時は経ち、更に二十年。
雷電との死闘の後、兵衛は母に陸奥の証である家宝の太刀を授かったのだが、母が言うにはもう一つ、渡されるものがあるらしい。それは、とある絵師が祖父の為に「陸奥の継承に必要なもの」として書いた絵だそうだが……、正直、たかが絵に何かあるとは思えなかった。
しかし、実家の床の間にある、殴り描きのように見えて、それでいて禍々しい気を吐きだす鬼の絵は、その絵師が、祖父の姿だとして描いたものらしい。絵の事は良く解らないが、その鬼の絵の凄さは、兵衛が強くなればなるほど、理解できた。
――この絵の鬼と、組み合いたい……
この絵を描いた絵師が、陸奥圓明流の継承に必要な物と言い、継承者ではない母には決して渡さなかったという絵がとても気になる。しかしその絵に何が描いてあるのか、そもそも母も見たのか。それを聞くと「お前自身が確かめろ」と言って教えてくれなかった。
もしかしたら――秘伝の技を描いた巻物かもしれん。
そう思って、絵師を探していた。
母の言う事には変人ということなので、よっぽど辺鄙な所にひっそりいると思ってたが……。
「時太郎……?」
「……『葛飾北斎』では、わからんか?」
「あぁ、あのヘンチクリン爺さんか。よくこの辺りを散歩するよ。暫くすれば、通るから、団子でも食べながら待ってなよ」
案外早く見つかりそうだ。
言われるがままに、通り側に座って、団子を食べる。
そう言えばこの団子の包み紙――これにも『北斎』と号が記された絵があった。
――富士と海。
高く荒々しい波の向こう側に、富士が見える。こういう雄大な景色を実際に一度見てみたいものだ。
しみじみと思いながら、茶をすすっていると遠くから、歌が聞こえてきた。しかし、その言葉はてんででたらめだった。
そしてそれが段々近づいてくるので兵衛は顔を上げた。
煤けた麻の着物に汚れた柿色の半纏。
「あーたんだい・たんだーはーだい・たんだーはて」
などと訳のわからない呪文を唱えながら、杖を振り回して歩く老人。
「あれが、葛飾北斎だよ」
「えっ?」
変人というより、これはもうモウロクしてるのでは――?
若干の不安があるが、意を決して声を掛けた。
「……あの、ご老人」
「あーたんだい・たんだーはーだい・たんだーはて」
「……北斎殿?」
「とうかいどう・さかのした・きよたきかんのん……」
呪文に夢中で気がつかない。
「時太郎殿!」
呪文が止まり、老人が振り返った。
「……おう」
そして、また呪文を唱える。
その態度に兵衛は一瞬怒りが湧いた。そしてその気が体外にも流れたのだろう。
つい語気を荒げてしまった。
「時太郎!!」
老人が再び振り返った。
「もしかして……陸奥さんかい?」
その目はぎょろりと大きいのに、何処を向いているのか解らなかったが――少なくともモウロクしているわけでは無さそうだった。
***
時太郎の家に連れられて来た。母から話は聞いていたが、想像を絶する汚さだった。
母は少し掃除や洗濯には煩い。だから実家も常にきちんと片付いていた。
そして兵衛も、母には逆らえぬし、汚いよりも清潔なのを好むので、顔を顰めそうになったが、どうにかごまかした。
「葉月ちゃんの息子かい……なるほど、何処となく陸奥さんに似とる。まぁお前さんの方がシッカリしてそうだがな」
陸奥さんというのは、祖父の左近の事だろうか。
似てると言われても、自分が産まれる前に既に亡くなっていたので解らないが、いつもあの絵の鬼を超えろと言われていたので、なんとなく嬉しかった。
「母者から聞きました。陸奥を継承するのに不可欠な絵がある、と」
「え? なにそれ」
「え?」
「……あー、もしかしてあの絵の事か」
時太郎はガサゴソと、一尺ほどの古い筒を取りだした。紙で封がしてあり、「ステルナ」とでかでかと書かれている。
「陸奥を継承するのに不可欠というか……これは一子相伝の技を伝えるのに役に立つ、というものだ」
「はぁ……」
どう違うのだろうか……さっぱり解らないが、きっと見れば解るのだろう。
「ならば、なぜ母者には渡せなかったんでしょうか」
「女には渡せん」
――やはり、女の身では危険な技なのだろう。
母は負けず嫌いだから、絵を見て、自分のできない技だと思って諦めたから、言えなかったんだろう。
「しかし、これは陸奥さんの為に描いたのだからなぁ……」
――なるほど。祖父の為に作られた技か。
「お前さんと、趣味が合えばいいのだが……」
――趣味?
