名もなき空 1

shibaigoya

「……龍さん、いつも一緒にいちょった男はどうした?」
「出海さんなら、行ってしもうた」
武市に尋ねられた龍馬は笑って答えた。江戸から土佐へ戻る途中の事だ。

「そうか。腕が立つそうじゃったから、同志になってくれたら心強かったのに」
「無理じゃ。いくらわしが頼み込んでも、それは嫌がるじゃろうなぁ。
出海さんは海じゃぁ。陸の理とは別の所に住んでおる……所で――」

龍馬は、後方をチラリと振り向いた。その視線の先には一人の若者がいた。
江戸から土佐への帰途につく一団の、常に後方を歩いている、背の高い男。
言葉を発さず、ただ真っすぐに前を睨んでいた。

「あいつは誰じゃぁ?」
武市はニイと笑って答えた。
「出来の悪い弟子じゃ」
「へー。あんな恐ろしい男が、出海さんの他にもおっちょったのか。しかし……違う」
「何がじゃ?」
「出海さんが海なら、あの男は――空かのう?」
「は?」
要領を得ない顔をする武市に、どう説明しようかと龍馬は空を見上げた。生憎、天気は曇天だった。

「今は雲だらけじゃがの、雲一つない空っちゅーんは、ずーーーーーーーっと見上げちょると不安にならんか?」
「そんなに長い間見上げた事はないなぁ」
「武市さんは忙しい人じゃからなぁ。
青しかない空をずーーーーーーーーーーっと見上げちょるとな、空に落ちてしまうんじゃないかと思えてくるんじゃ。
空から地面に落ちるんは、いつか終わりがある。でも空に落ちたら終わりはない。
そんな風に考えると怖くなってくるんじゃ」
「ほー、そうか」
武市はまだピンと来てないようだった。でも龍馬は上手く説明できたと思っていた。
そしてもう一度男を振り返る。ぽっかり空いた虚空のような男。全てを吸い込むような眼で、前しか見ない男。
「おまん、名前は何ちゅう?」
男の代わりに、武市が答えた。
「岡田以蔵じゃ」

* * *

幕末――。

土佐に吉田東洋という人物がいた。私塾を開き、幕末の土佐藩の動向に大きな影響を与えたという。
文久二年(一八六二年)四月。吉田東洋は何者かに暗殺された――。

「何故、先生が……」
土佐藩主の参勤に従って、京都へ来ていた土佐藩士、井上佐市郎にもその知らせは届いた。
「いったい誰が……誰が先生を殺したんじゃ!」
しかし、佐市郎には思い当たる人物がいた。
「――武市か」

武市半平太。土佐藩士で、昨年江戸で『土佐勤王党』という一派を結成する。
尊王攘夷を推進する派閥で、参加者も二百を超えるというが、その余りに過激な思想について行くことが出来ず、最近は脱退者も増えてきていると言う。
そして吉田東洋はその土佐勤王党とは正反対の意見を持っていたのだ。

佐市郎は、吉田東洋暗殺犯が土佐勤王党であると立証するため、調べ回っていたという。
そしてある夏の日――大阪、心斎橋にて、道頓堀に浮いているのが発見された。

* * *

冬――江戸。

「京都は物騒じゃのう……」
瓦版を読みながら、龍馬は呟いた。

春に脱藩した後、大阪へ潜伏し、夏に再び江戸の千葉道場へ身を寄せ、勝海舟の門下生となっていた。
そして海舟の口添えにより脱藩の罪は放免となった。

「先生、気をつけて下さいよ」
京都で開国論者や、佐幕派を狙った暗殺が相次いでいると書かれた瓦版をヒラヒラと振って、京への旅支度を整える海舟に示した。

「闇討ちじゃぁ、気をつける事もできないよ」
「じゃけども……」
龍馬は珍しく眉をハの字に下げて、困った顔をしていた。
自分が吉田東洋の暗殺を疑われ、脱藩の罪で追われていた時でさえ笑っていたのに、自分の手が及ばない他人の事となると心配しすぎな程に心配する。
「そうじゃ!」
突然、勢いよく立ちあがるとぐっと拳を握った。
「わしもお供しますき!」
「しかし、お前はもう刀を抜かんと言ってるそうじゃないか。そう簡単に誓いを破ってはいけないよ」
「確かにわしは先生の用心棒にはなれんが……先生に用心棒を紹介する事はできます!
よーし、そうと決まれば、早速支度してまいります!」
「おい、こら……」
海舟の制止も聞かず、龍馬は飛び出した。
……しかし聞いたとしても止まらぬだろう。坂本龍馬はそういう男だ。

