
「アメリカ一の農場作るんだ。初めっからこんぐらいしなきゃな!」
「……なるほど。でっかいよね、アメリカは……」
そして恐ろしい事に、そのアメリカでさえ世界でもほんの一角だ。
――本当にうちの一族は馬鹿だ……。
兄はともかく、甥が辛い目にあうのはちょっと可哀そうだ。
雷がため息をついた理由を、ビリーは知る由もなかった。
* * *
ビリーの幌馬車で年を越し、吹雪の冬を越えて、無駄に開放的な春を駆け抜けて、夏の兆しが見えてきた。
乗り合い幌馬車での出会いと別れを繰り返し、ついにモンタナの州境に流れるプラット川にやってきた。
ビリーの仕事はこの川沿いにある町まで、物資を届ける事だ。
それが終われば、またアリゾナまで客を拾いながら帰る。……そのハズだった。
川沿いを走っている時、ふと雷が馬車を止めさせた。
「どうした、兄弟」
「……まだ水泳には早いよねぇ?」
初夏とはいえ、モンタナは北国だ。北緯でいえば、雷の故郷よりずっと北だ。川の冷たさは想像に難くなかった。
その川を、着衣のまま泳いでいる人物がいる。金髪の……女だ。雷よりも年下に見える。
ずいぶん疲れている顔をして、事実息継ぎもままならないようだった。
「おいおい、なんだありゃ。人魚にしちゃ下手な泳ぎだぜ?」
ビリーの軽口も言い終わらないうちに、雷は上着と荷物を放り投げて、川に飛び込んだ。
暗く冷たい川に沈んでいく少女を掴み、抱きしめて水面に向かう。
少女の着ていた服は、軍服だった。
――こんな子が兵士なのか?
しかし、自分の疑問など後回しだ。
急いで岸に泳ぎ着き、慌てふためくビリーに薪を拾わせている間、人工呼吸をした。
人体の仕組みは、誰よりも詳しい自信があった。
――皮肉なもんだよな……。
人を殺すための技を極める為に、人を生かす技も覚えるなら……
ご先祖の誰かがそこで止めておけばよかったんだ。
「……ごぶっ」
声、というよりは音を立てて、少女が水を吐いた。意識も少し戻って来たようだ。
「大丈夫? 自分の名前、言える?」
「ジェーン・マーサ・カナリー……。
カスター将軍よりクルック司令へ、伝令を預かってます。ここはフェッターマン砦ですか?」
「残念だけど、違うよ」
ジェーンと名乗った少女は、意識は戻ったが、まだ朦朧としているらしい。
雷の否定も分からないのか、ガタガタと震える手で、書簡を差しだした。
雷は困った顔で、ついそれを受け取ってしまった。
そこでようやくビリーが薪を持ってきた。
「ビリー、火をつけて」
「お、おう!」
言われた通り、火を起こそうとしたが……雷を見てぎょっとした。
「おいおい、兄弟……さすがにそれは、如何なものかと……」
「馬鹿。濡れた服を着せたままにしておけないだろ」
ジェーンの軍服を脱がすと、素早く自分の脱ぎ捨てた上着で包んだ。
「それからビリー、フェッターマン砦ってどこか知ってる?」
「んーと……ここから川沿いに上った所。近くだよ。百マイルも離れてない」
「それって何日ぐらい?」
「馬車で一日、かな?」
「じゃ、服が乾いたら飛ばして。彼女はそこに行きたいみたいだ」
彼女は熱も出していたようだ。
フェッターマン砦へ向かう間、ビリーと雷は交代で彼女の世話と馬車の操縦をした。
昼夜を問わず走り続けて辿りつくと、熱でうなされるジェーンを抱え、門へと向かった。
「……何の用だ?」
ヘラヘラとしたカウボーイの少年と、熱に浮かされた白人の少女を抱えた中国人っぽい少年。
門番から訝しい視線を投げかけられるのも、当然だろう。
「オレらは別に用はないんだけど、この子は用があるみたい」
「クルック司令って人へ伝令だって」
両手が塞がっている雷に代わり、ビリーが書簡とジェーンの軍服についていたバッチを差しだした。
「……確認する。しばらくここで待ってろ」
「この子は熱があるんだ。中で寝かせてやってくれよ」
しかし門番は一瞥もせずに中へと向かった。ついて行こうとしても別の門番に止められる。
