満月の影、新月の光 2

shibaigoya

今日も夜がやって参りました。

雲は無く、月は高く、真ん丸です。京で見る、初めての満月……。
いつもより明るい月の光は、庭で眠る草花を照らしました。いつものように化粧をして、縁側へ座ります。
月の青白い光を浴びれば、私だって静どのに負けないくらい白い。手をかざし眺めていると、ふと月の光が陰りました。
今日は雲一つないはず。誰かが、光を遮ったのです。
見ると塀の上に……鬼一どのがいらっしゃいました。
月の光を背に受ける鍛え抜かれた体。そよぐ風に靡く夜よりも黒い髪。そして月光を反射する鋭い眼。
この世のものとも思えない姿に、ぞくりとしました。
――殿方を美しいと思うなんて、初めてです……。
一瞬、時を忘れ見惚れていると、鬼一どのが何度か「おい」と呼びかけていらした事に気が付きました。

「は、はいっ! なんでしょう!」
「お前、とうとう飯に箸をつけなくなったな」
どきりとしました。確かに近ごろは、何故かものを口に入れるのが億劫になってきていました。
そして夕餉はとうとう、箸をもつこともしませんでした。何故、鬼一どのが知っているのでしょうか。
「……腹は空かないのか?」
「はい、全く」
事実。空腹感はありません。むしろ口にしたら戻してしまいそうです。
「……そうか」
鬼一どのは何かを考えてる表情をして、続けました。
「でも、皆が心配している」
「心配?」
「あぁ。義経も、静も、な」
「……何を……」
私は、叫びたくなるような感覚を押さえ付けました。鬼一どのに当たっても仕方が無いのに……。
鬼一どのは言葉を選ぶようにゆっくりと言いました。
「……そんなに、義経の子が欲しいのか?」
「私は……解ってます。解ってるんです。義経様は自ら決めた女しか抱かぬお方なんでしょう?
……義経様のお心は、静どののもの。私がそこに割って入ろうだなんて思いません……ただ、子が欲しいだけです」
「……義経に、好かれたいわけではないのか? だから嫁いだのではないのか?」
「だれがあんな恐ろしい人に好き好んで嫁ぎますか! 私は命に従っただけです! あんな人に好かれたいなどと、それこそ鬼をも恐れぬ肝の持ち主でしょうね!」
と、叫んでしまってから口を噤みました。誰かに聞かれたら大変です。それに鬼一どのは、その義経様に好き好んで嫁いだ静どののお兄様です。だけど……
「たしかに、あいつは鬼を恐れぬなぁ。それどころか、あごで使おうとする」
……笑っていらっしゃいます。
「すみません……静どのを悪くいうつもりはなかったのですが」
「いい。あいつは今まで散々甘やかされて来たんだ。お前が来たお陰で、あいつも少しは言動を考えるようになったし、いい薬だ」
変わったご兄妹関係のようです。
「義経も静も、一度決めたら曲げぬ。しかし、お前を心配してるのは事実だ。てめぇで言っておいて勝手な事だがな」
そう言って鬼一どのは包みを投げてよこしました。
開けて見るとそれは大きな握り飯でした。ところどころ具がはみ出していて魚なんて丸々一匹、頭としっぽがはみ出てます。……イワシさん、こんばんわ。
「静からだ」
「え……」
「お前が何も食べなくなったと聞いて慌てて作ってたんだ……っと、言うなと言われてたな……とにかく食べてくれ」
ただでさえ食欲がないのに、こんなに大きな握り飯、見てるだけで戻しそうです。しかも静どのが作ったなんて……。
握り飯をじっと見つめるだけの私に鬼一どのが言いました。
「……食べないと、良い子は産めぬし、乳もやれぬようになるぞ」
そう言われては食べぬわけにはいきません。でもまだ躊躇している私に鬼一どのは続けました。
「良いことを教えてやろう。義経と静はまだ枕を共にしていない」
「え……」
「一応、大事な妹だ。明日死ぬとも知れぬ戦場に出たがる男にやれるかよ」
ニイっと、笑いました。思わずつられて笑いました。
「……安心したか?」
「えぇ、とっても」
私は握り飯をかじりました。数々の味が染み込んでなんとも言えない味わいでした。