* * *

京都に来た龍馬が向かったのは――土佐勤王派の武市半平太の元だった。
「どの面下げて来たか、龍馬」
「この面じゃ」
「……相変わらず、厚い面の皮じゃ」
「この厚さがあったから、今まで生きてこられた」
「はぁ……お前の面を切るには、相当の腕が必要じゃな」

実は龍馬が脱藩したのは、この武市半平太の土佐勤王党との考えの違いからだったのだ。
とは言っても元々遠縁同志だし、離反するにも喧嘩はしたが、ぐちぐちとモメたわけではない。
これが脱藩以来の再会だが、特にわだかまりがあったわけではなかった。

「で、何の用じゃ、龍馬」
「岡田以蔵を貸しちょくれ」
「……なんじゃと?」
「実はな、勝先生が京都に来ちょる。その護衛を頼みたい」
「馬鹿な! 勝といえば、佐幕開国派の筆頭じゃ! 何故、尊王攘夷派のわしが手を貸さなきゃいかんのだ」
「 手を貸すのは、武市さんじゃのうて、岡田じゃ」
「同じ事じゃ」
「 いや違う――岡田は尊王攘夷派じゃない」
「なんじゃと?」
「 といっても佐幕派でもなければ、開国論者でもない。強いて言えば――武市派じゃ」
「つまり尊王攘夷派じゃろう」
「前に、言った事があろう。あの男は空じゃ。雲一つない、武市半平太という色に染まった空じゃ。
もし武市さんが、いきなり開国論を唱えても、その次の日にまた攘夷派に戻っても、あの男だけは最後までついてくる」
「……あやつは、思想という物をもっとらんからな」
「何も考えのない人間がおるか。何考えてるかわからんと言われちゅうわしにだって、考えぐらいもっちょる」
「いいや、あやつは本当に馬鹿じゃ。尊王と佐幕の区別さえついとらん。攘夷と開国の事すらわからん。だから言われるがままに行動する」
「武市さんを信頼しちょるからじゃろ」
「どうだか」
武市はフンと鼻を鳴らす。
元来、武市はあまり人を悪く言う人物ではない。しかし、岡田以蔵の事を話す時は、酷く見下した態度を取った。
龍馬もそれは少し気になった。しかし――そこに取り入る隙があるのも、見て取っていた。

「……そこまで物が解らぬなら、大丈夫じゃないかのう」
「何?」
「勝先生が何を言うても、わしがどう口車に乗せようとも、岡田には無駄っちゅうこっちゃ。
まして武市さんの考えすら解ってないのなら、武市さんの動きが漏れるわけでもなかろう」
「うむ……」
「勝先生が、京都におる間だけでいいき。土佐に居た時も、よく貸し借りしとっちゃろ?
ここはわしと武市さんの仲っちゅう事でどうか一つ」
「あのなぁ、龍さん。足らなくなった醤油を、夕飯時貸すのとはわけが……」
「醤油に思想はない。なら岡田も同じじゃき」
「うぐ……」
自分の言った言葉で返されては、ぐうの音も出なかった。
「それに……岡田も乗り気なようじゃ」
いつのまにか、後ろに岡田以蔵がいた。武市はまるで幽霊を見たような目で固まったが、以蔵は前にすっと進み出て、姿勢を正し頭を垂れた。
「以蔵……」
「武市さん、岡田は強いんじゃろ? じゃったら、その腕を一度くらい役立たせてやってはくれんかのう?」
武市は腕を組み、考え込んだ。そして大きくため息をついた。
「勝手にしろ、ただしわしは一切知らん。龍さんと岡田が同郷のよしみで、勝手にやった事じゃ。武市半平太の名前は一切出すな」
「助かっちゅう、武市さん」
「だから、わしは知らんと言っちゅうに!」
大きな音を立てながら襖を閉めて、武市は去って行った。

* * *

「それじゃぁ、勝先生、わしはやる事があるき、これで失礼します」
龍馬はそう笑いながら、半ば勝海舟に岡田以蔵を押しつけるように預け、京都を去って行った。まったく忙しい男である。

海舟はどこに行くにも以蔵を連れていた。いや、以蔵がどこに行くにもついて来た、と言った方が正しい。
以蔵は、何も喋らなかった。海舟が何か問いかけても、首を縦か横に振るだけで、一言も発しなかった。
特に日本の将来の話をした時は、どこか上の空で、目の前にいるにも関わらず本当にここに在るのかすら解らなかった。