すぐに戻って来ると思えば中々帰ってこないので、仕方なく馬車へと戻った。
「チェッ、役人仕事なんだから!」
ビリーが悪態をつきながら、ジェーンの額に張り付いた前髪を払ってやった。
「ヤバいぜ、アズマ。どんどん熱が上がってる。医者に診せないと……」
「でも彼女がいないと、きっと信用されない」
「クソ、早くしろよなクソ軍人!」
「コホン!」
咳払いに振り向くと、さっきの門番が立っていた。
ビリーは気まずそうに笑ったが、門番は淡々と、事務的に伝えた。
「確かに、カスター将軍からクルック司令への伝令を受け取った。
伝令の中にあったカスター将軍の命により、ジェーン・マーサ・カナリーの従軍を解任する」
「……え?」
「これからインディアンとの戦争が激化する。そこに女性がいるのは心苦しいとのカスター将軍の心遣いだ」
「そう……。でも、彼女熱があるんだ。医者に診てもらえない?」
「砦の中に入れるのは軍人だけだ。医者も軍医。軍人以外は診ない」
「酷い熱なんだぜ?」
「診せてもいいと許可は貰ってない。これから許可をもらえば、三日待ってもらう事になるが、良いか?」
「三日もほっといたら、死んじゃうぜ! なんとかしてくれよ」
「私の仕事はもう終わった」
門番は踵を返すと、一瞥もせずに持ち場へ帰っていく。
「この、ファッキン石頭!」
ビリーがホルスターから銃を抜いた手を、雷が押さえた。
その時一瞬、雷が驚いたのはビリーの行動からではない。――ホルスターから拳銃を抜く速さと、正確さ。
本当は、ホルスターに伸ばした手を止めるハズだったし、銃口は真っすぐに門番の左の肩甲骨の下を狙っていた。
「……ダメだよビリー。あいつを撃ったって彼女が助かるわけじゃない」
「でもよぉ……」
「いいから。ここから一番近い町に行こう。町にも医者はいるだろ?」
「……金は?」
「金ならあるさ」
雷が指差したのは、片時も離さずにビリーにも触らせなかった袋。あの宿屋で稼いだ給料だった。
* * *
町に行き、病院へと向かう。そのドアには「白人専用」というプレートが下げられていた。
雷は構わずドアを開けると、ヤギのように痩せた初老の医師が、冷たく光る銀縁の眼鏡の向こうから睨んできた。
「……英語が読めないのか?」
「読めるよ。治療が必要なのはこの子の方だ」
と、ビリーが抱えているジェーンを示した。
「見ての通り、この子は白人だ」
「まぁ、今は熱で赤いけどね」
「ビリーは黙ってて」
医者は相変わらず険しい表情で睨み、冷たく言った。
「金は持っているのか」
雷は袋を投げ渡した。
「そこから必要なだけ取ってくれ」
医者は袋の中身を乱雑に机の上に広げると、一つ一つ仕分けしていく。
「……女物ばかりだな。どこで盗んだ?」
「プレゼントされたんだよ」
医者はフンと鼻を鳴らすと「全部だ」と言い、袋に戻した。
抗議の声を上げたのは、ビリーだった。
「おいおい、じいさん。オレは病気の事はわかんねぇけど、その袋の中身の価値はわかるぜ。
アズマが白人じゃねぇからって吹っかけてんじゃねぇぞ! おい兄弟、なんか言ってやれ!」
「いいよ、それで」
「だってよ、聞いたかヤブ医者が! ……って何言ってんだよ、アズマぁ!」
「……それで、本当に彼女が助かるならね」
「料金以上の働きも、料金以下の働きもするつもりはない」
医者がビリーからジェーンを受け取ると、診療台へと寝かせ、目だけ二人を振り返った。
「さぁ、出てってもらおうか。黄色い猿に病院内をうろつかれたくないし、
ご婦人がこの治療を受ける姿を、男性に見せるのは少々気が引けるのでね」
病院からつまみ出された二人は、どちらからともなく顔を見合わせてへらっと笑った。
「ともかく無事医者に診てもらえてよかったよ」
「……本当によかったのかよ、アズマ。 あんだけ言われて言い返しもしないし、あの金だって、お前がいつか日本に帰る為に使う、大事なものだろ?」
「……家訓みたいなものかなぁ。余ってるんなら、足りない人に分けるのは当たり前だろ?
