満月の影、新月の光 1

shibaigoya

この婚姻が望まれていない事など、始めから分かっていました。

父の身分が低い、というのもありますけれど、私の夫となる源義経様には、すでに懇意にしている女性がいると言うではないですか。
だから、嫁いだその日に義経様の隣に女がいても、驚きはしませんでした。驚いたのは、その女の美しさ。女の私でも目を奪われました。
白い肌に、流れる黒髪。ふっくらした頬に、小さくても厚い唇。そして、凛とした瞳……。
なるほど、他の女を寄せ付けないのも分かります。けれど、私は妻として嫁いで来たのです。
どんな美しい女でも、正室となるのは私なのだから、何も気後れする事などありませ――。

「郷どの。私はあなたと伽をせぬ」

耳を疑いました。
私の身分は低いですが、頼朝様の計らいでせっかく源氏の妻として、源氏の子を産む事を許されたのです。
子を成さないというのなら、私に親不孝になれとおっしゃるのですか?
私が気に入らぬというのであれば、今すぐ離縁してください!
思わず、思いの丈をぶつけてしまいました。すると義経様は困った顔で、白拍子と顔を見合わせました。

私だって、義経様の立場は分かっています。
頼朝様のご命令での婚姻なのですから、簡単に離縁などできるわけないのです。
……でも、それは私だって同じです。私が子を産まぬままなら、これから先、父や母、一族がどうなるのか……。

その夜、私は寝化粧を施し、座して待ちました。
しかし、いつまで立っても義経様は私の部屋に来ませんでした。

私は朝の支度を終えて、なるべく平然とした様子を装って庭に出ました。
するとそこには義経様が静どのと一緒にいて、「おはようございます、郷どの。昨日はよく眠れましたか?」 などと言うのです。
その笑顔は一点の曇りもなければ、意地の悪さもない。穏やかで優しい、菩薩様のような笑顔でした。
私が思わず「はい」と答えると「よかった」と笑いました。
「鎌倉から遠路はるばる来て頂いたのですから、寝具も上等なものを用意させたんですよ」
確かに、とても座り心地はよかったです。
「では、また」
「ごきげんよう」
そうして二人は腕を組み合って行ってしまいました。

私は何をするでもなく、庭の池を眺めていました。
水面に写る顔は、とても疲れた表情をして、とてもぐっすり眠った朝とは言えません。

――私は、何をしているんだろうか。

静どのの涼しい顔とは、あまりにも違い過ぎます。月とスッポン……いや乙姫と亀。
もしも私があのように美しかったら、義経様は、私の部屋に来てくださったかしら……?
そう思ったら水面に波紋が広がりました。私は慌てて目許を拭い、再び目を開ると波紋は治まっていました。
が、私の背後に誰か立っていました。

振り返ると、日を背負って立つ逞しい男がいました。
顔はよく見えませんでしたが、目が慣れてくると彼がしかめっ面をしているのだと分かりました。
「誰ですか?」
「静の兄だ」
そう言われれば、どことなく似ている気がします。眉の形とか……鼻筋とか……。
そんな風にしげしげと顔を見ていると、彼はふいと背を向けました。
「あ、すみません」
気を悪くされたと思い、謝ると、彼はボリボリと頭を掻いて「謝ることはない」と言って去ろうとしました。

「あ、あの。お名前は?」
「陸奥鬼一」
「……何か、御用でしたか?」
「あぁ。だがお前の背中を見たら……何も掛ける言葉が無いことに気づいた」
「どういうことですか?」
「言葉どおりの意味だ。ただ確認するが……お前は頼朝の命令で義経に嫁いだんだよな」
「はい」
「……頼朝に、他に何か命令された、か?」
「他に……と申しますと?」
鬼一どのは、肩越しにヒラヒラと手を振り、「その様子なら、本当に何も無いようだな」と呟いて立ち去りました。

その後、その日は一体どうやって過ごしたかよく覚えてません。屋敷のものたちの視線が痛くて、食事も自分の部屋で食べています。
義経様の郎党にも、私は快く迎えられていないようです。特に佐藤嗣信どのには私が妻である事すら認めて頂けないようでした。
最初は何故かと悩みましたが、鬼一どのがおっしゃった事を思い出しました。

『頼朝に、命令されたか?』

もしかしたら、頼朝様から義経様を監視せよなどと命じられているとでも思ったのでしょうか?
私の家柄は源家の嫁には不釣り合い過ぎて、裏があるとでも思われたんでしょう。
しかし私は女です。戦場には出ません。それ以外の所で揚げ足を取った所で、鎌倉殿になんの得があるというのでしょう。
意図があるとしたら……私の身分が低いので、義経様の子は、自然に下位になる、という事でしょうか。

――それでも、白拍子の子よりかはマシなはず……。

その夜も、次の夜も、義経様は私の部屋には来ませんでした。
しかし次の朝もその次の朝も、義経様は私に会うと
「今日は天気がいいですね」だの「そこで雀が餌を取り合っていました」だの、他愛のないことを言って笑い掛けるのです。
毎朝、毎晩、私はどうにかなってしまいそうです。