そしてある夜――。
突然、人影が現れた。勝もまた剣の使い手だったが……
――三人か……。
流石に、夜の闇の中、複数人を相手するのは困難だ。
――岡田君はどこだ?
以蔵は、龍馬の同郷の男である。……その事しか龍馬には聞かされてはいなかったが、土佐藩は海舟と正反対の思想である尊王攘夷を掲げている藩だ。
――まさか……いや、あの坂本君の紹介だ……しかし……
「覚悟ぉおおお!」
男は踏み込んだとたんに倒れた。穴の空いたの瓢箪ように赤い酒が吹き出した。
そして、月の光が……その赤い酒を浴びた人物を照らした。

生々しい臭いに染まった夜の空気を、月の光を、そして魂を――彼の周りにある全てを吸い込むような虚空の目。
吸い込まれたら……無限の距離を落ちていく……。その目から逃げるように、男たちは逃げだした。

「弱いくせに……何の用じゃ!!」
初めて聞く以蔵の声は夜空に高く響き、秋空のように澄んでいた。

「……岡田、君?」
海舟の問いかけに言葉を発さず、ただ頷いた。
「何故、殺してしまったんだ?」
「何故って……そうしやーせんと先生の首が飛んじょった」
そう言って不思議そうに首をかしげた。

* * *

「……勝の前で、人を殺したそうだな」
勝が江戸へ戻り、武市の元に戻った岡田は、奥の間に通されて、問いただされた。
「はい」
何の戸惑いも見せず、はっきりと答えた。

「なぁ、以蔵……わしがぎっちり言うちょる事……解っちゅう、よな?」
「帝に国政権を返し、メリケン人を追っ払うんでしょう」
「勝の話は聞いていたか? なんと言っちょったか、解るか?」
以蔵はしばし考えて、答えた。
「幕府と……メリケンの、橋渡しをしたい……」
「よしよし。なら、解るよな? わしの考えと、勝の考えが違うと」
以蔵はしばし考えて、答えた。
「……勝が、幕府とメリケンを仲良くさせた所を、叩けばいいのでは?」
「阿呆が、そういう事を言うちゅうがない!」
武市はわざと大きくため息をつくと、初めて以蔵は困った顔をした。
「……いいか、以蔵。解りやすう例えよう。勝とわしは、競争してるんじゃ。人を多く集めた方が勝ちじゃ。ここまで、いいな?」
「はい」
「百人のうち一人でも多く集めた方が勝ちじゃ。けんど……その結果は、それぞれ五十人づつなんじゃ……引き分けじゃいかん、勝たなければならん。解るな?」
「はい」
「けんど、これ以上もう人が居ないとなった時どうやって勝つか……ほりゃぁ相手の集めた人間を奪うんじゃ」
「なるほど」
「武市半平太の土佐勤王党にゃ、同志討ちする阿呆がおる。阿呆がおる集団の大将は阿呆じゃ。などと噂が立ったらどうする?」
「立てた奴を殺しましょう」
「このべこのかぁが!!」
武市は、文机に置いてあった文鎮を投げつけた。以蔵の肩に当たり、床に転がった。
「おまんが殺したのが何者か……。ここまで言って何故わからんのじゃ!」
「……まさか、土佐勤王党の誰かだった……とか?」
「そうとは限らん。けんど……世間はどう見ると思う?! 解るか?! 解らんよな?! 解らんから、おまんは斬ったんじゃからなぁ?!」
目を見開く以蔵を睨み、武市は荒くなった息を整え、大きくため息をつくと、頭を抱えて机に肘をついた。
「刺客を差し向けたのなら、オレに命令してくれれば良かったがないですか? オレはずっと勝と一緒にいたんぜよ?」
「お前は本当に阿呆じゃ……龍さんも、相当の馬鹿じゃが、頭は切れる。阿呆やない……おまんはただの阿呆じゃ……」
声を押し殺し、悔し涙を流す武市を以蔵はただ困った顔で見つめていた。
「……以蔵。わしは土佐に戻る。けんど――おまんはついてくるな」
「何故ですか?」
「それくらい、自分で考えろ」
武市は襖を音をたてて閉め、去って行った。

* * *

その後、京洛に一人残された以蔵は、武市に言われた通り、名を変え、土佐勤王党の事も武市の名も口に出さず、宿を転々としながら考えた。
何故置いていかれたのだろう。 どうすれば認めて貰えるのだろう。
そんな事、阿呆でも解る。武市に……『土佐勤王党』に貢献すればいいのだ。
置いていかれたのは、それが出来なかったからだ。

では、どうすれば良いのだろうか。

――先生が、やっちゅう事は、人集めの勝負らしい……。

自分は武市や勝のように頭がいいわけでもなければ、龍馬のように口が上手いわけでもない。
自分に人は集められない。ならば――

――“尊王攘夷”でない奴を……減らせばええがやか?

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