金なんて生きていればなんとかなるよ。でも彼女が生きるには金が必要だった。それだけだよ」
「アズマの家って、神父とか牧師とか、そういうの?」
「違うよ」
むしろその真逆――と、心の中だけで続けた。
「でもよ、あの医者、いくらなんでもボッタクリすぎだぜ?」
「それはオレも思うよ。だからこそ、絶対に治してもらわないとね。
ビリー、彼女のお見舞いに行ってくれる? ちゃんと治療されているか監視しなくちゃ」
「いいけど……アズマは?」
「だって、オレは行けないだろ? 馬車で大人しく待ってるよ」
と、ドアにかかったプレートをコンコンと叩いた。
* * *
それから数週間。
毎日見舞いに行くビリーの様子が、いつからかおかしい事に気がついた。
初めは毎日、あの医者がどんなに嫌な奴かを愚痴っていたのに、
徐々にジェーンの回復の様子を話す方が多くなった。
見舞いにいく時間も長くなって、最近は朝から夜まで帰ってこない事も多かった。
そしてある日、大きなため息とともにビリーが言った。
「よう兄弟。どうやらオレ、ジェーンに惚れちまったかもしれねぇ」
「……ああ、そう?」
確かにジェーンは可愛い女の子だとは思うが……。
ビリーは呆けたような顔で空を見続けて言う。
「ジェーンがだいぶ良くなってさ、なんで軍服着てたのか、聞いたんだ。
……ジェーンは、十年も前に両親を亡くして、五人の幼い弟妹たちが離れ離れにならないように、年齢を五歳も偽って働いてたんだって。
んで、軍隊に入って……インディアンの暴動を鎮める部隊に従軍したんだって」
「……彼女も戦ったの?」
とても、戦えるような体つきには見えないが。
「将軍を庇って奮戦したらしい。軍では平原のヒロインって呼ばれてたって」
――あの細い腕でねぇ……。
とても嘘っぽい話だと思った。
「でも女の子だろ? すごく辛かったんだと思う。……彼女、時々泣くんだ」
「……誰もいない所で?」
「オレが傍にいると、安心して泣けるんだって」
「あー……」
「オレが彼女を守らなくちゃ!」
「あのさ、すごく言いづらいんだけど……お前の為だと思って言うよ。
男と二人っきりの時にしか泣かない女は、気をつけた方がいい。
特に身の上話をしながら泣く女は……」
「それもお前ん家の家訓?」
「んー、実体験に基づく教訓、かな?」
「アズマは世界中の女を知ってるわけじゃないだろ?」
「お前よりかは知ってるとは思うけど」
「でも彼女の事はオレの方が知ってる! お前より長く一緒にいたんだから!」
惚れた腫れたの色恋に他人が口を挟むのは、ものすごく無駄な事なのかもしれない。
でも長い間苦楽を共にした友人が、再び道を踏み外すかもしれないと思うと、不安になった。
「オレ、彼女が回復したら、彼女の家に送るんだ」
「……どこまで?」
「近くだよ。ワイオミングと、サウスダコタの州境だって。ここから少し東南」
「どのくらいかかる?」
「ひと月、半……かな?」
「オレの国では、それは遠いって言うけどね」
やはりアメリカは広大だ。
* * *
それから数日、ジェーンがすっかり歩けるようになると、医者は礼を言わせる間もなく追い払うように病院から出した。
ノックをしても、「白人じゃない奴はお断り」と突っぱねるだけだった。
――でも、まぁ……ジェーンが回復したわけだし。
振り返れば……。
「ビリー、ありがとう! あなたのおかげよ!」
デレデレとキスの雨を受けるビリーがいた。
――ああいうのは、何回見ても慣れないねぇ……。
なんとなく釈然としない気分なのは、日本人の自分にとっては気まずい光景を目の前で見てしまったからだ。
……と、その時は思っていた。
ビリーの幌馬車に同行したジェーンは、馬を操るビリーの隣に四六時中ベッタリとくっついていた。
荷台で、聞きたくもない甘い会話を気まずそうに聞いている雷の事は、二人とも顧みようともしない。
――神様。今だけ英語を忘れさせてください。
他国からの来訪者にすぎない雷の願いは、この国の神様には届かなかったらしい。
耳をふさいでも二人の会話が手をすり抜けて聞こえてくる。
「十五の時、お袋が悪漢に襲われそうになってさ……
それを助ける為に……オレは人を殺してお尋ね者になったんだ……」
――嘘つけ。 娼婦の洗濯物泥棒が関の山だったくせに。
「……今回の戦争で夜襲があってね……私を逃がしてくれた上司に伝令を頼まれてたの。
夜、暗い中おびえて走ったわ……冷たい川を泳いで、九十マイルも離れた砦に、書簡を渡したの」
――おいおい、あんたが書簡を渡したのはオレだぜ……?
まぁ、そこはいい。別に礼を言われたくてやったわけじゃないし。
「その帰りに……意識が朦朧として、倒れちゃったの。記憶がすごく曖昧だわ。
あなたが助けてくれなければ、どうなってたか……」
――ん?
「おまけに、治療費まで……ほんとうになんて言っていいか……」
――ん? ん? んー?
「気にするなよ……元々綺麗な金じゃねぇんだ。
ジェーンの為に使うんなら……オレが命を奪った奴らも浮かばれるさ」
――どういう事になってるんだ?
二人の会話を纏めると、唯一の肉親の母親が乱暴され、ビリーがその犯人に復讐を果たした。
その後、アメリカ各地を強盗して金を稼ぎ、同じく波乱万丈な人生を健気にも生き抜いてきたが、ついに傷つき倒れたジェーンを見つけ、助けた事になっているらしい。
纏めてみても、支離滅裂で前後の関係性すら曖昧で、多くの矛盾に満ちていた。
――つーか、あの金はオレが稼いだ金なんだだケド……。
働いた場所はともかく、手段は至極まっとうに手に入れた物だ。
それを強盗で得た汚い金だって?