「まぁお前さん、相当ガタイ良いし、何より若い! 男は度胸! なんでも試してみるもんだ!」
無表情ながら、内心疑問符が浮かんでは消えている兵衛に、筒が投げ渡された。
とにかく、きっと祖父の為に作られた奥義がこの筒の中ある。話によれば、五十年。
――祖父様、あなたの技を……五十年の刻を経て、オレが継ぐ!!
封を切り、取りだした絵は――想像だにしないものだった。
「……これが……祖父に渡す、絵だったのか……?」
「ああ」
兵衛には、絵に描かれた状況が良く解らなかった。
裸の女に、大蛸が絡みついているのだ。しかもそ蛸が吸いついているのは――。
慌てて目をそらすと、もう一匹小さな蛸が女の口を吸っていた。
そして女の顔は、困っているような、恥ずかしそうな、それでいてどこか誘っているような――。
女が蛸の足を握る手もそれは同じ。拒絶し、離れようとしているようにも、もっと快楽を得ようとしてるようにも――。
うねる白い体は蛸の足にきつく絡められ、その肌の柔らかさが引き立てられ――。
「いやぁ、コレで元気になって、子作りに励んで貰おうと思ったのに、陸奥さん中々来ないんだもんな!
その内この絵もどこかに行っちまうし。
でも、コレなら五十六十でも頑張れるだろうと思って描き直したら、今度は陸奥さんがポックリ逝っちまうし。
流石に葉月ちゃんに渡すわけにもいかねぇからさ……。
お、どうした? ブルブル震えて。我慢できねェなら、厠はあっちだぞ?」
「……オレはッ! 産まれた時からッ……! 陸奥の技を仕込まれたッ!
雷電に勝つ為にッ! 雷電と仕合って……」
――殺す為に
「母者は……二言目には雷電、雷電ッ! オレは……その為だけに産まれたのかと……ッ!
何度……何度逃げ出そうかと……。でも、それはやっと報われた……!
雷電に、勝って……ようやく陸奥を名乗り……母から一人立ちし、オレの人生を歩めると思ったのに……。
その門出に、コレか! コレを渡して母者は……オレを、一体どうしたいのだァアアアア!!!」
ボロボロと涙を落とす兵衛に、時太郎はどうしたものかとオロオロした。
「な、なんかスゲェ背負い込んでるみてぇだが、落ち着け、な?」
今までの膿のようなものを吐き出したのだろう。
暫く泣いて、顔を上げ、まだグズグズと鼻をたらしながら、絵を丁寧に丸め、筒に納めた。
そして、しっかりした声で、
「祖父と母者がご迷惑をかけた」
と、とても綺麗な土下座をした。
「いや、別に……気に済んな」
見事すぎる土下座に、流石の時太郎もたじろいだ。
「オレも見苦しい所をお見せした、すまない。これにて失礼する。ご達者で、時太郎殿」
「お、おお。いつでも来いよ、葉月ちゃんはオレの娘みてぇなもんだし、ならお前さんは孫だ」
「かたじけない」
部屋を後にしようとする兵衛をチラリとみて、時太郎はにぃっと笑った。
「……でも、やっぱお前さんは陸奥さんの孫だな、血はしっかり継いでらぁ」
兵衛の懐から、ちゃっかり筒が覗いていた。
完