* * *

「……で、郷どのは食べたの?」
「あぁ、ゆっくりだったがな」
翌朝、兄の報告を聞いて静はほっと胸を撫で下ろした。しかし次の瞬間、意味ありげに笑いかける。
「で、兄様はその様子をずっと見てらしたんですか?」
「ああ」
「夜に、女の、寝室の前で?」
「……見てただけで、何もしてはいないぞ……話相手にはなっていたが……」
「へぇー。里の女にも京の女にも恐れられた兄様が話し相手ねぇ?」
「だから別に何かしたわけではない」
「当たり前です! いくら陸奥の鬼とて源家の女に手を出してはただじゃおきません」
すっかり武家の嫁になってるなぁ、と思ったが口には出さず代わりの言葉が口をついた。
「……そこまで心配してるなら、お前が話し相手になってやればいいじゃないか」
「私が……ですか?」
今度は静が慌てはじめた。
「でも私、女人とは何を話せばよいのやら見当がつきません……。お母様の弟子の白拍子とは別に稽古を受けていたし……。何を話せばいいかしら?」
「男のオレに聞くなよ」
「それに……きっと私、郷どのに嫌われてるし……」
「当たり前だ。伽ぐらい許してやればいい」
「それは嫌。それに義経様だって困るでしょう」
きっぱり言い切る妹に困ったものだと思いながら、どこかでそれもそうだなぁと納得もする。まったくやっかいな二人だ。

「失礼します、静どの」
障子の向こうから女の声がする。静がそれに答えると障子がスッと開き、郷が現れた。
「あら、鬼一どのもいらっしゃったのですね。昨日はお世話になりました」
「いや……大したことじゃない」
「静どのも、ありがとうございました」
「えっ?」
「 あんな斬新な握り飯、初めて食べました。おかずが全て入っているなんて……。ご飯にも味が染みていて色々な味が楽しめました。やはり京の料理は進んでいますね」
静がじとっと睨みつけると鬼一は目をそらした。
「私も、実家では多少料理を嗜んでいました。東国の味付けが合うかは分かりませんが、今日の夕餉は私に腕を奮わせてくださいね?」
そう言って、郷はクスクス笑いながら去って行った。その気配が無くなってから。静は鬼一に向き直った。

「兄様、言ったのですか?」
鬼一はぽりぽりと頭を掻くだけだ。
「あの形もいびつで、ただ余ったおかずをご飯でくるんで丸めただけの、
でも類い稀なる握力で堅さだけは天下一品の馬鹿みたいに大きい握り飯を、『静が作った』と言ったんですか?」
「……お前だって話しかける機会を伺っていただろ?」
「……ま、不本意ながら、私が作ったという事にしてあげます。貸しですからね、兄様」
鬼一は聞こえるか聞こえないかという声で「すまん」と呟いた。

「それにしても私、あの人の笑った顔を初めて見たわ」
静もまんざらではないように呟いた。朝日に照らされた庭は、いつも以上に気持ち良さそうだった。
すると義経が庭を歩いているのが見える。義経も二人を見つけ、近寄ると静に手を差し伸べた。
「静どの、気持ちの良い朝ですよ。散歩に行きませんか?」
「ええ」
静は笑顔で義経の手を取ると、庭先へと降り立った。それを見て、鬼一は無意識にため息をついた。

* * *

私の料理は思いの外、好評でした。
やはり体を動かす武士たちにとって、西のあっさりした料理より東のこってりした料理の方が良いみたいです。
ささいな事ですが、容姿でも教養でも静どのに敵わないと思っていた私にとって、ひとつでも優位なものがにあると分かったとたん、心に余裕が生まれました。

余裕があれば自分はなんてくだらない事で悩んでたんだろうと思います。
義経様が夜に来ないのは向こうも同じ。ならば正妻である私が何を遠慮しましょう。
御家人たちの目も気にはならず、静どのとも化粧品を薦め合うほどの会話ができるようになりました。
話してみれば、静どのは一見ツンケンしていますが、少々世間知らずな所もあり、自分の認識の違いに気が付いた時の反応はとても可愛らしい方でした。
まるで妹みたい……と思っては失礼かしらね。