じとーっとした目でビリーの背中を穴があく程睨んでやったら、念が通じたらしい。
ビリーがこっそり振り返って、手を合わせて口の形で「Su mi ma se n」と言ったので、 中指を立てて口の形で「ファック」と言ってやった。
ビリーとジェーンは昼間はベッタリとくっついてはいたが、夜は律義にもはバラバラに寝ていた。
「本気の相手は大切にしたいからね。ここで抱いちまったら、今までの女と一緒だ!」
――今までの女ねぇ? ……適当にあしらわれてる所しか見た事ないけど……
そしてビリーはこそっと雷に耳打ちする。
「それに、ジェーンはまだ純潔だから……」
――年齢を五つも偽って弟妹五人も養ってて?
雷の脳裏に、一瞬あの売春宿の女たちの顔が流れて行った。
みんな、ジェーンに似たような苦労話を笑いながら話し、決まってこう結ぶ。
“女が手っとり早く大金稼ぐには、これが一番確実なんだ”と。
「……本気なの?」
「当然! オレと雷と、ジェーンと、子供たちでアメリカ一の農場作るんだからな!」
「なんか、一気に関係者増えてるんだケド……」
「なんだよー、焼きもちかよー」
「違うよ」
「雷もアメリカで女作っちまえばいいだろ? ああ、もちろんジェーンはダメだぜ?」
「ジェーンは好みじゃないよ」
「珍しいな、お前がキッパリ言うなんて。オレに気を使わなくってもいいんだぜ?
ジェーンが魅力的なのはしょうがない事だから……」
雷はビリーに背を向けて、サッサと寝たふりをした。
そんな毎日を何回か過ごしたある夜。
雷は寝言でもジェーンを口説いているビリーを跨いで馬車を出た。
日本の野道と違い、身を隠すような草も生えていない荒野で用をたすのは初めは戸惑ったが、慣れてしまえばなかなか解放感がある。
すっきりとして顔を上げると、ジェーンがランプを片手に立っていた。
「……男の小便覗くなんて、いい趣味してんね」
「ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃなかったの……」
もじもじと、自分の服の端をにぎって目を伏せた。
「その……私も、同じ用で……」
「そ。気をつけてね。オレには小便覗く趣味はないけど……夜は獣もいるから」
満天の夜空に、どこからか狼の遠吠えが響いた。
「え……ちょっと、近い……よね? 昨日はもっと遠くから聞こえてたのに」
「ここら辺に巣があるのかも。 まぁ大人しくしてれば襲ってこないよ。動物だって人間が怖いんだ」
「でも……人が襲われたって話も聞くし」
「その人はきっと、縄張りを荒らしたんだよ。 ただ通過するだけなら、なにもしてこない。
……人も動物も、争いなんか本当はしたくないからね」
その時、突風が吹いた。
それで石が飛んで足元で弾け、ジェーンは大げさなぐらい驚いて雷に抱きついた。
ランプが地面に落ちて周りの赤い土を照らす。
「……ごめんなさい……私、夜が怖くて……」
カタカタと肩が震え、雷の胸に顔を埋めた。
「母さんが死んだのも夜……父さんが死んだのも夜……。
仲間が死んだのも、夜……。私から大切な人を奪う夜が、怖い……」
「ジェーン……夜は怖くないよ。だって……」
雷はジェーンの肩をぐっと掴み、もう一つの手を頬にあて、目を合わせた。
ジェーンの目元にはうっすら涙が浮かび、足元のランプの光でキラリと輝いている。
その様子を見て、雷は安心させるように、にっこりと笑い、優しい声で囁いた。
「本当に怖いなら、足から震えるはずだ」
ジェーンの涙が引っ込み、上目づかいの媚びた目線がつまらなそうな表情に変わった。
「……すごい。涙って自由に出したり止めたり出来るんだ。
女優に向いてるかもよ? ジェーンは可愛いし、スターになれるかも」
「女は生まれた時から女優よ。そして私はいつでも大スター」
フンと鼻を鳴らし、頬にあてられたままの雷の手を払った。
「まったく。金髪のボーヤは簡単に落ちたってのに、つまらない男ね」
「こう見えても、ビリーよりだいぶ年上なんでね。同じ手口には引っかからないよ。
……オレを落として、どうしたかったの?」
「前にあんたがビリーと話してた会話を聞いてたのよ。
私の事、好みじゃないんだって? だから落としてみたかったの。
……んで私を取り合ってくれればよかったのに」
「いい趣味してんね」
「ありがとう」
「ビリーに言ってもいい?」
「いいけど、絶対に信じないと思うわ」
「だろうねぇ……」
「さぁ、もういいわよ。行ってちょうだい」
ジェーンは地面に落ちたままのランプを拾い上げて、雷にシッシと手を払った。
「女の小用覗く趣味はないんでしょ?」
「まーね」
幌馬車の荷台に戻り、相変わらず幸せそうなビリーの寝顔を見下ろすと、不安と不満でわけがわからなくなり、
足を踏み間違えたふりして腹を踏んでやった。
* * *