その日も義経様は笑って言いました。
「郷どの。顔色が悪いですが……ちゃんと食べていますか?」

……誰のせいで……。

「どうしました?」
「誰のせいだと思っておいでですか? 毎晩毎晩寝ずにお待ち申し上げていますのに!」
「待たれても困ります。夜はしっかり寝なくてはいけませんよ」
「あなたが、一度でも来てくだされば!」
「最初に言ったはずです。あなたとは伽をしません」
「ならば、私を殺してください」
「なんですって?」
「できるはずはありませんでしたね。鎌倉様の息のかかった女を殺しては、反逆罪と取られてしまいますものね!
でも、正妻との間に子を作らず、白拍子に子産ませたとあれば体裁は悪いでしょう!」
「静どのを、悪く言わないでください」

その言葉は、とても落ち着いていましたが、その目はとても鋭く、冷たく、私を貫きました。
さきほど笑い掛けて来た人物とは、全く違う顔……。
私は一瞬にして言葉を失いました。あんなに激昂したのに……言いたいこともいっぱいあったのに……。
殺せと自分で言ったはずなのに、ガクガクと体が震えました。

「……郷どの、私はあなたに謝りません。許しを乞えるほど、ずうずうしくないつもりです」
そう言った義経様は、穏やかな顔をしましたが、目は冷たいままでした。
義経様が去った後も私は震えが止まらず、塀に背を預けてどうにか立っていました。あの目は、とても人とは思えない……。

「あいつは、相変わらず不器用なやつだな。もう少し要領というものを覚えればいいのに」
その声がした方を見上げると、鬼一どのがいます。ようやく生身の人と目が合って、私はほっと胸を撫で下ろしました。
「……義経が言っていた。男なら善い人は心を通わせることはできるが、女の善い人とは心を通わせることは難しい、らしい。お前が憎い訳じゃないんだ」
「……その論法なら、静どのは悪い人になってしまいますが……」
「兄として言うが、あいつが善良な女だと思わんなぁ……」
よく解りませんが、私を慰めてくれているように感じました。
「鬼一どのは、優しい方ですね」
「優しい? オレが?」
「はい。よく言われますでしょう?」
「生まれてこのかた初めて言われた。特に女はみんなオレを怖がる」
「まぁ。皆さん見る目がなかったのね」
照れ隠しなのか、ぽりぽりと頭を掻くしぐさが、とても可愛らしい……と思っては殿方に対して失礼ですね。
「お前は、オレが怖くないのか?」
「義経様の方がよっぽど怖い。あの方は、まるで鬼そのものです」
「鬼かよ……あいつもそんな事言われるのは、初めてだろうな」
「特に女には、ですか?」
鬼一どのが腹を抱えて笑いました。私、ひょっとしたら珍しいものを見ているのかもしれません。

* * *

鬼一が屋敷に戻ると、伊勢三郎がニヤニヤしながら待ち構えていた。
「……なんだ?」
「郷どのも可哀想な方だ、と思いましてね」
三郎の意図が読めず眉を寄せていると、肩を組んでニヤニヤ顔をさらに近づけて来た。
「毎晩毎晩、支度を整えて寝ずに義経どのを待ってるなんて、いじらしいじゃありませんか。オレが義経どのなら静どのに黙って通うっつーのに」
「義経は、そうはしないだろう……多分これからも」
「えぇ、重々承知ですよ、……ただ、郷どのは子を産めないとなると……随分片身が狭くなりましょうなぁ。良くて、離縁させられて、出家させられるとか……」
「なんだと?」
「気を悪くせんで下さいよ。武家の社会での女の役割ってのは子を産む事なんですよ。たとえ男側の問題だろうと子を産まぬ女は……ただの穀潰し」
「……あいつはあまり飯を食わんぞ。むしろ日に日に箸をつける量が減ってるぐらいで……」
「雑仕女でもないのに良く知ってますねぇ」
「腹減った時、厨を覗くと、飯炊き女があいつの食べ残しがもったいないからと、いつもくれるからな」
「そうですかい」
ニヤニヤと笑い続ける三郎に鬼一はますます訝しげな目を向けた。
「……お前は、さっきから何が言いたいんだ」
「陸奥どのが珍しく、強い丈夫おとこではなく、か弱い乙女おとめを気に掛けてるようなのでね」
「馬鹿な事を言うな。あいつは義経に嫁いだ女だ。それに、妹のわがままが原因で迷惑を掛けているようだからな、気に掛けるに決まってるだろ」
「ま、今の所はそういう事にしておきますか」
「何だ、今の所はって」
「まぁまぁ、そういう事じゃないっていうなら、安心ですよ。鬼神が敵手ってんじゃ命があったもんじゃない」
「どういう意味だ?」
三郎の目付きが変わった。口元は相変わらずニヤニヤとしているが、獣の目……いや、牡の目だ。
「言ったでしょ? 子供さえ産めれば郷どのの身は安全なんですよ。
毎晩、切なげに月を見上げる姿を見たら、なんていうか、同情してきちゃいましてね……。
こりゃいっちょ次の新月の夜に義経どののフリをして……」
「てめぇ」
「冗談ですよ、冗談!」
伊勢三郎はいつも通りの、何を考えているのか掴めない、ヘラヘラとした表情で笑った。

0