けれど、時がくれば、義経様はきっと静どのと寝るようになります。
私の所へくる夜は、永遠に来ない――。

だから、私は義経様が屋島へ出陣なされる時に、思わず願ってしまいました。

――死んでしまえばいいのに。

しかしその願いは叶いませんでした。いえ。あるいは聞き届けられたのかもしれません。
佐藤嗣信どのが、義経様を庇って亡くなられたと聞きました。
嗣信どのはとても忠義に厚い方で、義経様の正妻である私の身分が低いというのを気にかけていました。
根は優しい方ですから、はっきりと言われたわけではありませんが、正直な方でしたから態度には表れていました。
だからと言って憎かったわけではありません。義経様の事だって!

でも一瞬でも死を願ってしまったのは事実。罪悪感が体を蝕んでいます。
義経様は続けて壇ノ浦を攻めるため、屋敷には戻りません。鬼一どのと、静どのも、どこかへ行ったきり。
私は一人で、この大きな屋敷を留守を預かりながら、毎晩震えていました。

この罪は一生私の胸の内にしまっておきます。一人で苦しむ事になっても。
だから御願いします……次の壇ノ浦が終わった後、戻ってきますように。

あの人が……戻ってきますように。

天の神は私を許してくれたのでしょうか。それとも地獄の鬼神の、悪い罠だったのでしょうか。
壇ノ浦で、義経様は予想以上の働きを見せ、平家を滅ぼしたのです。

義経様が凱旋を終え、京の屋敷へと戻った日、私は腕に寄りをかけて料理をつくりました。
皆さん勝利の美酒に酔っておいでで、静どのが舞い始めました。それはとても美しく、皆さんはまるで極楽へ来たかのように惚けておりました。

私は今しかないと思いました。皆が静どのへ注意を向けている今しか。静どのが、義経様の隣にいない今しか!

この宴が終われば――永遠に私は孤独のままなのです。

体が震えました。
いつかのように、あの冷たく、重く、鋭い視線で射貫かれるのでないか。
この酒によってふやけた恵比須顔が、鬼となるのではないか。

義経様の猪口に酒を注ぐと、カタカタと音がなります。

「郷どの。どうされましたか?」

優しいはずのその声に私は身が縮み上がりました。喉が乾き上手く言葉が紡げません。

「郷どの?」

私は意を決して、はっきりと申し上げました。

「今夜、お待ちしております。義経様」

時が止まりました。実際、静どのの動きも、太鼓代わりの皿の音も止みましたから。
義経様がどんな顔をしているのか、分かりません。顔を上げる勇気はありません。ですが引き返す事もできません。
私はつつましやかに顔を伏せるフリをして続けました。

「もう平家は滅びました。戦の世は終わりました。今度は泰平の世を築く時です。その礎となる、子を成しましょう。……私の方は、整っております」

歓声を上げたのは、事情を知らない、下級兵士や、頼朝様側の御家人衆だけでした。

* * *

体が震える……京へ来たころ毎晩待っていましたけれど、ここまで緊張はしませんでした。
どこかで、「どうせ、来ない」と思っていたからでしょう。

でも、今夜は……必ず来ます。
あんな大勢の前で、あんなに盛り上がっていたのです。しかもあの場には何人もの頼朝様の重鎮がいらしています。
これで部屋に来なかったとあれば……疑り深い梶原どのあたりが、頼朝様に何か吹き込むにありません。