雷が、ビリーの目が覚めなかったら恨まれてもいいから殴ってでもジェーンから引き離そうと決意を固めた翌日、
事態は急転した。
目的地近くの町で、乗り合い馬車の乗客を拾ったのだが、その客が……。
「わ……ワイルド・ビル・ヒコック!!」
「ん? 何? ビリーの知り合い?」
しかし、その中年男を見て、固まっているのはジェーンも一緒だった。
「アズマ、知らないの? ……そうか、よそ者だもんな。ワイルド・ウェスト・ショーのスターだよ!」
ワイルド・ウェスト・ショーは、サーカス仕立ての西部劇の巡業一座だ。
東部を中心に活動していたので、東部生まれのビリーは何度もヒコックの活躍を見ていたらしい。
「オレ、あんたにすごく憧れてたんだよ! あんたみたくなりたくて、銃の練習したんだ!」
「そうかい、ありがとうよ。ボーイ」
ヒーローに頭を撫でられて、初めは子供のようにはしゃいでいた。
だが、だんだんと子供の頃に憧れていたヒーロー像と、現実のヒコックが全く違う事に気がつき始めた。
憧れが強ければ強い程、その落差のショックも大きいようだ。
ヒコックはとても酒癖も女癖も悪い。
おまけに血が昇りやすく、乗り合い馬車の他の乗客と喧嘩する事も何度もあった。
そのくせ、やけに冷静で頭の回転も速く、自分の不利になるような事は絶対しなかった。
そして何よりも、ジェーンを常に自分の横に侍らせているのがビリーは気に食わなかったらしい。
夜、ビリーがジェーンに問い詰める姿を、雷は目撃した。
「仕方ないでしょ……あの人乱暴だし……私が抵抗したら、ビリーだって何されるか分からない」
「ああ、ジェーン!」
雷は、その数時間前にジェーンがヒコックに「ビリーにしつこく迫られて困っている」と相談している姿を見ていた。
だから彼女がこの状況を舌を出して楽しんでいるようにしか見えなかった。
そして、決定的な事件が起こったのは、サウスダコタのある町についた時だった。
客たちはそれぞれ宿や酒場に入り、アズマとビリーはいつも、町に停めた馬車で寝るのだが――。
「……アズマ、オレ決めた。決着をつけてくる!」
「え? 誰と?」
「ジェーンに、正式に結婚を申し込んで来る!
そうすれば、ヒコックはもうジェーンにちょっかい出さないだろうし、何かあっても法的にもジェーンを守れる! うん! いい考えだ!」
「え? ちょ……」
アズマの制止の手は空しく宙を掴んだ。
その手でポリポリと頭を掻いて、ビリーの荷物からコーヒーを取りだし、湯を沸かし始めた。
雨もポツリポツリと降ってきて、やがて土砂降りになる。
そして、ちょうどコーヒーを二つのカップに注いだ所でビリーがずぶ濡れで帰って来た。
「おかえり」
ビリーは返事もせずに、自分の寝床に倒れるようにうつ伏せたので、
その衝撃でコーヒーを溢さないよう、サッと持ち上げた。
「で、どうだった? まぁその様子でなんとなく予想がつくから、無理に言わなくてもいいけど」
「じぇ……ジェーンの部屋を開けたら……ジェーンが……ヒコックに跨って腰振ってた……」
「あー、そいつはちょっと予想外だ。……キツイな」
「オレ……本気で愛してたんだぜ?
ジェーンが幸せになれんなら、オレじゃなくてもいいよ。 でもなんでヒコック……」
「よしよし、今日はお兄さんが朝までつきあってやるぜ」
「できれば綺麗なお姉さんがいい……」
「……そこで、その返しができんなら、大丈夫そうだな」
あきれ顔でコーヒーをすする雷を、ビリーが上目使いに見上げた。
「アズマにわかるかよぉ、この気持ち。
この世で一番綺麗だって思った女が、この世で一番ムカつく男に、幸せそうに抱かれてんだぜ?」
「……わかるさ」
アズマは馬車の外、雨の降りしきる西の空を見ながらコーヒーを一気に飲みほした。
「だから言っただろ。ジェーンには気をつけろってさ」
「ジェーンは悪くねぇよ。オレが馬鹿だっただけだよ」
「もう、しょうがないな。オレん家来て、姉さんファックしていいぜ」
「え? アズマ、お姉さんいたの? 兄貴の話しか知らないけど」
「義理のだけどね。美人だよ」
「……オレ、アズマと一緒に日本に行こうかな」
「いいよ。兄さんに、人の形がなくなるまでズタズタにされる覚悟があるならね」
「……ショットガンか、マシンガンでも使うの? お前の兄貴」
「銃っていうか……素手?」
「……お前が家を怖がる理由、なんとなくわかった」
「だろ?」
ビリーは鼻をすすると、目の前に出されたコーヒーカップにようやく手を伸ばした。
その時、背後に気配があり、振り返ると……ジェーンがいた。
全身ずぶ濡れだが、雨が肌に当たっても何も感じていないのか、ジェーンの表情に感情は無かった。
「……ジェーン?」
ビリーの問いかけにも、何も答えない。
「……やっと幸せになれると思ったのに!」
そう呟くと、ジェーンは雨の中走り出した。
「ジェーン! 待ってよ」
「ビリー、行くな!」
嫌な予感がして止めようとしたが、雷の腕をするりと抜けてしまい、 追いかけても、ごちゃごちゃとした裏路地にすぐに見失ってしまった。
* * *
雨の中、雷は馬車で待っていた。 今までも町で二、三日別行動を取るのは度々あった。
そのたびにこの幌馬車が待ち合わせ場所になっていた。
でも、今回は――本当に帰ってくるのか不安だった。
雨が上がったら、もう一度探しに行こう。
馬に餌を与えながらそう考えていると――誰かがやってきた。
「おかえり……」
しかし、ビリーではなかった。
「なんだジェーンかよ。ビリーはどこ?」
「なんだって事はないでしょ? 酷い男」
「ジェーン程でもないよ。ビリーはどこ?」
「……あんたって、クリスチャンじゃないんでしょ? もしかしてゲイ?」
「その英語の意味はよくわからないけど、可愛い女の子は好きだよ。
ジェーンを可愛いとは思わないだけで。ビリーはどこ?」
「……可愛くないなんて言われたの、初めてだわ」
「そう? 見た目は可愛いとは思うよ。
でも多少高飛車だったり、多少口や酒癖が悪かったり、多少考えが足りなかったりしても、人の気持ちを絶対に踏みにじらない女の方が、オレは好きだね。
で、ビリーはどこ?」
「私の身の上話、聞きたくない?」
「ビリーの居場所の方が聞きたい」
「ビリーは知らないけど、他の男の居場所なら知ってる」
「それとビリーとどう関係あるの?」
「私の話を聞けば解るわよ」
「……わかったよ、聞いてやるよ」
「女の子が話すんだから、コーヒーぐらい淹れたら?」
「荷台に道具があるから、ご自由に」
「……話してあげないわよ?」
仕方なく、コーヒーを淹れてやった。
ジェーンは一口飲んで「濃すぎ」と文句言ってから続けた。
「私、ヒコックは本気で愛してたわ」
「へー、そうなの?」
「ヒコックがインディアンの女と結婚してる事は知ってた。だからちょっと引っ掻き回してやろうって思ったの。
でもどうすればヒコックが私のものになるのか、どんな女を演じれば落ちるのか、全然解らなかった。
だんだん意地になってきて……絶対に諦めたくなかった。
こんなに一人の男に必死になる事なんて今までなかった。
だから、私――夜にヒコックの部屋に行ったの。
でも全然ダメ……諭されて、部屋に帰された……。
初めて無意識に涙が出てきた。涙が止まらないのも初めて。
しばらく泣いてたら……ヒコックが来たのよ。
ずっと考えていたって……本当はインディアンより白人の女と結婚すべきなんじゃないかって。
私と出会って、その考えがより強くなったって……。
オレがお前を守るって……私の娘の父親になってやるって……」
「ストップ。 ジェーン、子供いるの?」
「ジーンって言うの。里子に出したけどね。今年で三つになるわ」
「……父親は?」
「さぁ? 心当たりが多すぎて」
「……よくもまぁ、ビリーに純潔だなんて言えたねぇ」
「見抜けない男が馬鹿なのよ。続けていい?」
「手短にね」
「……一緒にいて楽しかった男は何人もいるけど……、幸せだと思ったのは、ヒコックが初めて。
もしかしたら、本当に幸せにしてくれるのかもしれないって……そう思った。
だから……ヒコックの薬指にはめたままの指輪を見て思ったの。
私のモノにならないのなら、死んでしまえって」
「え……」
思わずジェーンの顔を見た。そこに表情はなく……口元だけ笑っていた。
「そうすれば…私を愛するフリをしたヒコックを、あの時間で止めて永遠にできるの。
私が必要なのは、偽りでも私を愛したヒコックだけ。
ヒコックが欲しいの! 他の女には絶対に渡さない! 私だけのヒコックにするの!」
「ビリーは……」
言いかけて飲み込み、ゆっくりと言いなおした。
「……ヒコックは、どこ?」
「バーで、ポーカーしているわ」
ジェーンは花のように愛らしく、にっこりと笑った。
雷は弾丸が銃身から飛び出すように駆けだした。
雨はいつのまにか上がっていた。
* * *
雷が大通りに飛び出した時、ビリーがバーに踏み込むのが見えた。
「ビリィーーーーーー! やめろぉーーーーーー!!」
自分が放った叫びが英語なのか日本語なのか、よくわからなかった。
「Vengeance! pimp!」
ビリーが放った叫びが英語なのか銃声なのか、区別がつかなかった。
雷はビリーの襟首を掴むと、素早く裏路地に回り、そのまま壁に押し当てた。
十字に交差した腕が、襟をねじり、ビリーから呼吸の自由を奪う。
ビリーが銃を落とし、苦しげな顔で腕を叩いてきたので少しだけゆるめた。
「お前……アズマ……なのか……?」
「ビリー。お前は……本当に……本当に馬鹿だ!」
バーからは悲鳴や怒号が響いてきて、大通りも騒がしくなってきた。
「ヒコックは……死んだ、みたいだなぁ……」
「ジェーンは、お前を利用しただけだ! こんな事してもジェーンはお前のものにはならない!