けれど……恐ろしい。
あの鬼のような人が、いよいよ部屋にやってくる……。
私を卑怯者と言うかしら。はしたない女だと言うかしら。

私はいつものように縁側に出ました。満点の星空でしたが、月はどこにも見えません。

早く来てほしい……でも、恐ろしい。
このまま星空に吸い込まれたい。
この緊張感から早く解放されたい。
だから、早く――来てほしい。

人の気配がしました。床を裸足で踏み締めてゆっくり歩く音です。
私はびっくりして振り返りました。しかし人影だけで、顔はよく見えません。

――今日が新月で良かった。

どんな顔をしているのか見ないで済む。

「よ「お待ちしておりました、義経様……」

私は影の手を握りました。思ったより大きくて、ごつごつとしています。けれど暖かい。ちっとも怖くない。その手をそっと頬に押し当てました。

「……オ「義経様、この時をお待ちしておりました。ずっと……ずっと……」

影はためらうように身じろぎしました。手を放し、離れようとします。

「行かないで!」

私はその人影に抱きつきました。大きくて、固い胸板……でもやっぱり暖かい。
耳を当てれば、鼓動が聞こえます。紛れも無い人の証……。

「卑怯な女だと思われてもいい。はしたない女だと嗤ってもいい!
あなたをつなぎ止めたいと思ってるわけではありません……今夜だけでいいのです。
今夜だけ、私だけの義経様になって下さい……あなたの子を、産ませてください」

私の肩が大きな腕で包まれました。

* * *

「私は……行きません」
義経ははっきり言いやがった。

「平家を倒しても、まだ終わりではありません。兄上にご報告申し上げるまでが戦です」
確かに、梶原の報告では真実は伝わらないだろう。
だから義経は直接行くと言ったが、梶原が頼朝の命とやらで待機を命じた。
この馬鹿正直な馬鹿野郎は、馬鹿みたいに命が解かれるのを待ってるつもりなんだろう。

「しかし、義経どの。郷どのはどうするんです? あれだけ大勢の前で宣言されたんだ。行かないわけにもいきますまいよ」
飄々と言う三郎を静が睨みつけた。三郎はばつが悪そうにこちらを見た。
悪いが、機嫌を損ねた静はオレにも手が余る。

「誰かが代わりに行けば良いのです!」
静がとんでもない事を言いやがった。

「誰かが代わりに行って、『義経は来ない』と言えばいいだけの事でしょう?
今夜は新月です。顔は見えません。
人影が郷どのの部屋に向かえば、御家人も納得されるでしょう」

しかし頼朝の御家人衆は若い奴も多い。果たして向かう姿だけで納得するか……。
それに、もし他の男が向かったのがバレたら……義経の風評どころではない。郷の命が無い。

この部屋に集まった、静以外の奴は瞬時にそこまで想像できたらしい。義経に至っては顔を真っ青にしている。

「それではあまりにも……やはり私が直接行って話して来ましょう」
「絶対ダメです! 義経様は流されやすいんですから!」

静はキッと忠信を睨んだ。
「あー、オレと忠信は町に女を待たせてるんですよ。急いで行かないと機嫌悪くしちまうんで、外して下さい」
へらへらと笑いながら、三郎は忠信の肩を組んだ。
忠信は一瞬目を見開いたが「そうそう、そうなんですよ」なんて調子を合わせる。
……嗣信だったらこうは行かなかっただろうに……。

「弁慶どのでは、さすがに大きすぎてバレるわね……ということは……」
……何故、そこでオレを睨む。
「そういえば、握り飯の分の貸しを、返してもらっていませんでしたね。兄様」
妹の、このにっこりほほ笑んだ顔が恐ろしいなんて、多分オレだけだろうなぁ……。

* * *

オレの役目はただの伝言だ。
様子を伺う御家人たちから顔を見られないように廊下を歩き、「義経は来ない」と一言伝えるだけ。
あとは塀を越えて、こっそり抜ければ、御家人たちは一晩中、義経が郷の部屋にいたと思うだろう。
覗きに来ようとする無粋な奴らは片っ端から伸してしまえばいい。
ただ「義経は来ない」と伝えた時、あいつはどんな顔をするだろう。
せめての救いは、その顔を見ずに済むという事だ……。今夜は新月だから。

新月といえば、前に三郎が何か言っていたっけな。

『新月の夜に義経どののフリをして……』

……馬鹿な事を思い出すな。

あいつが欲しいのは源氏の子だ。どこの世に、鬼の子を欲しがる女がいるか……。
『女はみんな、オレを怖がる』
『まぁ、皆さん見る目がなかったのね』

あいつが空を見上げている影が見える。
あの影に、「義経は来ない」と言うだけだ。それで、終わる。

あとほんの五歩。五歩歩いたら、言うぞ。

四歩。

三歩。

二歩。

一……。

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