お前が好きな清らかで純粋で可愛いジェーンなんて、初めっから、どこにも存在しないんだよ!」
「オレがヒコックを殺したのか……。あの、西部劇のヒーロー、ワイルド・ビル・ヒコックを……」
「……ビリー?」
ビリーの様子がおかしかった。
それは人を殺めた罪悪でも、自分の犯した罪の大きさに対する恐怖でもない。
体の内の一番深いところで眠っていた、人ではない獣が目覚める……。
「そうか……名を轟かせるなんて、簡単じゃないか」
「ビリー、ダメだ……馬鹿な事を考えるな!
農場をやるんだろ!? アメリカで一番でっかい農場を!」
「農場なんて、何十年かけてつくらなくてもいいんだ……。
強い奴をブッ倒せば……名を上げる事ができんだ!」
「違う! 人殺しは英雄なんかじゃない!」
「アズマ……一緒にやろうぜ? アメリカ一になるんだよ!
アメリカ一になれば……世界にも名が――」
「オレはもう……名前は捨てたんだよ!」
雷は再び、腕に力を入れた。
「……ビリー、オレはさ……お前と農場なら、やってもいいって思ったよ。
二人とも、美人な嫁さんもらってさ……子供たちにもたくさん囲まれてさ……。
二つの家族で、仲良く農場やってさ……。
オレらの代じゃなくてもいいよ。子が、孫が、そうやって……アメリカ一の農場作ってさ……。
そんで本当に日本に名が届けば……、オレの名が残れば……。
あの一族にもいつか思い知らせる事ができると思ったんだよ……。
人殺しなんかしなくても……この世で一番になれるってさぁ!!」
ビリーがどんなに腕を叩いても、引っ掻いても、今度は力を緩めなかった。
「人殺しで名を上げられると本気で思ってんなら、今すぐオレを殺してみろ!」
やがてビリーの腕が抵抗をやめ、だらんと垂れると、ようやく雷は手を離した。
ぐったりと、壁にもたれて座るように気絶するビリーを見下ろし、ごしごしと目を拭った。
「ビリー、ここでお別れだ。オレは別の方法を探すよ。
でも、もしお前が農場主になったら……、どんな小さな農場でもいいから、農場主としてお前の名を風の噂に聞いたら……。
絶対にまた会いに行くから……。そんときは、また一緒に幌馬車で旅しよう。
それまで、さようなら……。 Billy the Kid」
雨は上がったというのに、雷の頬に伝う雫は、いつまでも止まなかった。
バーに集まる人々を掻きわけ、町の外へ向かうと、ニッコリとほほ笑むジェーンが立っていた。
「ビリーは見つかった?」
白々しいセリフを吐くジェーンに、怒りも憎しみも湧かなかった。
「……見失ったよ」
「そう、残念ね」
「お前は疫病神だ」
「まぁ素敵ね。疫病神ジェーン。通り名に良さそうだわ」
雷はジェーンの横を通り過ぎ、町の外へと向かった。 ジェーンも真っすぐにバーに向かう。
第一声はどんなセリフにしようかしら。 どんな風に泣けば皆が私に同情するかしら。
そんな事を考えていた。いや考えなくても解っていた。
* * *
目を覚ました時、ビリーはひどく頭が痛かった。前後の記憶も曖昧だった。
――えぇと、たしか……ジェーンの仇を取ろうとして、ヒコックに発砲して、アズマに……。
――あれ? 発砲よりアズマに首を絞められたのが先か?
――っていうか、ヒコックはどうなったんだ?
フラフラとした頭を抱えて大通りに出ると、保安官引きずられている男がいた。
「あいつがヒコックを殺したんだってさ」
「もっと背が低いやつじゃなかった?」
「いいや、オレは見たぜ。金髪の男だった。あいつに間違いない」
「オレが見たのは黒髪だったぜ?」
「でも、あいつが自分で名乗り出たんだぜ? オレがやったって」
「名前はジャック・マックコール」
「聞いたことねぇなぁ……」
数々の噂が錯綜するが、確かな事が一つ。 ヒコックは殺されたのだ。
そしてそれを理解すると、二人の人物の顔が思い浮かんだ。
ジェーンの泣き顔と、雷の笑顔だ。
二人が同時に、ビリーの名を呼んだ幻影を見た。
――ジェーンはどこだ?
きっとどこかで悲しんでいるに違いない。自分が慰めなくては。今度こそ自分が守るのだ。
しかし、ビリーはジェーンを見つける事ができなかった。 雷も馬車に戻らない。
夏が終わるまで待ったが一向に現れないので、町の伝言板にアリゾナへと帰ると残して、一人で長い道を帰った。
その翌年の春にアリゾナに戻ったビリーはしばらく真面目に働いた。
迷子になった雷がここに戻ってくるかもしれない。
その時に「また悪さしてないだろうね?」なんて兄貴面で言うに違いないから、びっくりさせてやろうと思った。
だが、ある夏の日……バーでポーカーをしている時、何かがフラッシュバックした。
血が逆流している。その理由を解らないでいた。
が、ポーカーの相手をしていた黒人の鍛冶屋が放った一言に、その血が臨界点に達した。
「pimp!」
相手のホルスターから拳銃を引き抜き、心臓に向けて発砲した。
女たちの悲鳴、男たちの怒号、バーの喧騒の中、取り押さえられたビリーは笑った。
「あーあ、やっちまった……。人を殺すのはこんなに簡単なのに、農場主になるのは難しいよ……アズマ……」
* * *
雷は西へと向かって歩いていた。
どこにいこうかなんて考えてもなかったが、無意識に西を選んでいる自分が、少し嫌になった。
日本に帰らなくても別にいい。 野たれ死んでも、もういい。
自分だけの夢が欲しいと言ったが、自分が一番したい事がなんなのか、よく解らなかった。
だが……ジルコォ・マッイイツォに連れられて来たインディアンの集落に居た少女。
泣きも笑いもしない少女が気になった。
彼女の事が知りたくて、彼女の使う言葉を覚えた。 煙たがられても、傍にいた。
彼女がやっと話してくれた身の上話は、インディアンならありふれた悲劇の一つだったのだろう。
でも、彼女は泣かなかった。 涙も流さずに復讐したいと言った。 この手で殺してやりたいと言った。
たった十四歳の女の子が、そんな決意をしたのが悲しかった。 いや、その決意をしたのはもっと幼いころだったろう。
そしてアメリカを長い間さ迷った雷は、白人の――いや、ある女の言い方を借りれば”白豚ども”の白人以外の者に対する冷酷さも知っていた。
きっと、目的も果たせずに弄り殺される。 この子は一度も笑いも泣きもしないまま死んでしまう。 憎しみ以外の感情を知らずに死んでしまう。
そんなのは絶対に許せなかった。 死なせたくなかった。
泣いて、笑って、怒ったり、拗ねたり、照れたり、喜んだりして、生きて、生きて、生きて――
「帰るところがなくなるって……どういう意味?」
白人の言葉を解さない彼女に、ワイアット・アープが告げた事を教えた。
「じゃぁ、早く皆に知らせないと!」
集落に向かって走る彼女の背中に、呟いた。
「ニルチッイ……。Omae-ga Ore-no Yume-da」
* * *
ニューメキシコ州のとある町にある売春宿。 そこに葉巻を吹かして新聞を眺める女がいた。
寝起きなのか、金髪の巻き毛はぐしゃぐしゃで、眠そうな顔をしかめて記事を読んでいた。
ネズ・パース族の暴動を鎮圧すべく部隊が投入されたが、その一つの部隊の将軍が殺され、撤退したらしい。
将軍を殺したのはインディアンだが、銃を撃っても倒れず、真っすぐに将軍に飛びかかり、頭をつぶしたという。
生き残った部隊のものは、ガタガタと震えながら「Demon」と呟くばかりだったという。
「うーん、とってもエキサイティングだわ」
「どこがだい。そんな嘘八百の三文記事!」
初老の女が、金髪の女の口から葉巻を奪って吸い始めた。
「まったく、あんたが新聞読み始めるって言うから、ちっとはオツムに栄養回ってきたのかと思えば、そんなゴシップ記事ばっかり!」
「だって他のページは、見たこともない単語や長ったらしい数字ばっかなんだもん!」
「……こんなんじゃ、日本に行くのはいつになる事やら……」
初老の女は鼻から煙を吐いて、ボードに張られてる賞金首のポスターを見た。
ここは売春宿。こういったゴロツキがふらりと立ち寄る事もあるので、新聞についてくるポスターをこうして張り出して顔を覚えておくのだ。
「あ、マダム・シャロン。またボニーの賞金が上がったみたいよ」
「またかい。まったく……ついこの前まで、洗濯物泥棒が関の山の可愛い坊やだったのにねぇ」
ボードに張られたポスターに写ってる得意げな顔は、シャロンたちの知るボニーの頃と、まったく変わってはいなかった。
* * *
西部きっての無法者、ビリー・ザ・キッドは初めての殺人から四年後の一八八〇年に、僅か二十一歳で保安官に射殺された。
彼の墓石にはこう書かれている。
Truth and History
21 Men
The Boy Bandit King
He Died As He Lived
William H. Bonney “Billy the Kid”
the END